説教要旨    イザヤ35・5−10、     1ペトロ5・12−14            2025.8.31
「主と結ばれる恵み」

今日の説教の結論は5・12「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。

1.ペトロはこの手紙を終えるにあたり、最後にもう一度信仰の核心を明確に語った。「この恵み」とは何であるか。その直前の「神のまことの恵み」を受けている。たんに神の恵みと書かないで「まことの恵み」とある。この恵みは人間が作りだした恵みではない。神の恵み、それを「まことの恵み」と言っている。キリストは言われた。「わたしはまことのブドウの木。あなた方はその枝である」(ヨハネ15・1)。まことのブドウの木とは、不完全に対して完全な、酸っぱいブドウに対して、必ず甘い実を結ぶ完全なブドウの木である。とキリストは言われた。偽物でない、真実の、本物の完全な神の恵みにしっかり踏みとどまりなさい。この箇所のいくつかの日本語訳を読んでみると、口語訳「この恵みのうちにかたく立っていなさい」。新改訳「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい」。文語訳「汝等この恩恵(めぐみ)に立て」。いずれも、「立て」という言葉を使っている。「踏みとどまれ」というのは、いつ倒れるかもしれない不安を内包しているようなニュアンスで、それを何とか持ちこたえよ。これに対して、口語訳、新改訳、文語訳は、いずれも、このまことの神の恵みによって、倒れていた者も、もう一度、立て、立ち上がれ。この世のどんな困難や嵐にも決して崩れることのない、完全な神の恵みの岩の上にしっかり堅く立て、と言っている。その前の10節には「あらゆる恵みの源である神、御自身があなた方を完全なものとし、強め、慰め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださる」とある。「完全な者とする」。この言葉は、魚をとるために網が破れる。その網を繕うという言葉である。人生のさまざまな苦難や困難で破れを経験するわたしたちの人生の網を、心の網の破れを神は繕い、強め、力づけ、もう一度新しく魚を捕ることができるように網を繕ってくださる。それが「神のまことの恵み」「恵みの源である神がイエス・キリストを通して」そのような業を行ってくださる。

2.最近読んだ本に、『年を取るレッスン』(結城いづみ、いのちのことば社、p63)その中に「忘れるという恵み」という項目があった。そして「シルバー川柳」が引用されていた。「探し物やっと探して置き忘れ」「動かないエレベーターや押し忘れ」「物忘れ 日々感動で新鮮だ」。「聖書を読むたびに、素晴らしいと初めて読んだかのように感じ入るのです。何度聞いても初耳だという心境なんですね。これって、人生の最後に与えられた、とんでもない恵み、大きな恵みだったのですね。過去を引きずらない。縛られない。新しい人生のスタートを日々迎えて生きるように招かれているのですから。」
 この最後の文章を支えているのは、今日の聖書の言葉、恵みの源である神が、日々新しく生きるように、イエス・キリストを通して私たちの人生の破れを繕ってくださっているからだ。イエス・キリストによる罪のゆるしの恵みを日々新しく味わっていくことだ、ということを教えられました。

3.過去を引きずらないで、むしろそれを断ち切り、縛られないで将来に向かって歩んでいく。そこに年齢はいくつであっても、その年代年代にふさわしい新しさがある。この手紙を受け取っている教会は、1・1「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」である。ひとつひとつの教会の具体的な様子は何も書いていない。2章の終わりに、召使たち、夫と妻、5章に長老たちへ、とある。これらはいずれも、各教会に共通していたことであった。このペトロの手紙は、繰り返し神の恵みと平和を語ってきた(1・2、2・3、2・11,4・12)と同時に人生の苦しみ、困難に対していかに生きるべきかを繰り返し書いている。これは離散し、仮住まいの、避難所暮らし、故郷喪失者たち、バビロンに捕囚を経験しているような現実を、また信仰のゆえに不当な苦しみを強いられる、迫害を受けるという共通の現実があった。そのようなところで苦労している各地のキリスト者たちに向かって、ペトロは勧め、慰め、励ましの手紙を書いた。

4.「いつの時代も、人々は神の恵みを求めてキリストを信じました。わたしたちだってそうです。でも神の恵みを受けているはずなのに、どうして苦しみに遭うことになるのか。それがキリスト者を苦しめる疑問でした。なぜか。その理由ははっきりしています。ほとんどの人が神の恵みを、安全、繁栄、成功、幸運のことだと考え、その身に悪いことや不幸が起きないように、そのために神を信じているからです。それなのに、神を信じたら逆に苦しみに遭うとは、いったいどういうことでしょうか。こうした疑問を抱いて悩む、はるか東方の僻地に住むキリスト者に、ペトロは神の恵みとは何かをあらためて思い起こさせたのでした。神の恵みとは、幸運のことではありません。神の恵みとは、キリストとむすばれているということです。それがペトロの手紙の核心部分です。世の多くの人々が神の恵みと信じるものは、どれも朽ちて失われるものにすぎません。今日は栄えていても、明日は枯れてしまう。今日は持っていても、明日には失われてしまう。そのようなものにすぎません。今日は元気だからと言って、1年後も元気だと誰が保証できるでしょうか。キリストを信じているかいないかに関係なく、わたしたちには労苦も、挫折も、災いも、病も訪れます。しかも、キリストを信じているのであれば、むしろそのことのゆえに不利益や苦しみがある。ペトロはその事実をわたしたちに示します。しかしペトロはその先を告げます。キリストのゆえに苦しむことは、キリストに結ばれている証拠であり、キリストと結ばれてキリストと共に、復活の望みを抱いて生きる。この恵みにしっかりと踏みとどまりなさい。」「キリストに結ばれている。その絆は物理的な繋がりではありません。目に見えない、霊的な、信仰の絆による繋がりです。・・わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。キリストを信じること、その信仰の絆が、わたしたちとキリストをつなぐのです。わたしたちがキリストを信じるなら、私たちの生涯はキリストと結ばれ、キリストと共に生き、キリストと共に死ぬ生涯です。キリストを信じるなら、キリストと共に甦らされると信じます」(石田学)。キリストの中に(in Christ)わたしたちは生きる。キリストは無尽蔵の富を持っている。青森県にある十和田湖は透明度が高いことで知られている。その理由は湖の底に泉があって、そこから水が絶えず湧き上がっているからだという。キリスト者の生活にも隠れた泉がある。それはキリストという泉である。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が沸き上がる」(ヨハネ4・14)。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(2・2)。神の言葉を学び、聖霊を与えられて、罪の汚れを浄められ霊的に成長していく。これがいつも新しい礼拝の恵みである。

5.最後に目を向けたいのは、「神のまことの恵み」は一人一人の信仰に働きかけるだけでなく、わたしたちは「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(2・5)。しかもキリストはわたしたちの教会だけでなく、全世界の霊的な家の土台石、隅の親石である。その壮大な全世界を包含する時代と場所を超えた教会のわたしたちは小さなしかし、「生きた石」(キリストとの生きた関係)となって連なっていく。礼拝の民に「大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ」「主御自身がその民の先頭に先立って歩まれる」(イザヤ35・8)。神の民は「とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(イザヤ35・10)。天にあるシオン、永遠の支配者である神に向かって、喜びの行進をする礼拝の民の姿がイザヤによって預言されている。なんと希望に満ちた歩みではないか。