説教要旨 詩編130・1−8 ローマ2・1−11
2026.9.27
「神の愛を軽んじるな」
今日の説教の結論は、2・4「神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐の富とを軽んじるのですか」
1.ユダヤ人とギリシア人たちとの互いの対立は、昔からあった。ユダヤ人たちは自分たちは神の律法を与えられ、割礼を受けて、神によって選ばれた民族であることを信じていた。これに対してギリシア人たちは、自分たちは優れた文化的に高い民族であるという自負心があった。だから自分たち以外の民族は未開の野蛮人として軽蔑していた。そこで互いに裁きあう現実がローマの教会の中にもあった。例えば14章で信仰の弱い人は野菜しか食べない。それが今日の2・1には見える。「すべて人を裁く者よ。あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」第二次世界大戦時に、日本には「八紘一宇」(はっこういちう〕全世界を一つの家にするという、考え方があり日本民族の海外進出・侵略、大東亜共栄圏を正当化するスローガンとして掲げられた。民族でないが、もっと身近な小さな家庭でも、夫婦の間でも互いに裁きあっている現実が毎日のように起こっている。1章の終わりに「不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、邪念、陰口、そしり、神を憎む。人を侮り、高慢で、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲。」このような人間の言動は自分が相手を裁いていく結果となっている。また相手から裁かれる。このような対立、裁きあう日常が身近なところにも存在している。
2.これに対して、聖書は人間同士の裁きでなく、「神の裁き」が存在することを語る。2節「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」3節「あなたは神の裁きを逃れられると思うのですか。」5節「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」人間は互いに裁きあうことがあるが、その時、人間は神の裁きを忘れている。13・19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒り任せなさい。復讐はわたしのすること、わたしが報復すると主は言われる、と書いてあります」。14・10「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」自分が神によって裁かれる時がある、ということを知る時、裁きの剣を収め、神の裁きに委ねればいいという判断ができるようになる。ヘブライ9・27「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」。
裁きの主権は神の御手の中にある。人間は自分が神のようになって、人を裁いてはいけないのだ。わたしたちはこの世にあって、神の裁きの御手を畏れて慎み深く生きよ、と勧めている。
3.では、そのうえで、わたしたちは具体的にどのように生きていったらよいのか。パウロはただ私たちを脅すために、神の裁きを語ったのではなく、神の裁きと同時に、神の御手の中には、神の憐みが存在することを語っている。それが4節「神の憐みにはあなたを悔い改めに導く」という大きな目的がある。口語訳聖書は「神の慈愛があなたがたを悔い改めに導く」とあった。
神の裁きではなく、神の憐み、神の慈愛が、わたしたちを、神への悔い改めへと導いて行く。そのような生き方を、神はわたしたちのために用意しておられる。パウロは福音の説教者として、「悔い改め」を語っている。悔い改め、神の方向に向き直って歩み出す行為、業である。神に向かって具体的に歩き出すことであり、単なる反省ではない。人間の「心」には、「ころころ変わる」、という説がある。人間の心、そのもっとも奥深い所が、神に向かって歩みだす、その動きが心の中に生まれ、行動となっていく。裁きに遭ったらひどいぞ、と言って脅すようなありかたでなく、監獄に入れられた罪人が刑罰を恐れておののき、悔い改めるか。それは一時的なことで、聖書の言う悔い改めではない。心、思いが神に向かって歩き出す。そういう変化が生み出されるところ、それは。刑罰(鞭打ち、重労働だとか)からは生まれない。神の慈愛、神の一方的な愛。罪深い人間が神に許されて、神の愛によって魂が呼び覚まされる。自分のような相手を断罪することしかできないような罪深い者が赦される道がここにある。神が自分のようなものを、一方的な慈愛と忍耐と寛容とをもって導いてくださる。人間のしくじりに対して神は寛容である。頑固で悔い改めない心を、神は忍耐して待っていてくださる。その慈愛があればこそ、わたしたちは手をあげて白旗を上げて降伏することができる。そのような慈愛の神の御懐に飛び込んでいける。その素直さが、悔い改めの心である。ルカ15章に主イエスの放蕩息子のたとえ話がある。弟は親の財産の分け前をもらい、放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。何もかも浪費してしまった後で、その地方に飢饉があった。食べることにも窮し、その地方のある人のところへ行って身を寄せたが、その人は彼を畑にやって豚をかわせた。豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思ったが、何もくれる人はいなかった。そこで彼は本心に立ち返り、わたしは天に対してもあなたに対しても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人同様にしてください。そう決心して、立ち上がって父のところに出かけた。父親は遠く離れていたのに、彼を見るや憐れに思い、走り寄りその首を抱いて接吻した。さあ、最上の着物を着せ、指輪、履物を履かせ、肥えた子牛を屠れ。こうして祝宴が始まった。このように心も体も神の慈愛の恵みによって平安と愛に満たされる。これこそがわたしたちに与えられた礼拝の恵み、聖霊によって新しくされる恵みの宝がこの礼拝にある。これはこの世のお金や学問や能力では手に入れることのできない。ただ神の御懐に飛び込んでいく素直さ、十字架の愛の中に自らを投げかけていく信仰によってのみ、わたしたちは新しくなる道が備えれている。これは驚くべき巨大な恵みの宝である。
4.最後にこの慈愛の富を軽んじるな、と言っている。わたしたちに神の裁きがまだくだっていない。それで自分は安全だと思っている。それは神の裁きがないことだと侮ってはならない。神が直ちに罰せられないのは、神の無力さの印ではなく、神の寛容と忍耐の印である。若者が両親に対して恥と悲しみと心に痛みを伴う罪を犯したとする。愛の内に赦されて何の拘束も受けなかった。赦しに対して二通りの態度がある。再び赦されるという事実を利用して同じ悪を繰り返すか、受けた自由と赦しに感謝して驚き、喜びつつ、それにふさわしい全生涯を過ごそうとするか。神の憐みと愛を罪を犯し續ける口実として利用することは、この世で最も恥ずべき行為である(バークレー)。
わたしたちの歩む道は、困難の中にあっても「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐の富を軽んじることなく、」神の慈愛を深く受け止めこれを重んじ、それらの恵みを十分に受けて、「召し使いたち、善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうし〔従い〕なさい。」「夫が御言葉に従わない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」(1ペトロ2章)。
神は「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになる」(7)。この道を今週も歩んでいこう。