説教要旨     イザヤ43・8−12      エフェソ3・1−9        2026.1.4
「キリスト・イエスの囚人」

今日の説教の結論は3・1「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは…」

1.ここに衝撃的な言葉がありました。「囚人」という言葉である。パウロが獄中から書いたといわれる手紙(獄中書簡)の一つがこのエフェソの信徒への手紙である。パウロがなぜローマの獄中に入れられるようになったかの理由について、使徒言行録の終わり28章で、「パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。」ローマでの軟禁状態のような下で、パウロは筆記者をそばに置き、自分は口頭で話しながら筆記させたと推測されている。ある方は次のように解説している。「こういうわけで」といい、今まで(1,2章で)述べてきた事を受けて、次の段落に進もうとした時、ふと、パウロの口は止まった。論理的には14節に続く。今までキリストの福音の大きさ、神の大きな働きを述べてきて、突然中断した。間をおいて自分自身ことを語り出した。自分の存在や生き方にかかわらないような福音は存在しない。分は、パウロの内面に関わるようなことに触れている部分である。自分は今この世の法から、このような軟禁状態におかれているが、自分自身を本当に支配しているのは、キリストの恵みである。自分はローマ社会の奴隷なのではなく、キリスト・イエスの囚人である。4・1でも繰り返されている。

2.7節では「〔イエス・キリストの〕福音に仕える者」、口語訳聖書では「福音の僕」と訳されている。岩波訳は「福音の奉仕者」とされた。パウロはここで、自分をキリスト・イエスに徹底して「仕えるもの」「奉仕者」「給仕者」、「僕」奴隷は自分の意志を持てない。主人の命令に完全に従うのみ。そういう意味で、単なる奴隷でなく、キリスト・イエスのすばらしさに飲み込まれて、自分が消えてしまった。その意味で、「囚人」という言葉を使っている。人間は実際の囚人でなくとも、何かにとらわれ、何らかの鎖に縛られている面がある。お金(この世の経済)、自分の欲望、自分の名声、権力、拍手喝さい、うぬぼれ、自慢、反対に自分の劣等感、自分の失敗、自分の弱さ、この世の価値観、健康至上主義、持ち物、挙げればきりがない。このように人間は何かに縛られている。この世の奴隷になっている。それは「囚人」ということである。これに対して、パウロはこの世の鎖ではなく、キリスト・イエスの恵みの囚人なのだ。キリストの恵みの中に閉じ込められているのだ。3節「はじめに手短に書いたように秘められた計画が啓示によってわたしに知らされた。」秘められた計画は、「奥義」と口語訳では訳されていた。それは秘められたもの、隠されたものであったが、異邦人もその神の恵みに与ることができるようになった。イエス・キリストによって明らかになった。それが啓示という意味である。7節「 神はその力を働かせて、わたしに恵みを賜り、この福音に仕えるものとしてくださいました」。神は天地を造られた全能の神であるだけでない。これだけだとあまりに大きくて、その神の力がかえって良くわからない。1・19「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ」とあった。某有名女優が、立派なイス、立派なテーブル、豪華なソファ、に取り囲まれて、ベッドの下で死んでいた。病気を発症し、最後は孤独死であったという。ああ、これが人間の姿なのか。神の福音の奥義が、イエス・キリストによって明らかに啓示されたことは、イエス・キリストこそ、罪と死の勝利者であり、人生の勝利者であり、復活者となって、新しい命を与えてくださったことであった。パウロは、自分はこの福音の奥義を知らされ、この福音の僕、奉仕者とされた、その幸いと勝利を胸を張って語っている。

3.パウロは更に8節で「この恵みは、聖なる者たちすべての中で、最もつまらない者であるわたしに与えられました。」という。「最もつまらない者」とは、聖書学者の説明によると、「最も小さい者の、それよりも小さい」という、「最も小さい」の比較級である。パウロの造語といわれる。確かに、1コリント15・9には「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」とある。パウロには「(キリスト者の)家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(使徒8・3)歴史があったのも事実である。「最も小さい者の、それよりも小さい」はパウロの謙遜の表現なのだろうか。次の説明を読んで納得できた面があった。「一番小さいというのは、どういうことでしょう。小さい、大きいというのは、大きさの問題ではない。人間としての力量から言えば、パウロよりも優れている人はそういないと思う。パウロもそのことはよく知っていたはずである。それなのに、最も小さいものというのは、謙遜した言い方でありまでょうか。そういうことはいくら、謙遜しても、本当に謙遜することにはなりにくいと、思います。そのようなことは人間の大小を定める定め方にはならないのであります。自分を本当に小さいと、思うには他のことがあるのです。1テモテ1・15に「わたしは罪人のかしらなのである。」とある。罪人のかしらというのは, 最も大きな罪人であるということで、したがって聖徒らの中で、最も小さい者となるに違いありません。人間の立場から言えば、パウロが罪人の頭であるとは考えられないことである。彼よりも罪人である者はいくらでもいた。それどころかパウロほど正しい人はめったにはいなかったかもしれません。彼は神の律法を厳守するパリサイ派で厳格に修業した人であります。それにもかかわらず、彼が罪人のかしらであると申した事は正しいのであります。パウロは他の人に比べてこれを言っているのではない。彼が罪人と言っているのは、神の前において自分が罪ある人間であるといっているのである。それは何がどうあっても曲げることのできないことであったのです。神の前に出て自分を見ると、パウロだけでなく、どの人も自分は罪人のかしらであると告白しないわけにはいかないのであります。」(竹森満佐一)

4.このように本当に神の前に小さいものとされた時に、人は初めてキリストの恵みの大きさが見えてくるのである。神は自分を最も小さい者と自覚した人間を恵みの中へと選んでくださる。「神は自信に満ちた人に、大きな仕事を託すことはなさいません。神の前に出て、自分の貧しさを知り、神の恵みを知ったものには、神は神の業をゆだねられる。パウロの場合はそれが異邦人伝道でありました。」(同上)。パウロの異邦人伝道は「キリストの計り知れない富」8節(口語訳は「キリストの無尽蔵の富」と訳していた)を告げ知らせ伝えることであった。キリストの恵みは無尽蔵である。人間の足で歩いて歩きつくせない、という意味である。「湖のほとりを歩き回っている人のようである。ふと気が付くと、それは湖でなく、大海の腕のように入り込んだ所であって、自分は測り知ることのできない大きな海にぶつかっていたことに気が付くのです。」(同上)。万物の造り主である神の中に隠されていた神の御計画(経綸)はイエス・キリストにある神の無尽蔵の富として示された。わたしたちはその恵みの囚人としてこの1年礼拝を忠実に守っていきたい。