説教要旨 詩編139・11−18 ローマ2・12−16
2026.10.4
「隠れている神の主権」
今日の説教の結論は、ローマ2・16「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」
1.かつての口語訳聖書はこの部分を「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、あきらかにされるであろう。」リビングバイブルは「キリスト・イエスが、すべての人の心の奥底に潜む思いや動機を裁かれる日が、必ず来ます」。要するに、神は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、人間の心の奥底までも見抜かれ、その罪を裁かれる日が必ず来る。
神はユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、決して人を分け隔てなさらず、律法を知らないで罪を犯した異邦人も、律法を聞くだけで行わないユダヤ人も、いずれも神は共に裁かれる。神は「分け隔てしない」。これはもともとは顔で判断しない、という意味である。旧約聖書において、すでに記されていた神の姿であった。
申命記10・17「あなたたちの神、主は、神々の中の神、主なるものの中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂をとることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して、食物と衣服を与える。」
ヨブ34・19「身分の高い者をひいきすることも、貴族を貧者より尊重することもないお方」、それが主なる神である。
歴代誌下19・7「わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない(不義がなく、人を偏り見ることなく、まいないをとることもない、口語訳)」。すなわち、神は外面でえこひいきするような神ではなく、神の目をごまかすことはできず、神は顔、外面でなく、人間の心の中を見られるのである。預言者ナタンによって、王ダビデがその姦淫の罪を指摘されたときに、罪の告白をした詩編51に、次のような言葉がある。
「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。(汝、真実(まこと)をこころの衷(うち)にまでのぞみ、文語訳)それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。ヒソプをもって、わたしを清めてください。わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください。わたしは雪よりも白くなるでしょう。」「あなたの受けられるいけにえ〔犠牲の捧げもの〕は、砕けた魂です。」(口語訳)。「滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エフェソ4・22−24)。
2.16節 人々の隠れた事がらを明るみされる日が来る。神の「裁きの日」が来る、「その日」に、神の裁きがなされ、隠されている人間の罪が明るみにだされるであろう。逆に言うと、神の裁きの日、終末の日が来るまでは、これは先週読んだように、神の慈愛と寛容と忍耐が示されている時である。それは神の「裁きがない」ということではない。
ペトロの手紙�U3・8「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやってくる。」しかし、どんな大きな地震や津波でも、それを外から、対岸の火事として眺めているだけでは時と共に、人間の記憶は風化していく。そのことを通して絶対者に出会っていく経験、魂への衝撃、何らかの傷が心身に刻まれなければ、記憶は失われていく。そのことを通して神の御前に撃たれ、神の御前に打ち倒され、魂に消えないしるしが刻まれたときに初めて、その経験はその人の中で消えないものとなっていく。それが神との出会いとなっていく。神の裁きなど全く存在しないと思い、そう信じている人も多い。それでも肉体的な死は避けることができない。そこで「死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』(1コリント15・32)という生き方しか出てこない。更には、この世には不条理の現実がある。
3.コヘレトの言葉5・7「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても驚くな。」7・15「善人がその善のゆえに滅びることもあり、。悪人がその悪のゆえに長らえることもある。」7・20「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない」8・11「悪事に対する条例が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事を働く。罪を犯し百度も悪事を働いている者が、なお長生きしている。にもかかわらず、わたしにはわかっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない。この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。」
この世の矛盾、善人と悪人の転倒した様々な姿がこの世に存在していることをコヘレトは冷静な目で見ている。最後には次のような言葉を語った。12・13「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。神は善をも、悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。」ここに至って、コヘレトは全能者である神の御前に立って、わたしたちをその主権の前に導いている。
4.神の主権は、この世にあっては、しばしば人間の罪の力によって覆い隠されて見えなくなっている。しかし神はこの闇を打ち破って、わたしたちを神の光の前に立たせてくださる。2・16について、次のような翻訳を読んだ。「〔神は〕キリスト・イエスによってもたらされた、わたしが告げるこの福音に照らして、日々人々の隠されたところを裁いておられるのです。」(本田哲郎個人訳)。この翻訳は、終末の裁きに焦点を合わせているのでなく、むしろ、神は、日々、新しく、人間の隠された心を神の御前に立たせる。ということを強調している訳である。「わたしたちの一切の隠れた事がらが裁かれる日に明らかになる、というのである。その日、明らかになると言えば、先の話のようであります。しかしそうではなくて、今も、イエス・キリストによれば、明らかなことである、ということである。現在も未来もない。今、この時から、かの日にも、ただ、イエス・キリストによって、知られることであります。福音を自分のものにしている自分には、それがよく分かるのであるといいたいのである。」(竹森満佐一)
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていた時に行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5・10)。そこにわたしたち一人一人の「わたし福音」、それは神の福音やキリストの福音と違うものではない。しかし、自分が受け入れて、信じて、救われて、自分の生きるための唯一の望みとなった福音が必要なのである。このキリストの福音を堅く信じて、キリストの裁きの座、という神の主権の前に立つのである。
わたしたちは、この世では矛盾も多い世界であるが、救い主がここにいる。裁き主がここにいる。この確信の下、このキリストと共に今週もキリスト者として、歩んでいこう。