説教要旨 詩篇143編1−6節 マタイ福音書26章31−46節 2026.3.22
「罪に引き渡された主」

今日の説教の結論は、26・45の、主イエスの言葉「人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。」聖書はこの目的に向かっていく主イエスの姿を記している。

1.36節「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ゲッセマネとは、オリーブの「油を搾る場所」という意味である。付近にはオリーブの木々が生え、中に入ると人影から遮断されてしまうので、祈るには適した場所であった。ペトロ、ゼベダイの二人の子、ヤコブとその兄弟ヨハネを伴った。ペトロはのちのローマ教会の礎となった。ヤコブは真っ先に殉教の死を遂げた。ヨハネは長く生き延びイエスの母と共に生活し、後にヨハネ福音書を書くことにより、貴重な信仰の遺産を残した。イエスの目に狂いはなかった。イエスは悲しみ、悶え始められた(37)。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(39)「うつぶせになり祈り、父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈った。うつ伏せとは、地面に叩き付けられるように、地面にひれ伏すしかないような状態をさす(マルコ14・35)。まさに、オリーブの実が圧搾機でつぶされるように、イエスは悲しみに押しつぶされたのである。この杯を取り去って欲しいと願った。杯は幸福な救いを表す場合(詩23・5)もあるが、ここでは神の怒りと審判を指す、神の憤りを示す苦しみの杯を指す。イエス・キリストは神の子だったから、十字架の苦しみもそう大変じゃなかったと思う人がいるかもしれないが、そうではない。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)。イエス・キリストはわたしたちと同じ肉をもって生まれた。「この苦しみの盃、この運命をわたしから過ぎ去らせてください」と祈った。イエス・キリストのこの祈りは、わたしたちにとって深い慰めである。わたしたちも、人生の旅路で何度このような祈りをしなければならないことがあるだろう。
 イエス・キリストには、わたしたちの中に流れている血と同じ血が流れている。   「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4・1−16)。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を挙げ、涙を流しながら御自分を市から救う力のある方に祈りと願いをささげ、その恐れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ5・7−8)。これがわたしたちの救い主イエス・キリストの肉をとられた姿である。イエス・キリストはこのゲッセマネでの苦しみ悶えの苦悩の経験を通して、神への従順を学んで行かれた。わたしたち自身に先だって肉の苦しみを体験しておられる。わたしたちにも本当に神の前にひざまずいて、もだえ苦しむような祈りをしなければならない時がある。主イエスの姿はわれわれの先手に備えられた神の手本である。その跡を従順になぞっていくことが示されている。

2.イエス・キリストはこの苦しみ、叩きのめされる経験から何を学ばれたのか。それは自分の願いが聞かれないという体験であった。イエスは3人の弟子たちに、「共に目を覚ましていなさい」と命じた。ところが3回(40,43,44)も弟子たちのところに戻ってきたとある。ある説明を読んで納得できた面があった。これは祈りへの答えが与えられなかったことである。「この〔苦しみの苦き〕杯(運命)を取り去ることを父〔なる神〕は欲しなかった。しかし「我汝をほふるべし」とか「汝、この杯を取りて飲め〔飲みほせ〕」とか、ということを積極的に宣告することは、父なる神の御心として到底なすに忍びないことであった。ゆえに、神はイエスの哀願に目をつぶって答え給わず、消極的に御心を示したもうたのである。足れり。足れり。父はわが祈りに聞き給わざることによって、わが祈りを聞き給うのである。我は一度より二度、二度より三度と、同じ祈りをもって迫った。しかして神が一歩も譲り給わざるにより、わが一歩を退いた。しかして見よ。その瞬間に神の御旨は朝日のごとく、鮮明となり、平安の曙光がわが魂に射した。我が全く退き、わが要求を全部撤回して神の意に服従した時、わが魂は奇しき平安に憩うたのである。」(矢内原忠雄)ここには、矢内原の個人的な体験があると思われる。具体的に何であるかは書いていないが、神への願いの祈りが受け入れないことを経験した時、神に前に一歩退いた。「わが要求を全部撤回して、神に服従した時、神からの平安に満たされた」と言っている。先ほどの詩篇143・4「わたしの霊は萎え果て、心は胸の中で挫けます。わたしはいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことを一つ一つ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます。」敵に攻められ、わが魂が失われそうになった時、古の神の御業を思い起こし、最後は神の全能に自己を明け渡して全面的に信頼していくことを表している詩篇である。

3.イエス・キリストはこのゲッセマネでの祈りの中で、神への従順を学び、自分自身がこの十字架を自ら負っていかねばならないことを、神の御心として受け止めていった。弟子たちが眠ってしまったことは、イエスの業に弟子たちが参加できなかったということである。人間的に言えば、イエスは弟子たちからも見捨てられてしまったことであるが、神は、この罪の贖いの業をするためには、弟子たちの働きを退ける必要があると考えられたといえる。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しいものとされるのです」(ローマ5・19)。エデンの園で失われた人類と神との関係を回復させるために、ゲッセマネの園での苦しみが必要であった。イエス・キリストはただひとり罪の贖いという十字架を背負っていかねばならなかった。この神の御旨に対して従順でなければならなかった。
 「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20・28、マルコ10・45)。このところの口語訳聖書は「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである。」人類の罪の贖いとして、神との関係をただすために、御子イエス・キリストの命が捧げられる必要があった。このことを知った時、主イエスは決然として立ち上がった。 

4.@キリストの十字架は、人類の罪に対する神の裁きである。「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(罪)のためであった」(イザヤ53・5 )。同時に、 Aキリストは神への和解の捧げものとなった。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償い供え物となさいました」(ローマ3・25)。
立て、さあ、行こう。人の子は罪人たちの手に引き渡さる。この一事のために、神は御子を人間と同じ肉体を持つ姿で、この世に遣わされたのである。