説教要旨 イザヤ書63章7−14節
エフェソ書4章25−32節 2026.2.22
「聖霊の保証」
今日の説教の結論は、エフェソ4・30「〔あなたがたは〕神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」
1.口語訳も含めてほとんどの日本語訳聖書は、聖霊を悲しませてはならない、と訳している.岩波訳だけが「聖霊を侮ってはならない」とある。それはどういうことなのだろうか。パウロはエフェソ1−3章で、キリストの愛の働きを述べてきた。それを受けて、この4章1節から、わたしはあなた方に勧めます。と言って具体的な勧めの言葉を書いていく。4・2「一切高ぶることなく、柔和で、寛容な心を持ちなさい」4・19「放縦な生活、ふしだらな行い」今日の25節以下では「怒ることがあっても、日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません。」29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。」31節には「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを一切の悪意と一緒に捨てなさい」。これらの耳痛い言葉を聞いて、思い当たらない人はいない、程度の差はあれ、誰でも、同じ穴の狢(むじな)である。われわれはみんな古いアダムを引きずっている。それがわれわれの生きている生の身の人間の姿である。
ルターは「古いアダムが毎日のように出てくるを沈めて、新しいアダムが甦ってくる」それがキリスト者であるといっているという。もしも異邦人のように聖書の神を知らず、神に対して無感覚になって心かたくなにっていくならば、自分の古いアダム、神から離反した肉のままの人間、罪を背負った人間のままでいるならば、むかつくといってすぐに暴言を吐き脅し、ある人はナイフをもって金品を巻き上げ、殺人や放火につながっていく。そのような恐ろしい現実が毎日この世の中で起こっている。
2.今日の聖書は、その中心的なところで、30節「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」。だから、28節「盗みを働いていたものは、いまからは盗んではならない」。「(悪い言葉を語っている人は)聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」と勧めている。その根拠として、聖霊があなたがたを保証しているからだという。どういうことだろう。この30節の口語訳聖書は「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊の証印を受けたのである」と訳している。これは実はすでに、1・13で、あなたがたは、聖霊という保証、その保証の印としての聖霊という証印を与えられているのだと書いてあった。
3.次の説明が有益である。「聖霊の証印というのは、聖霊による保証の印ということである。聖霊が守っているということの印ということであります。それは、聖霊によって何か特別の印が与えられる、というのではなくて、それは聖霊の中で印を受けるという字で、聖霊を与えられていることが、印なのである。聖霊が守ってくださるのは、聖霊が離れたところから見守っているというのではなくて、聖霊を受け入れることによって守られている。印は、何のために与えられるのでしょう。それは、この者が、証印を与えた人のものになっていることを表すためである。羊や牛に焼き印を押すように、印(しるし)をつけて、聖霊を与えられて、これは神のものであるという証拠にするわけであります。〔ガラテヤ6・17イエスの焼き印を身に受けている〕。それならば、聖霊によって守られるというのは、何か危ないことから守るということもありましょうが、聖霊を与えられたことによって神のものになっていることが守りなのです。どういう守りがあるにせよ、われわれがもう神のものになってしまっている、という保証ぐらい守りになるものはないのではないでしょうか。」続いて「実は、われわれは、身勝手なもので自分に都合の良いような守りをひそかに願っていたのではないでしょうか。自分の生活がうまくいくように、嫌なことにあわないように守っていただくようになりたいと、思うのです。人間の手ではどうにもならないところを、神が守ってくだされば、こんなにありがたいことはないと、思うのである。しかし、〔聖霊によって守られているということは〕そうではありません。神は、キリストによって、与えられた救いが成就するように、あらゆる困難や誘惑から守ってくださるのです。」(竹森満佐一)。
4.いま水曜日の聖書研究祈祷会で、使徒言行録を学んでいる。先週はその18章で、パウロがギリシアのコリントで伝道した時のことが記されている箇所であった。ユダヤ人たちから、口汚くののしられて、パウロはやる気をなくして、上着の塵を払って、自分はこれから異邦人の方に行く。あなたがたは神の救いから漏れても、それはあなたがたの責任だ、といった。ところがある夜、幻を通して神はパウロに告げた。それは、「パウロ、恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたにはわたしがついているからだ。だれも、あなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」というものであった。それに対する、カルヴァンの説明にこうある。「神はパウロに力と勇気とが増し加わることを願われた。わたしたちは自分の無力さ、弱さに対するこのような神の慰めを軽んじてはならない。神の下にあって戦う限り、神から見放されることはないのだという一事だけで、わたしたちはあらゆる誤った恐れを足で踏みつけにするのに十分であるとしよう。」神の下にあって戦う限り、あなたは神から見放されることはない。あなたには、わたしがついているからだ。これがゆうなれば、わたしたちが聖霊の証印を押されたものだ。わたしたちは神のものとされたものたちなのだ、ということである。聖霊を悲しませるとは神の愛を軽んじるなということである。パウロは、聖霊の保証を与えられて伝道の力と勇気を与えられて1年6か月の間コリントに滞在して教会形成に仕えた。人生には喜びだけではない。苦しいことも起ってくる。その時聖霊の守りを信じることだ。5.わたしたちは、日常の生活において、ついつい自分の弱さと力不足を感じることがある。「怒りの言葉」「無慈悲な言葉」「憤り、わめき」の言葉をつい語ってしまう自分がいる。教会学校で悪い言葉、良い言葉を勉強した。子どもたちが言った。お前は馬鹿だ、死ね、消えろ、生まれてこなかったほうが良かった。これを言われると悲しい。反対に良い言葉は、ありがとう、だいじょいう?一緒にやろう。人格を破壊するような言葉でなく、「人をつくり上げるに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい」(29節)。悪い言葉を一切口にしないで一切の悪意と共に、それらを捨て去りなさい。
5.わたしたちはみな完全な人間ではない。自分の弱さをいつも感じる。外れることがしばしばある。パウロもその時、「あなたには私がついている」と神は言われ、伝道者としての人格を造り上げる言葉を語っていった。わたしはあなたを見捨てない。それが聖霊の証印を受けていることだ。この神の愛、神の聖霊を侮るな。悲しませてはならない。この聖霊は、わたしたちが御国を継ぐための保証である。聖霊は、贖いの日まで〔終末〕継続して働き続けてくださる。わたしたちの信仰はそのようにして毎週礼拝で鍛えられていく。イザヤ63・11、モーセも神から聖なる霊を与えられて紅海の海を渡る救いの御業を行うことができた。わたしたちも、神の聖霊に守られて今週も信仰の人として、この一週間の戦いに励んでいきたい。