説教要旨       詩編34編16−23節         ルカによる福音書1章26−38節                            2024、12、15
「恐れるなマリア」

今日の説教の結論は、ルカ1・30「すると天使は言った。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」。この天使の言葉が、今日の結論である。

1.このところの口語訳聖書は「恐れるな、マリアよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」新共同訳とほとんど同じである。これに対して、岩波訳の聖書は次のように訳している。「〔もはや〕恐れるな。マリヤム、なぜなら、あなたは神のもとで恵みを得たのだ。」どこが違うのか。岩波訳は、恐れるな、との根拠を、「なぜなら」という言葉を訳出することによって、明確にしているといえる。元の聖書を見てみると、確かに、ここに、「なぜなら」という言葉が入っている。あなたは神のもとで、神の恵みを得たのだから、恐れるな。恐れる必要はない。マリアは、何に対して「恐れ」や「恐怖」を抱いたのか。29節には、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。この言葉とは、その前に、天使が語った言葉である。28節である。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」マリアはナザレに住んでいた。これだけが特に言及されている。マリアの家柄とか、両親について、あるいはマリアの性質や育ちについて聖書は何も書いていない。ナザレはガリラヤ地方の北に位置する場所で、国境沿いの町で異邦人も多くいたところ、ヨハネ福音書には「ナザレから何の良いものが出るだろうか」(1・46)といわれた場所であった。ユダヤ人たちには重んじられていなかった、むしろ軽蔑されていた場所、それがナザレであった。聖書は神が与えようとしている福音の恵みは、人間を規定している、あらゆる条件をこえて、与えられる。聖書はそのことだけを語ろうとしている。それが、26節「天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめまりのところに遣わされたのである。」1・19で祭司ザカリアに、神が天使を遣わされた。マリアは祭司という身分ではなかった。そのマリアのところに、神は神の福音の恵みを現すために、天使ガブリエルを遣わした。後に福音伝道者パウロは書いている。「あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵あるものが多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。・・神は世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1・26−29)。またガラテヤの信徒への手紙には「あなた方は皆、信仰により、イエス・キリストに結ばれて神の子なのです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」(ガラテヤ3・26−28) ここで、おとめマリアが神の恵みを受ける対象者となっている。マリアの賛歌ルカ1・・46−55において、「身分の低い、この主のはしためにも、目をとめてくださったからです」とマリアは神賛美の歌を歌っている。小さき者にも目をとめてくださる神。

2.天使ガブリエルが語った挨拶の言葉は、この神の恵み、この一点に集中している。マリアはここに驚き、戸惑った。口語訳聖書では「ひどく胸騒ぎがした」、文語訳では「心痛く騒ぐ」新改訳では「ひどくまどう」とある。それは心を乱すものであった。ユダヤ教の伝統では、よその男から女に挨拶はしないということがあった。そのような驚きだけでなく、本質的に、マリアの心を震わしたことは、天使の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」という言葉であった。ここに、神の恵みの本質が言い表されている。神の恵みは、歴史的な異邦人のガリラヤ、また身分、生まれ育ち、という条件を越えて神のめぐみを、このマリアのような小さきものまでが、神が目をかけてくださった。この事実に第一の恵みがある。しかし、この神の恵みはそれだけに留まらない。

3.神の恵みの中に含まれている内容は、もっと広くもっと大きい。わたしたちは恵みというと、自分にとっての都合のいいことが起こることが神の恵みと思いやすい。反対に、災害や病気や困難が起こるときには、神から見放された、などと思いやすい。日本の一般的な宗教は五穀豊穣、米、麦、あわ、きび、まめ、これらは穀物の代表的な食べ物、その収穫が豊かである。これを祈るのが宗教の役割、種類は違っていても、これを願わない宗教はない。反対に、雨が降らなければ干ばつとなり、雨乞いをする。これは旧約聖書の時代でも同じであった。エリヤ時代に干ばつとなった時に、バアルの神(土地の神)とイスラエルの神が対決する場面がある。これは列王記上18章に書いてある。自然の恵みも確かに神の恵みである。ヤコブの手紙1・27には「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくる。」(口語訳)。しかし、神の恵みはそれだけではない。ハイデルベルク信仰問答27に神の摂理についての問いに対する問いと答えが挙げられている。その27の答えの中に、「雨も日照りも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも飲むことも、健康も病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としての御手によって、われわれに来るのであります。」実り豊かなときの神の恵み、これはよく分かる。しかし病気の時も、貧しい時も、人生のどんなときも、神の愛の中にあることを、この問答は教えている。だから、次の問い28では「あらゆる不遇の中にも忍耐深く、幸福の中には感謝し、未来ことについてはわれらの寄り頼むべき父に、信頼するようになり、いかなる被造物もわれわれを神の愛から離れさせることはできない」。

4.天使ガブリエルはマリアに対し、30節で「恐れるな。マリア、あなたは神から恵みをいただいているからだ」。という。既に天使は28節で、「マリア、あなたは恵まれた方」それを説明して、「主があなたと共におられる」といっている。
 この、神があなたと共にいる。神共にいます、という恵みは、どの様なときに、聖書で語られているか。それは神からの使命を果たさせるために、神がそのことを人間に命じる。ところが、人間はその使命に対しておびえる。不安になる。不安から神からの締めを辞退しようとする。一例をあげると、出エジプト記3章で、神はモーセに命じた。わたしのもとにイスラエルの人々の叫び声が届いた。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。モーセは言った。わたしは何者でしょう。神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる」。このことこそ、わたしがあなたを使わすしるしである」(出エジプト3・12)。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはり、全く私は口が重いのです。一体、誰が人間に口を与えたのか。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。エレミヤは言った。わたしは若者に過ぎません。主は言われた。若者にすぎないと言ってはならない。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す(エレミヤ1章)。天使ガブリエルはマリアに言った。恐れるなマリア、あなたがこれから負って行かねばならない任務において、神はあなたと共にいる。マリアはこれから来るだろう、あらゆる困難に対して、恐れることなく、ただ神共にいますとの恵みだけを信じて歩むことを命じられた。マリアの歩んだ人生、「不遇には忍耐深く、幸福には感謝、未来については信頼」に生きた人生であった。今週わたしたちもあらゆる困難に直面するが、神共にいます。ただこの信仰をもって進みたい。一人一人神からの使命は違う。しかし困難を課せられてていることは確かである。その業が神の栄光を現すものとなるよう励んで行こう。