説教要旨 イザヤ57章14−21節 ローマ1章1−7節
2026.8.9
「主の恵みと平安」
今日の説教の結論は、7節「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにありますように。」かつての口語訳、新改訳聖書は、神とイエス・キリストから「恵みと平安が、あなた方にありますように」であった。
1.平和と平安、どこが違うのか。従来の訳「平安」は、信仰者一人一人の心の状態を表すニュアンスがある。したがって、まず各人の魂のことが意味されている。まずひとり一人の魂が不安定で、絶えずイラつき、怒り出す状態にあるなら、それは「平安」と反対の「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、利己心、不和、分裂、分派」(ガラテヤ5・20)これらに支配されやすい人間の心、パウロはそれを肉の心と呼んでいる。
イザヤ57・20「神に逆らう者は巻き上がる海のようで、〔自分でその巻き上がった海を〕沈めることができない。その水は泥や土を巻き上げる。」「神に逆らう者に平和はない、とわたしの神は言われる。」「わたしの民の道から躓きとなる物を取り除け」「彼はなお背いて、おのが心の道へ行った」「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、唇の実を造ろう。遠い者にも近い者にも、平安あれ、平安あれ、と主は言われる。しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができない、その水はついに泥と汚物とを出す。わが神は言われる。「よこしまな者には平安がない」と(以上口語訳より)。
この心の荒波を沈めるのが礼拝である。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」「万軍の主は我らと共におられる。ヤコブの神はわれらの避け所である。」(詩篇46・0−11)。世界の創造者である全能者の御前に静まり、自分の力を捨てる(新共同訳)ことが、礼拝である。この恵みを神礼拝は与えてくれる。他のどのような力(テレビの宣伝、サプリメント、カウンセリング、気晴らし、ゲームなど)も方策も、自分の荒れた心を静めることはできない。全能の神の御前にひれ伏すとき、神は共にいてくださる。「わたしは高く聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57・15)
2.パウロは、恵みと平和という言葉で、神とキリストから与えられる賜物を言い表した。この最初にある「恵み」という言葉について、学者の説明によると、これは、ギリシア人が使っていたギリシア風の挨拶の言葉、これに対して平和(平安、シャローム)という言葉はユダヤ人が使っていた挨拶の言葉であった。恵みというのは元は「喜び」という意味で、「『あなたに喜びがあるように』という言葉が用いられるのが普通であった。それが恵みという言葉に転化した。あなたに喜びがあるように、だがそういう願いは、有難いが、その願いだけではどうにもなるものではない。キリストの教会は、この言葉の内容を全く新しくした。ただ喜びがあるようにというのではなくて、その喜びがどうして与えられるか、を確信している挨拶とした。人間は喜べと言われても、喜びうる用意がないのである。ピリピ人への手紙は、喜びの手紙と言われている。喜べということが繰り返し語られている。「主において(常に)喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(ピリピ3・1、4・4)。それはローマ人への手紙全体の内容でもある。」(竹森満佐一)。つまり、パウロはギリシア人が一般的な挨拶に使っていた「喜び」という言葉を、神の恵みという言葉に転化して、あなたがたが「喜び」と言っている喜びは、キリストが与える喜びの中にあるのだ、それは神の恵み、イエス・キリストの中にある喜びである。そういって、異邦人にもわかるように、「神の恵み」という言葉で「喜び」を表現した、ということになる。ローマの教会にもいたであろう、ギリシア人を意識して書いたのだということがわかる。
3.これに対して、次の「平和」という言葉は、ユダヤ人が使っていた挨拶の言葉である。それはシャロームというヘブライ語をギリシア語に訳した言葉である。そしてこの平和、平安という言葉は、主イエス・キリスト御自身が使っていた言葉である。マルコ福音書5章に、12(完全数)年間も出血の止まらないひとりの婦人がいた。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(26節)。医者からも見放され、無一文となって人生の苦悩に追いつめられ、また宗教的にも汚れたものとみなされ、社会の交わりからも遮断されていた。どうしようもなくなった一婦人。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触った。「この方の服にでも触れれば癒していただけると思ったからである。」(28節)。すると出血は全く止まって病気が癒されたことを体に感じた。イエスは自分の内から〔神の〕力が出ていったことに気づいて、群衆の中で振り返り、わたしの服に触ったのは誰かと言われた。弟子たちは言った。これだけの群衆が押し迫っているのです。「わからないのが当然です」。しかしイエスは、触れたものを探しておられた。一匹の失われた羊を飼い主である主イエスは、自分の群れの失われた一匹をいつも探しておられる。この婦人は自分の方から震えながら進み出て、ひれ伏し、すべてをありのまま申し上げた。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」ルカ福音書8章では「御衣の房」これは衣服の裾についていた丸い小さなボールの形をした飾りの房で、神の命令(律法〕を忘れないように、服の前と後ろの4隅に、青いひも縫いつけ(民数12・38)られていた。それは象徴であり、どこにでも主イエスに触れるチャンスは神によって備えられているということである。主イエスに信頼してすがっていく。その信仰を主イエスは見逃さない。そこにこの婦人の神への信頼、神への真実があった。「娘よ」との呼びかけは、彼女が神の民であることを示し、この救いは肉体的な癒しだけでなく、神の前に神との関係が確立されたことを示している。神は「わたしたちの父となってくださった」。ローマ5・1「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている。」神との間に平和が確立されたとき、人は平安の中に生きることができる。神との間に平和が確立されることが
信仰である。この信仰は、毎週新しく礼拝において神から与えられていくのである。旧約の時代にイスラエルの民が、神からの食べ物(マナ)を次の日の分まで取っておこうとした時、マナは腐ってしまったとある。わたしたちの信仰はいつも新しく神の言葉を聞くことによって、与えられるものである。
4.キリストは十字架につけられる前の夜、最後の晩餐を行い、「これはわたしの体」、「これは私の血による新しい契約である」といって、パンとぶどう酒を配った。これが今日の聖餐式の始まりであった。ヨハネ福音書では弟子たちの足を洗う洗足の業を行われた(ヨハネ13章)。その関連で、わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15章)と語り、最後に「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなた方はこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)。弟子たちではなく、キリストが勝利者であるところに、わたしたちの慰めがある(ルター)。復活のイエスは、トマスに真っ先に言われた言葉は「平安あれ」であった。不安と失望、いらだちと、他の弟子たちに対するねたみの思いがトマスあった。そのようなトマスに主は御自身を差し出して平安の中へとトマスを導いた(ヨハネ20)。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」といって主を拝した。
私達は今朝この新しい信仰を与えられて、この世に出てキリストの僕として生きよう。