説教要旨       詩篇7編11−18節        エフェソ5章1−5節           2026.3.1
「神に愛されて」

今日の説教の結論は、5・1「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」
1.ここに大変な言葉があります。「神に倣う」。わたしたちは神を信じる。その救いを信じる。それ以外に何の取柄もないわたしたち、ただ神を信じるだけのものと言ってもよい。それではいけないのでしょうか。先週、ルターの言葉を紹介した中に、「日ごとに自分の中に肉の思いが浮かび上がってくるのを覚える。その自分の中から出てくる肉の思いを沈め、その思いを十字架につけてそれに死んで、日々新しい自分が復活して来る」そのようにして生きている、という意味のことルターは罪人にして同時に義人、という言葉でもキリスト者のことを表現している。古き自分、肉の思いに支配される自分を沈め、キリストにある新しい自分に生きていく。それがキリスト者である。
 わたしたちはこの世に吹き荒れている様々な悪しき力の前に翻弄されている。自分自身の中から湧き上がってくる、無慈悲の心、憤り、怒り、わめき、そしりの言葉や悪魔の言葉が出てくる。4・27「悪魔にすきを与えてはならない」とある。悪い言葉を悪意と一緒に捨てなさい。今手にしている、手に握っている心の状態を、手放す、捨てるためには、それとは反対の神が与えてくださった赦しと愛を手にしなさい、と勧めている。

2.それが2節に書いてある。「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして、わたしたちのために神にささげてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」キリスト者の歩み、生き方には、ベースとなるものがある。根拠となるものそれはキリスト御自身の御業である。それを手に入れる。その時、古いものを捨てることができる。キリストは罪人たちの完全な贖いの、いけにえ、として御自分の命をお捧げになった。マルコ10・45「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのである。」
ローマ3・24「人はただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」キリストの十字架の犠牲は人間の罪を完全に赦す神へのまったき犠牲のささげものであった。十字架は神の御前に捧げられた香りのよい、神が喜ぶ捧げものであった。この捧げものは、罪人に神との和解をもたらすものであった。ローマ書8章15節には「この霊〔御子キリストの霊〕によって、わたしたちは〔神を〕「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(ローマ8・15)。キリストが行った贖いの御業、そのキリストの霊にあずかって、わたしたちは神との和解を与えられて、信仰によって神の子供たちとされた。聖霊はそのことを証ししている。このローマ書8章の終わりに向かって進んでいく中で、こう書いていく。
 8・34「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・しかしこれらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」十字架の御業は、突き詰めると、神の愛の現われであった。この愛は、アガペー〔神の〕の愛。これに対して、人間の愛はどうでしょう。たとえ親子の間でも、その愛は弱く、貧弱であり、欠けに多いものであり、しかも不足している不完全な愛でしかないことを生きてきて痛感します。親子の間の愛情の破れが社会の中に満ち満ちている。肉親の間でも兄弟姉妹の間で仲の良い人もいるかもしれないが、時に会えば喧嘩が絶えないといった現実もある。冷たい冷戦状態が存在している。夫婦の関係はどうでしょう。あれほどお金をかけて結婚した二人だったのに、今になってどうなっているとかと思う現実に出会うことがある。しかしこれが生身の人間の現実であり、そこに、ギブ アンド テイクの取引の愛ではない、売り言葉に買い言葉の憎しみの応酬から解放されて、裏切られても、ののしられても、愛していくような神の愛が、わたしたちのこの世界に必要なのないでしょうか。

3.「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった」(イザヤ53・7)。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(1ペトロ2・22)。そういう存在がここにいる。それがイエス・キリストである。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと。模範を残されたからです」(1ペトロ2・21)。神はこういうキリストを、この世界に贈ってくださった。

4.先週教会員の甲賀淳子さんが90歳で召されここで前夜式と、葬儀を行った。生まれが1935(昭和10)年、戦前です。それから、戦中、戦後を生き抜いてこられた。文字通り、激動と戦後という日本の歴史でも大きな変化を経験された。24歳で洗礼を受けたが、以来一貫してその信仰は揺るがなかった。まさに信仰によって神の子供とされた恵みと神の祝福を信じ、それを享受されて90年を過ごされた。どんな状況の中でも、神の子供とされた信仰の確信を失うことがなかった。それはキリストの体である教会につながり、神の言葉を聞き続ける礼拝に生きた結果であった。あの戦争の時代の中にも、神は生きて働き、ひとりの信仰の子供を愛され守って祝福された。その生きた実物を見た思いでした。おおらかに、自由にこの世の力に惑わさず、ひたすら神の言葉を信じ、「キリストと神の国を受け継いだ」(エフェソ5・5)。そういう祝福された生涯であった。何物も、神の愛から引き離すものはないとの、パウロの言葉そのものを生きられた。

5.最後にわたしたちは、今日の結論である「神に倣うものとなりなさい」とは何を意味するのかを思いたい。神に倣うとは何か。キリストがマタイ5・43以下でいわれた言葉がある。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」この天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださる神である。御子キリストは何の見返りもないただ神の子に課せられた十字架を担っていかれた。そのように、あなたがたも、信仰による神の子供たちとして、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ26・24)。それが神に倣うことである。この世には不品行と貪欲と偶像が満ちている。神はソドムとゴモラを滅ぼされた(創世記19)。キリスト者は神に愛された子供としてどこまでも神の愛を確信して、この世の重荷を担って、勝利者キリストと共に、今週もそれぞれの十字架を負い、その使命を果たしていきたい。