説教要旨     出エジプト20章12−17節      エフェソ書6章1−4節                    2026.5.10
「父と母を敬え」

今日の説教の結論は4節の「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ、諭されるように、育てなさい。」

1.古代ローマの社会では、子供は奴隷として売られたり、女の子が捨てられたりすることもあった背景を考慮すると、キリスト教会が子供たちを大事にして、教会の礼拝に大人に混じって出ていたと想定され、その礼拝で手紙が読まれることのなかで、「子どもたちよ」という呼びかけの言葉があり、子供たちが聞くべき言葉が記されていると考えられると学者は推定している。これはユダヤ教やギリシアやローマの世界では類例がなかった。そこにキリスト教会の大きな特色があったといえる。これは主イエスの子どもたちの扱いの中に、その根拠がある。マルコ10・13以下「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。〔ところが〕弟子たちはこの人々を叱った〔たしなめた〕。しかしイエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。〔誰でも〕子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」子供も神の前に一人の人格、神の愛せられる子供であることが明らかに示された。これがキリスト教会の姿であった。そこに、子供たちが両親の教育を通して、神の存在を教えられていく。両親は子供たちに対して、そのような役割を担っていくという理解がある。したがって、両親が喧嘩ばかりしていては、神の存在を示すことはできない。子供たちが「両親に従いなさい」と命じられているのは、「主に結ばれている者として」「主にあって」(口語訳、新改訳、聖書協会共同訳)とは、子供たちも両親を通して神の存在を知らされ、神の救いと恵みにあずかっていく。子供たちは、両親を通して神を信じることのすばらしさを示されていくのだから、両親に従うことは正しいことだ。正しいとは、それは神の御心なのだ。神の命令なのだという意味である。両親は子供たちに、盗みや嘘をつくことを教えない。それは、神から与えられた戒めに反することだ、ということを教えなけえばならない。そのようなことを教える大事な役割を担っているのが、両親である。「あなたの父と母を敬え」とは旧約聖書の十戒にも記されており、その戒めには、幸いと命の恵みが約束されている。戒めにはこのような積極的な意義があることを明らかにしている。そのような家庭の存在を抜きに、子供たちの健全な心身の成長はないからである。

2.旧約聖書の中に以下のような具体的な言葉がいくつも記されている。箴言15・20「愚かな者は〔その〕母を侮る」。箴言19・26「父に暴力を振るい〔乱暴を働き〕、母を追い出す者は辱めと嘲りをもたらす」。箴言20・20「父母を呪う者、彼の灯(ともしび)は闇のただ中で消える」。箴言23・22「母が年老いても、侮ってはならない」。
箴言30・17「父を嘲笑い、母への従順を侮る者の目は谷のカラスがえぐりだし、鷲のひながついばむ。」
 ある方が、次のような新聞のコラム欄にあった悲しい記事を載せていた。「親に暴力をふるう子が増えているという。例えば、母親に殴りかかり、煮えたぎった湯を浴びせる中学2年の少女がいる。「てめいの育て方が悪いんだ。考えてみろよ」と母親をののしる中学1年の少女がいる。▼母親を殴るだけでなく、裁縫用のコテで父親に殴りかかる高校生の少年がいた。「親でもおれに命令することはゆるせない」と怒鳴り、ついには母親の首を絞め、包丁を持ち出して暴れるようになった。その一人の息子を殺した父親は「地獄のようでありました」と公判で述懐した。▼本紙東京版が、子供の「家庭内暴力」を取りあげているが「うちの子も同じだ。どこへ相談に行ったらよいか」という電話が、毎日のようにかかってくるという。この問題は、わたしたちが想像する以上のひろがりをもっているらしい。▼暴力をふるうまでには至っていないが、「てめえ」「この野郎」と親をののしる子、そういう言葉の暴力をまき散らす暴君きどりの子はさらに多いようだ。」
 これらはすべて自由と放縦のはき違えから出たものだろう。果物の場合、剪定を怠って枝を野放図に伸ばしたら、よい実は結ばない。穀物や野菜は、巻き付けや植え付けにも全て法則があろう。まして人間には、神の定めだ鉄則がある。それがすなわち、律法である。神は人に対する第一の戒めとして「あなたの父と母を敬え」と命じる。神にはそれを命じることができる。同時に両親にも権利がある。我らは両親がなければ、この世に生は得られなかった。母は妊娠以来、その胎の実のためにどれほどの犠牲をはらっただろうか。陣痛の苦しみ、その後の育児の労苦の数々。まさに言語に絶する親の愛で、人の子は育つのである。両親の恩愛に対して感謝の念を抱くものは、またまことの神を知ると、大いなる感謝をささげるに相違ない。」「1945年8月6日の広島の原爆の中で、核熱線のために大やげどを負った血だらけの妊婦の出産があった。全身血だらけで、たまたまこれもやけどを負った皮膚がなく、指先はただれた肉が垂れさがっている助産婦がいて、お互い重症患者であったが、男の子が生まれた。そして妊婦も助産婦も精魂尽きて首を垂れ死んでしまった。この赤ちゃんが無事育った。「僕は両親の顔を見たこともなければ名前も知らない。しかし僕がここに生きているという事実は、僕に両親がいた事の証拠である。同じように僕は神の顔を見たことはないが、僕の存在の背後に神の存在があることを否定できない。僕には母の愛と神の愛とが二重写しに迫るのを感じる。だから、この人生をおろそかには生きられない。生かされる限り、神と人に報恩せずにはおれないのだ」(森山諭)。子たるものよ、両親を敬いなさい。この言葉は神からの命令なのだ。「老人を叱ってはなりません。むしろ自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。・・自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(1テモテ5・1−8)

3.父親たちよ、子供を怒らせないで、主がしつけ諭されるように、それに倣って育てなさい。特に父親に対して、主がなさったように、「育てなさい」とある。育てるとは、5・29にもあったように、母親が赤ん坊を抱いて乳を飲ませるように、温めてやる育児が特に父親にも求められている。父親は怒ることに傾きやすいあり方に対し、ここで反対のことが求められている。子供たちを、主からの預かり者として、暖かく育てよ。自分の子だと思うと、腹が立つことも多い。しかし、神の子としてあずかって育てよ、と命じられている。子供はわがままであり、「しつけ」矯正が必要である。また諭す、とは言葉で励まし忠告することである。そのためには安定した家庭生活が必要となる。
 ミレーの「晩鐘」という作品がある。夫婦が農作業をやめ、鍬を置いて、遠くの教会から鳴り響いている夕べの鐘の音を聞きながら、神に感謝を捧げている絵である。ここには、夫婦の愛(隣人への愛)、神への感謝(祈り)、そして労働の尊さが描かれている。このような生活のあり方の中に、子供たちが神の存在を知らされていくのである。
 讃美歌#535 1.今日もおくりぬ、主に仕えて、世の日陰、移れども、あまつ命、日に日に近くぞある。み旨かしこみ、いそしめる身に、憩を告ぐる 夕べの鐘。 2.今日も送りぬ 主に仕えて み恵みを世に伝え、御名のさかえ、語るは楽しきかな。3.いかに幸(さち)なるかな わがつとめや、なやみにも のぞみあり、主よみむねにかなわば、明日もつくさん。