説教要旨    イザヤ60・1−2,     ルカ2・8−20        2025.12.21
「神の世界から」

今日の説教の結論は、ルカ2・9「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」。天使が輝いているのではない。主の栄光が羊飼いたちを照らしたのである。

1.そもそも神の栄光とは何か。旧約聖書において、人間は神御自身の姿を見ることはできなかった。しかしエゼキエルという預言者は次のような幻を見たとある。大空の上にサファイアのように見える王座の形をしたものがあった。そこに人間の姿のようなものが見え、腰から下は火のように見え、周囲に光を放っていた。その様は雨の日の雲に現れる虹のように見えた。わたしはこれを見てひれ伏した(エゼキエル1・28)。もう一つだけ例をあげると、モーセが神と民が契約を結ぶときに、モーセが山に登っていくと、雲は山を覆った。7日目に神はモーセに呼びかけた。「主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入っていき、40日40夜、山にいた」(出エジプト24・17)。これらに共通しているのは、火であるとか、雲あるいは虹といった言葉で、神の栄光の姿が表現されている。それらは神ご自身ではないが、神の臨在を表すしるしであった。また出エジプトの紅海の河が真ん中から裂けて道ができた時のことを出エジプト記はこう書いている。「主よ、あなたの右の手は力をもって栄光に輝く、主よあなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもってあなたに立ち向かう者を打ち破られる」(出エジプト15・6。口語訳)。海が割れた事件を「あなたの右の手は力をもって栄光に輝く」。そこに神の栄光が現れたと表現している。このように旧約聖書では、神ご自身がそこに臨在しておられることを神の栄光が現れた、と記している。同じように、新約では不安の中にいるマリアに対して天使ガブリエルが「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。その子をイエスと名付けなさい」と語り、天使を通して、ここに神共にいるのであるから、恐れるな、と言って天使は神の栄光を現わした。

2.今日の聖書は、天使が羊飼いたちに近づいて、彼らを照らし、神がここにいます、神はこう語っている。10節「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがのために救い主がお生まれになった」と言った。この言葉をもって、神ご自身がその御臨在を示されたのである。旧約には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれ」(イザヤ9・5)るとの預言があるが、ここで天使が語ったような明瞭な言葉で、神の臨在を語っているのは旧約にはない。新約聖書である。11節「今日あなた方のために、救い主がお生まれになった。」ルカはこの言葉で、神の臨在を明確に語っている。このことを他の新約聖書ヨハネ福音書は、1・14で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」と記している。

3.御子イエス・キリストが神の栄光を現わされた時に、みんながそれを受け入れ、イエスを神の子と信じたか。そうではなかった事実もあったことを聖書は記している。ヨハネ2・17「イエスはこの最初の徴をガリラヤのカナで、その栄光を現わされた。結婚式の時に、水をブドウ酒に変えた業。ここでは「弟子たちはイエスを信じた」とある。5つのパンと2匹の魚をもって5千人を養った(ヨハネ6)。イエスが「わたしが命のパンである」(6・48)というと、人々はイエスにつまずいて、もはやイエスと共に歩まなくなった(6・66)。38年間も病気で苦しんでいたべテスダの池のほとりに佇んでいた男を、立ち上がらせ、「私の父は今に至るまで働いておられる。だからわたしも働くのだ」(5・17)というと、イエスを殺そうと狙うようになった。その日が安息日であったので、またイエスは神を自分の父と呼んで神と等しいものとされたからである(5・18)と説明がある。生まれつき目の不自由な男の目を開かれたことは一度も聞いたことがなかった。あの方が神のもとから来られたのでなかったなら、それはできなかった(ヨハネ9・32)とこの盲人は言った。それが安息日であったことをもって、イエスの命は狙われることになった(ヨハネ9)。このように、キリストはこの地上に来られ、神の栄光を具体的な救いの業をもって現わされた。ところが、すべての人がそれを信じ受け入れたのではなかった。むしろ反対に、救い主を十字架につける事へと追いやっていった。
 クリスマスは神の栄光がイエス・キリストという具体的な神の子として、肉体をとって現れた時に、その栄光の御業を受け入れるか、これを拒否するかの二つのことが起こった。「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」(ヨハネ15)。これを信じて「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる」(15・8)。またイザヤ書にあったように、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く・・見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる。」この神の光、神の栄光、神の臨在を受け入れること、それがクリスマスの恵みである。

4.イエス・キリストの誕生は、この恵みを受け入れて信じて歩むのか、それとも、神の栄光の御業を退けるか、神はこの二者択一をわれわれに迫っている。神の光の前に立った時に明らかにされる人間の罪の姿。「自分は見えると言い張るところに、あなた方の罪がある」とイエスは言われた(ヨハネ9・41)。キリストが語り、なさった神の御業を見ようとしないで、それに背を向けて神の臨在の前から逃げ出し、自分の殻(罪)の中に閉じ籠ろうとする(ルター)のか、この神の救いの業を受け入れるか。その決断を迫るのがクリスマスである。羊飼いたちは天使の言葉11節「今日あなたがたのために救い主がお生まれになった」を受け入れ、自らの汚れたマントを着たままであったが、夜の闇路を旅立って、指示されている場所へと向かっていった。羊飼いたちはあるがままの姿で、救い主の前に、ひざまずいて礼拝した。ここに罪人なる人間の救いの場所がある。神はわれわれのために、そのような礼拝の場所を造ってくださったのである。御子イエス・キリストを遣わして下さった。ここに神の栄光が示されている。ここに神の救いが用意されている。

5.われわれ人間は本来神の姿に似たものとして造られた(創世記1・26)。神の栄光を仰ぎ、神を礼拝し、神の恵みと祝福を豊かに受ける者として造られた。ところが神に背いて、神の言葉を聞こうとせず、神からどんどん離れ、神の栄光の輝きを失ってしまった。神の前に顔を上げられない人間となってしまった。そのようなわたしたちの罪を、贖い、もう一度神の前に立って、神の栄光を照り返すことのできる存在へと造り変えるために、主イエスは十字架について、われわれの罪を断罪し、罪の赦しをもたらしてくださった。この主イエスの救いの御業を悔い改めをもって受け入れる時、私たちは魂に一点の曇りもない姿で、神の前に立つことができる。これがクリスマスの恵みである。ここに神の臨在、栄光が示されている。わたしたちは終わりの日に、神のみ前に立つことになる。ヨハネ黙示録はその時の情景を次にように書いている。「神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜はないからである。」(黙示録21・23−27)。わたしたちはこの神の国に向かって進んで行こう。