説教要旨 詩編37・1−10、 一ペトロ2・18−25
2025.6.8
「ののしりかえさず」
今日の説教の結論は、今日読まれたペトロの手紙の最後の25節「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻った来たのです。」
1.今日のところから、ペトロは教会にいた具体的な人々に対して、語っていく。今日のところには「召使い」という人々です。ペトロは立場の弱い人々から始めていると言えます。来週は妻という立場の人々へ語っていく。召使い、は口語訳聖書は「僕たる者」、また「下僕たち」(岩波訳)という訳もある。今の時代には制度的に馴染みのない人々であるが、当時のローマ帝国には6000万もの奴隷がいたと言われている。それは戦争があるたびに、勝つと敵の捕虜を連れてきて、それを奴隷にする結果だった。そのようにしてだんだん増えていったらしい。この言葉は後の農業生産のための大量の奴隷たちを表す場合とは別の言葉が使われており、主に家庭の中で仕える働きをする「召使い」「下僕」「僕」を指す。したがって、戦争の捕虜の中には医者であった人もいれば、音楽家である人もいたし、俳優や秘書など立派な職業の人もいた、そういう人々は、その家の子どもの世話や子どもの家庭教師のようなことを、また信用されるようになると、その家の家計をも任される人々もいた。中にはそれだけ教養のある人々、あるいは主人以上の人もいただろう。しかしペトロは19節で「召使いたち、心から畏れをもって主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。」と言っている。」中には馬鹿馬鹿しい、つまらないことだと思う人もいたに違いない。
2.今の時代感覚からいえば、それは社会制度悪い、そのような制度を改めるべき政治的な奴隷解放運動をせよ、となるかもしれないが、更に19節「不当な苦しみを受けることになっても」20節には「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍びなさい」とある。何と保守的な勧めだと読める言葉である。しかしここでペトロが言いたいことは、表面的な、うわべだけの、鞭を畏れるような恐怖からではなく、17節に「神を畏れ皇帝を敬いなさい」とあったように、時が良くても悪くても、人が見ていようが見ていまいが、神を畏れることから来る、その畏れに立って、主人に従いなさい、という勧めである。20節「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んだとしてもそれは何の誉れにもならない。しかし善を行って苦しみを受け、耐え忍ぶならそれは神の御心に適うことである」とある。御心に適う、というのは、実は「恵み」という言葉である。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の恵みである」(石田学)と訳している。社会的、政治的、制度的という外面の自由は制限されているかもしれないが、「召使いという立場に生きるあなたがた」には、内面的な自由がある(17節)。あなたがたは、神に愛されている人たちである(11節)。そこにしっか立って、「無慈悲な、気むずかしい(口語訳)主人にも従いなさい。」たとえ理不尽な事であったとしても、神の愛を信じて従っていきなさい。そのような苦しみを耐え忍ぶ、忍耐は必ず、神の恵みに通じている。それを、ペトロは「忍耐は神の恵み」と言った。
3.ローマ5・4「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」このような忍耐は神の恵みにつながっている、と確信しなさい。ペトロは21節で、その忍耐の根拠として、「なぜなら、キリスト
も、理不尽な苦しみを強いられていた。「そのキリストの足跡に続くようにと、模範を残された」からだと説明する。模範とは手本であり、お習字の先生の書いた者の上をなぞっていくことである。キリストは言われた。「自分は必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」その時、ペトロはイエスをわきへお連れして、そんなこと(苦しみを受ける)があってはなりませんとイエスをいさめ始めた。その時イエスは振り向いて、ペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしを邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)。
4.わたしたちはこの世でいろんな形で理不尽な、十字架を背負わされることがある。それを理不尽だと言って放棄してはならない。それを担っていきなさい。イエス・キリストがわたしたちの人生の模範として与えられている。ローマ書8章には、神は「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」「霊(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる。」(ローマ8・26−29)。キリストも聖霊も、この世にあるキリスト者の内に共に働いてくださり、万事を益としてくださる。わたしたちの地上のこの世の生活は弱さに満ちている。怒りが憎しみが悲しみが嘆きが、恨みがつぶやきがわたしたちの心をしばしば占領してしまう。罵られると、ついののしり返してしまう。「われわれがありもしない力をしぼって従う模範ではなく、キリストが、自分のために苦しんでくださったことに対する感謝から出てくる力によるのです」(竹森満佐一)。これがここで言われている、従いなさいの意味なのだ、と教えられる。
5.詩人八木重吉は、「わたしは床の間に基督(キリスト)の磔(はりつけ)の図をかけておく。その前でとうてい憎みとおせない。」(『神を呼ぼう』)とうたっている。十字架のキリストの前に立ったとき、わたしたちの憎しみの心が打ち砕かれ、イエス・キリストにおける神の御業に対する感謝の思いが湧いてくる。ペトロは、最後にイエス・キリストがわれわれの模範であるだけでなく、決定的な救い主、魂の牧者、監督者であることを明らかにしている。召使いたちには鞭でたたかれた肉の傷もあった。しかしそれ以上に経験した魂の傷がある。肉体の傷であれば薬によって時間とともに癒やされていく面がある。しかし、魂に受けた傷がある。魂が瀕死の傷を受けて血を流している。自分の存在が否定され、その霊的な命が死んでいるような状態になったとき、人はどのようにしてその魂が癒やされ、その命を回復することができるのか。それが24節、罪なき神の子が、その命を十字架の上で、投げ出して、肉を裂き、血を流して人間存在を丸ごと死の滅びから贖いだしてくださった。それによって、24節「あなたがたは癒やされました」。わたしたちはこの世で傷ついた魂を癒やされ、新しい命を与えられるものとなった。あなたがたには「魂の牧者」がいる。主はわたしの羊飼い(詩編23)。主はわたしの魂をいきかえらせ、わたしを正しい道に導かれる。あなたがたは悪をなす者のゆえに心悩ますな(詩37)。神は必ず裁かれる時がくる。あなたがたは迷うことなく、この主のもとに帰り、心の傷を癒やされ、その命を滅びから贖い出され新しくされ、今日から始まる一週間の戦いに出て行きたい。今、医者が患者に傷つけられ、愛が冷えている時代(マタイ24・12)である。