説教要旨 詩編56編2−5節
マタイによる福音書26章31−46節
2023.3.19
「罪人らの手に」
今日の説教の結論は、最後のマタイ26章45節の言葉「人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、さあ、行こう」である。この結論に向かって踏み出していく、主イエスの勇気が語られている。それはまたわたしたち自身に対する神の促しの言葉である。
1.ゲッセマネとは「油を絞る場所」という意味である。付近にはオリーブの木々が生えており、中に入ると人影から遮断されてしまうので、主イエスはここを祈りの場所としていた。最後の心の備えをなすに当たり、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを選別した。将来を託すべき弟子たちといえる。ペトロはローマ教会の礎を築き、ヤコブは真っ先に殉教の死を遂げ、ヨハネは長くい生き延びて、貴重な信仰の遺産を残した。イエスの選びに狂いはなかった。しかしこの時、「イエスが悲しみもだえ始められた」(37)。「私は死ぬばかりに悲しい」「うつぶせになって祈り、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(39)と祈ったとある。まさに、オリーブの実が圧搾機で搾られるように、悪魔はイエスの存在をなきものにしようとイエスに重圧をかけてきた。死の恐怖という人間的な次元を越えて、神に敵対する悪魔が神の子イエスの存在を押しつぶし、救いを地上から抹殺しようとする力であった。うつぶせになって祈る。マルコ福音書では「地面にひれ伏し」とある。地面にひれ伏すとは、万策つき、ただ神の前に伏せる以外に出来なかった姿である。わたしたちも人生の旅路の中で、この様な事態に陥ることがあるのではないだろうか。万策尽きた。「この苦しみの杯、この運命をわたしから過ぎ去らせてください」。しかしイエス・キリストがこのような苦しみを味わわれたと言うことは、わたしたちにとって深い慰めである。イエス・キリストにはわたしたちと同じ血が流れているということである。「この大祭司はわたしたちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた。だから憐れみを受け、恵みに与って時宜にかなった〔タイムリーな〕助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4・15−16)。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな」った(ヘブライ人への手紙5・7−8)。わたしたちにはこのイエス・キリストの存在が与えられている。
2.イエス・キリストの祈りの姿に戻ってみる。主イエスは3人の弟子たちに祈りを共にすることを命じた。信頼する弟子たちの祈りによる支援を切望した。しかしこの期待は裏切られた。主イエスはなぜ弟子たちのもとに3度も帰ってきたのか。目を覚まして祈っていくことの重要性が弟子たちに対して語られた。このところについて、次のような説明を読んで納得できた面がある。それは、主イエスが祈っても、祈っても神から、答えが与えられない。そのような状態がここにあったという説明である。だから、弟子たちのところに度々戻ってきた、1回目40節、ペトロに「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」2回目43節「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた」。44節「そこで弟子たちを離れ、3度目も同じ言葉で「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られた。「それは自分の願いに対して神から明確な答えがなかったことを示している。」
「この〔苦しみの、苦き〕杯を取り去ることを父は欲しなかったのである。しかし、「われ汝をほふるべし」、とか「汝この杯を取りて飲め」とか、いうことを積極的に宣告することは、父なる神の御心として到底為すに忍びないことであった。ゆえに神は、イエスの哀願に対して目をつぶって応え給わず、消極的に御心を示したもうたのである。足れり、足れり、父はわが祈りに聞き給わざることによって、わが祈りを聞きたもうたのである。我は一度より二度、二度より三度と、同じ祈りを持って迫った。しかして神が一歩も譲り給わざるにより、我が一歩退いた。しかして見よ、その瞬間に神の御旨は朝日の如く、鮮明となり、平安の曙光がわが魂に射した。我が全く退き、わが要求を全部撤回して神の御意に服従した時、わたしが魂は奇しき平安に憩うたのである。」(矢内原忠雄)。
イエス・キリストは、神のもとから天の使いたちを12軍団以上を送り込んで(53節)、イエスの十字架を回避することを望まないことを悟っていった。神は御子を十字架に付け、御子の命を奪い、それによって人間の救いを成就する道、それが神の御心、神のご計画であることを知っていった。罪なき者が罪を負うという業しかない。十字架は避けられない。このことを主イエスは、このゲッセマネの祈りの中で、主イエス・キリスト御自身が自らの使命として選び取って行かねばならなかった。
弟子たちが眠ってしまったことは、イエスの業に弟子たちは参加できなかったということである。人間的に言えば、イエスは弟子たちからも見捨てられてしまったことであるが、神の救いの業を実現するために、神は弟子たちの働きを退けられたといえる。イエス・キリストは人類でただひとり十字架を背負って神の前に立たねばならなかった。十字架の上でご自分の命を神の前に献げる使命を明確にしていった。「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20・28、マルコ10・45)、と語っていたが、いよいよ、本当にその事が実際に為されていくためには、イエス・キリストの身の上にこのような苦悩があったということである。わたしたちも同じである。本当に苦難に直面したときは、地面に打ち付けられ、ひれ伏すようなことを味わう。詩人が「多くの者がわたしに戦いを挑みます。恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。神のみ言葉を讃美します。神に依り頼めば恐れはありません」(詩編56・4)。わたしたちは礼拝通して、聖書の御言葉を通して、救い主に出会うことができる。
3.弟子たちは強がりを言っても、イエス・キリストを見捨てて逃げていくことはすぐ目の前に迫っていた(56節)。しかしイエス・キリストは、すでに31節で「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」といっている。ここにも、先行する救い主イエス・キリストの存在がある。エデンの園で失われた人類の神との関係を回復させるために、ゲッセマネの園の苦闘が必要であった。罪なき御子イエス・キリストが、人類の罪をただひとり負わなければならなかった。その事を知ったとき、主イエスは決然と立ち上がった。それが今日の結論「人の子は罪人たちの手に引き渡される」という言葉となっている。イエス・キリストの死は単なる肉体上の痛みや苦しみではない。もし肉体的な苦しみならば、イエスの両隣の政治犯と同じ苦しみでしかなくなる。イエス・キリストの十字架の苦しみは、@キリストの十字架は、人間の罪に対する神の裁きである。「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎(とか、罪)のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。」(イザヤ53・5)。A
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らの償いの献げ物とした。」(イザヤ53・10)。キリストは自らを神への和解の献げ物、償いの献げ物とした。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3・25)