説教要旨   詩編37・1−6 1       ペトロ3・8−12                2025.6.29
「善をもって悪に勝て」

本日の説教の結論は、3章9節「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」

1.この一連の言葉は、小アジア(現在のトルコ)の地域に各地に散らされていた小さなキリスト教会の信者たちを励ますために書かれた。2・11によれば、「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」クリスチャンは異教徒と呼ばれ、さまざまな悪口を言われていた。イエスを主と信じたところから、「ローマ皇帝に背くもの」と言われたり、聖餐式の行事から、「人の肉を食する者」と曲解され、魂の自由を主張したところから、「奴隷をそそのかす者」と攻撃された。小アジアの地域は当時のロー帝国の支配下にあったので、ローマの神々を礼拝する者やギリシアの神々を信じていた人々から悪人呼ばわりされていた。また裕福な家の主人には、2・18「寛大な主人もいたが、中には無慈悲な、気むずかしい(口語訳)、残忍で乱暴な(リビングバイブル)主人」もいた。結婚していた婦人たちの中には、こっそり教会に来てあるいは洗礼を受けた方々もいた。召使いや妻が何か失敗したようなときに、人格を否定するような侮辱の言葉や悪口を浴びせかけられることがあっただろう。ペトロはいくつかの勧めの言葉を書いているが、その中で、「悪をもって悪に、侮辱を侮辱に報いてはなりません」。

2.それに対してペトロは、ただ主人のいうことに忍従して従いなさい、と勧めたのではない。まずあなたがたは、神によってキリストの救いの中に召された(2・21)方々である、神によって救いの中に選ばれた、「神のものとなった民」「聖なる国民」(2・9)、神によって「召し出された」「聖なる(=神の者とされた)もの」(1・15)である。何よりも根本的に神に愛されている方々である(2・11,4・12)。あなた方は神の生きた言葉「福音が告げ知らされている」(1・25)群れである。このことを強調した。

3.一例を挙げてみると、旧約聖書の創世記にはアブラハムの子イサクについて次のような話が書いてある。「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年の内に百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、多くの召使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。ペリシテ人は昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとく塞ぎ、土で埋めた。そこでイサクは埋められた井戸を掘り起こした。イサクは別の場所に移動せざるを得なくなったが、そこでもまた井戸が土で埋められた。イサクはその場所をエセク(争い)、シトナ(敵意)と名づけたとある。更にもう一つの井戸を掘り当てた。そこではもはや争いは起こらず、イサクはそこを「広い場所]と名づけた。「主はわれわれの繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った(創世記26・21)。

4.ここで考えてみたいのは、イサクはペリシテ人から妨害を受けたが、めげずにやっていたときにイサクは繁栄したように書いてあるが、実はその前に、「イサクはその土地に種を蒔くと、その年の内に百倍もの収穫があった。イサクは主の祝福を受けて豊かになり、ますます富み栄えて、羊や牛の群れ多くの召使いを持つようになった。」(26・12)。その後に、イサクの繁栄をねたむようになったペリシテ人から父アブラハムの僕たちが掘った井戸が次々に土で埋められてしまった。つまり、イサクには神の祝福があって、繁栄した。繁栄よりも先に、神の祝福があったと聖書は書いている。その後イサクの繁栄をねたむペリシテ人から迫害を受けたが、最後は神はイサクを広い場所へと導かれた。繁栄と祝福は同一ではない。「主が繁栄させてくださらぬ限り、地を尽くし、骨折り働いてもわれわれは何ら得ることがない。しかしその逆に主の祝福はあらゆる妨げを超えて道を見出し、一切のことをわれわれにとって喜ばしく、幸いな結末へと至らせる」(カルヴァン)。繁栄と神の祝福は同一ではない。われわれは繁栄に目を奪われて神の祝福を失ってはならない。主の祝福こそ一切の幸福の源泉である。イサクにとって大切なものは神御自身であり、神が与えられたもの(ここでは羊や牛など)ではなかった。イサクはどこまでも神の祝福を信じていたゆえに、争いから身を引き、数々の嫌がらせにも忍耐することができた。「最もよいことは、神がわたしと共におられることである。」(ウエスレー)。これが根本。

5.ここでペトロは信仰者たちに対して、あなたがたに約束されている神の祝福を忘れてはならない、と9節で書いている。その前に「悪をもって悪に報いず」とある。イサクは神の祝福を信じていたゆえに、どんなに井戸を埋められても、井戸を掘る自分の仕事を諦めなかった。詩編37・1「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行うものをうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。主に信頼して善を行え」。他の新約聖書でパウロは「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすること、わたしが報復する、と主は言われる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・17以下)。

6.ここでペトロは繰り返し、あなたがたは現在の生活の中で、悪口を言われたり、悪人呼ばわりされたりすることがあるだろう。しかしあなたがたは神の祝福の中に確かにあることを忘れるな。だから悪に対して悪を持って報いるのでなく、侮辱に対して侮辱をもって報いるのでなく、あなたがたに与えられている神の祝福を敵に対しても祈りなさい。という。ペトロは10節以下で、旧約聖書詩篇34編を引用していく。その一番初めに、岩波訳の聖書を読んでみますと、「というのは」という理由を示す言葉が訳されている。旧約聖書には、こう書いてあるからだ。「というのは『命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。なぜなら、主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は、悪事を働く者に対して向けられる。』とあるからである」(岩波訳)。あなたがたは聖書の中にある、神のこの絶対的な主権を畏れ、この神を信じる信仰に生きよ。この世にはいつでも、悪を働くもの、侮辱を働く者が必ず、存在している。しかし恐れるな、神の目は信仰者に向けられている。神の耳はあなたがたの祈りを聞いている。それは主イエス・キリスト御自身の言葉につながっている。主は言われた。「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。・・自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。」(マタイ5・43以下)
これらをわたしたちの目標として、到達したところに従って歩んでいきましょう。少しでも舌を制し、悪から遠ざかり、悪をなす者のゆえに心乱すことなく、示された聖書の御言葉を生きる、御国に向かっての歩みを一歩でも半歩でも進んでいきましょう。