説教要旨      申命記5・12−15      ルカ14・1−6         2023.10.1
「安息日の恵み」

今日の説教の結論は主イエスが語られた言葉、ルカ14・5「そして言われた。あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

1.この言葉が語られるすぐ前の所で、主イエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。その上で、この言葉を語られた。病人が癒されたということだけでなく、それが安息日であったことが特に問題となった。14章1節にわざわざ「安息日のことだった」とある。ユダヤ人たちは安息日には会堂に集まり、神を讃美した後、集まって食事を楽しむ習慣があった。主イエスは、この日あるファリサイ派の議員の家に招かれていた。家に入ってみると、人々はイエスの様子をうかがっていた。というのは、イエスがお座りになった前には、一人の病人がいた。医者ルカはこの人に水腫という病名をつけている。大量の水が組織や体内にたまって心臓病などを引きおこした。この病気は時に神の呪いを表す比喩としても譬えられた。「呪いが水のように彼のはらわたに」(詩編109・18)」。2節は元の言葉では「見よ、イエスの前に、水腫を患っている男がいた」。これは驚きを込めて見ずにはおれない病人がいる。見よ。この病人はいわば招かれざる客として、この家にいた。そこに人々からもいやがられていたという意味があった。

2.しかしその時、主イエスは律法の専門家やファリサイ派の人々の思いを見抜いて、言われた。「安息日に病気を癒すことは律法で許されているか、いないか」。彼らは黙って答えなかった。そこで主イエスはこの問題に、明確に業と言葉をもって答えられた。イエスは、病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。どんなにか苦しんできたであろう、この病人に対する主イエスの思いが表されている。「自分の息子か自分の牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって引き上げてやらない者がいるだろうか」。これに対して彼らは「答えることができなかった」。この安息日の問題に本当の答えを与えることができたのは、主イエス・キリストだけであった。

3.今までもこの問題はすでに出されていた。13・14で、18年間腰の曲がった婦人が安息日に会堂で行われた癒しがあった。その時、会堂長はこういった。「イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆にいった。働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」もっと遡ると、6章では、安息日にイエスが会堂に入って教えておられたとき、右手の萎えた男がいて、律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエスを訴える口実を見つけようとして、癒すかどうか注目していた。その時、イエスは「真ん中に出て来なさい」にといって、癒しをおこなわれた。すると彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。(6・11)
 またヨハネによる福音書には、38年間病気だった男がベトサイダの池の回廊で癒された。これも安息日であった。「ユダヤ人たちは病気を癒していただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない」(ヨハネ5・10)。しかし、「わたしを癒してくださった方が、床を担いで歩きなさいと言われたのです」、と癒された男は答えた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである、とある。(ヨハネ5・18)。またヨハネによる福音書9章では、生まれつき目の見えない人を癒され、シロアムの池に行って目を洗え、といわれた事件もあった。「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった」(ヨハネ9・14)とある。
 この様に、当時の律法学者やファリサイ派の人々の律法の解釈では、安息日はどんな労働もしてはならない日と定めていた。その安息日の法令をかたく守っていた。それを守ることが神の御心に適っていると思っていた。これに対して主イエスは律法学者やファリサイ派の人々の形式的な律法解釈を退けて、律法本来の精神を回復された。そのために、あえて安息日に、様々な癒しの業を行い、本来の安息日の持っている、この世でいろいろの病気のために失われている心の平安、それを神と共にある安心、神の恵みの数々を具体的に示すことによって、一人一人に神の平安を取り戻していった。それが数々の奇跡となって現れた。

4.安息日の戒めというのは、そもそもモーセの十戒の第4戒であり、聖書には出エジプト記20章と申命記5章にその出所がある。出エジプト記の記述では、安息日を守るその理由として、主は天と地と海とそこにあるすべてのものを6日間で造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである、とある。ここには、天地創造をされた神が、創造を完成されたときに休まれた。疲れを知らない神が休まれたと言うことはどういうことか。これは創造されたものが、永遠なる神に出会う時を神は定められたことを意味する。わたしたちは労働を中断し、それを止めて、神の与えてくださる休み、神から来る安心と平安、神の息を呼吸する。そういう時が必要である。それが6日間の労働を完成させるものである。人間は労働だけでなく、その労働が神の創造の御手に安らう時、神の祝福の中へ憩う時、その時、人間の労働は完成されていく。それが安息日である。
もう一つは今日読まれた申命記5章にある。規定は同じであるが、その理由付けとして、エジプトからの解放の事実を忘れないためであると命じている。5・15「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」。
以上のように、安息日が定められたのは、人間の6日間の業が神の創造の御手に安らうことによって、その労働が完成されたものとなっていく。またわたしたちは奴隷の家からの救出されたものである。わたしたちを救い出してくださった神の大いなる御業を忘れない。このことのために、安息日が定められた。

5.イエス・キリストは特に様々な病いのために、平安を失っていた人々に、具体的な肉体の癒しを与えることによって、その人の人生を神と共にある平安、安息ある人生、またわたしたちをいつも罪の奴隷から救い出してくださるイエス・キリストの存在を示すことによって、わたしたちはもろもろの罪からの救い出されて、わたしたちの全存在は神から来る平安を取り戻されて、本当の安心と平安の中を生きることができる。そのような生活を続けていくことが本来の安息日が定められた意味であった。
 わたしたちの人生はどこまで行っても未完成、不十分、汚れに満ちた、中途半端なものでしかない。しかし、これを完成してくださる方がいる。それがイエス・キリストである。イエス・キリストは神から来る安息をこの病気の男に与えてくださった。わたしたち自身もこの神の御手に自分をゆだねていく。贖われ、癒されていく。そこに、本当の安心、平安、神の息、聖霊の息を大きく吸って生きる生活、安息がある。
 そのような安息日を与えられていることを感謝して、今週もそれぞれの使命に励んでいきたい。