説教要旨 創世記1章26−27節 エフェソ2章8−10節
2025.10.19
「神の作品として」
今日の説教の結論は、エフェソ2・10「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
1.この結論部分を、かつての口語訳聖書は「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」とあった。口語訳で注目すべき言葉は、「作品」という翻訳である。新共同訳は、「神に造られたもの」とあるが、口語訳はそれを「神の作品」という言葉で言い切っている。ごく最近の翻訳聖書協会共同訳では、この「作品」という言葉を復活させている。岩波訳聖書も「作品」という言葉を採用している。わたしたち一人ひとりは、神御自身の手によって造られた、手作りの一個の作品である。機械によって、大量生産される物のように各一的、均一な状態で生み出された製品ではない。神の御自身の手によって、生み出された作品である。したがって、ある人は「わたしたちは神の芸術作品」「神の傑作」とまで訳している。同じものは二つとない、一人一人神御自身の手によって制作された作品である。それは、同じものは二つとない、貴重な、かけがえのない固有性を持った芸術作品である。そういう意味が込められている。
しかも、それに続けてその後に「キリスト・イエスにおいて造られた」とある。2章15節では「キリストはご自分において一人の新しい人に造り上げて」とある。コリント書には(2コリント5・17)「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらすべては神から出ることである」とある。キリスト・イエスにおいてということは、キリスト・イエスの働きによって、ということであり、それによって「自分の過ちと罪のために死んでいた」(2・1)わたしたちが、「憐み豊かな神が、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によってよって、罪のために死んでいたわたしたちをキリスト共に生かし、キリスト共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(2・4−6)。神の前には死んでいたような状態から、新しい神の作品としてイエスキリストによって再創造された。
2.旧約聖書創世記1章の創造の記事を読んだ。ここには人間が神によって創造された時のことが書いてある。1・26「神は言われた。われわれにかたどり、われわれに似せて人をつくろう。」1・27「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」とある。口語訳聖書では「神のかたちに創造された」。神の形(かたち)、あるいは、神にかたどって(新共同訳)、とは外形的な姿や形のことではない。この形とは、神と本質的な交わりの関係にあった、という意味である。被造物の中で、神の形として造られたのは人間だけである。ところが、人間は神の戒めに背き(3章)、神の形を失ってしまった。神との生きた関係を喪失してしまった。それがエフェソ書では死んだような姿と表現されていた。神はアダムとエバをそそのかした蛇に対して次のような言葉を語ったとある。「彼はお前(蛇)の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」(創世記3・15)。この彼はやがて来る救い主キリストを直接に指すと解される。ここには堕落した人類の救いに関する最初の約束を記す、「原福音」と呼ばれる(フランシスコ会訳聖書)。キリストの到来によって失われた神の形が回復される。それが新しい創造とここで言われている。それは、キリスト・イエスにによって、神との関係が回復される。だから救い主キリスト・イエスにおいて、造られた、という言葉がエフェソ書では続いているのである。
3.このような救いの出来事の背後に、神の豊かな憐み、絶大な神の愛の大きさがあった。一人一人が神の作品として再創造される。そこにかけがえのない価値が付与されている。神の愛が注ぎ込まれている事実はみんな同じであるが、作品は異なっている。ところがこの世には、単純に素直に神の愛の業を受け止められないような現実がある。わたしが読んで教えられた中から、ひとつの実例をあげてみたい。亡くなられたキリスト者の詩人島崎光正兄のことである。この方は、先天性の脊椎披裂(せきついひれつ)症という、脊髄を覆う脊椎の発育が不完全で、裂けたままの状態で、母体から送り出されてくる。二分脊椎の障害をもって生まれた。そのため、4歳になってからようやく歩き始め、以来、足を引きずって歩いていた。その後手術を受け松葉杖を突いて歩行する。信州の松本の方で、小学校の校長が手塚縫蔵というキリスト者であった。小学2年生の時、その校長先生が語った言葉をよく覚えている。「松は松らしく、竹は竹らしく、牛は牛らしく、子どもは子どもらしく」。重い障害を背負って、片足を引きずるようにしてようやく学校に通っていたこの少年は、自分の障害を嘆き続けていたときに、7歳の子でしたが、この言葉に衝撃を受けた。「光正は光正らしく」、というメッセージをそこで聴き取った。お前はお前らしく生きたらいい。自分を受けいれたらいい。やがてその校長先生の導きもあり、教会に休むことなく通い、松本東教会で洗礼を受けて、キリスト者になった。その先生の詩集の中に「無題」として、「自主決定にあらずして、賜った命の重さをみんなたたえている」というのがある、という。その説明に次にような文章がある。「自己決定にあらずして」自分が決めたんじゃないよ。この障害を負って生まれてきたのは。親も、自分で決めて、自分を堕ろしてしまうようなことをしてくれなかった。それで自分はこの世に生を享けて、このように生きている。島崎さんも自分らしく生きた。しかし神に背中を向けてはいない。自分で決めた命ではない。神が与えてくださった命。それをありがたく自分らしく生きる。」(『エフェソの信徒への手紙』加藤常昭)。この島崎さんの本の中に「神の光を知るとは、根本的には、外なる傷と共に、私共はより大きな傷を内に蔵しているのに気づくことである。この内なる傷こそ、人間そのものとして、神に対して反逆を犯し、離れがちであるところの「罪」に他ならない。仮に、外なる傷は終生癒されずとも、やがて肉体の消滅と共に失せてゆくものである。けれども内なる傷(罪)は、永遠の命にいたる道を阻むものとして解決を迫るのが、聖書の教えである。・・この認識はたやすいことではない。けれども、謙虚に、またあらゆる外なる傷の痛みにかえ、祈り求める時に、神ご自身が教え示したもうであろう。ここに、イエス・キリストの十字架の贖いと癒しの恵みがある。この原点を抜きにしたあらゆる語らいや教養は、およそキリスト者である限り、無益な雑言にすぎないのである。」(「せせらぎ」20号、1973年、『傷める葦を折ることなく』)。
4.ここには障害の有無を超えた、人間の内側に存在する、創世記にあった、神の形(かたち)としての人間の内面性に深く切り込んだ信仰の在り方が示されている。神の形として造られたわたしたちの存在を根底から回復するためのキリスト・イエスの働き。十字架によって勝ち取られた罪の贖いと癒しの恵みがある。われわれは信仰の手を差し出して謙遜にこの恵みを押し頂いていく。その時、わたしの人生は変えられていく。だれでもキリストにあるならば新しく造られた者である。ここに神の光が差し込んでくる。そしてわたしたちは、良き行いをするように神によって準備された、神の手作りの作品としての人生を歩める。一人一人違っているが自分らしい神の恵みによって生かされていく人生がある。 これから歌う讃美歌332は、そのような自由と喜びと服従が示されている。
#1「主は命を与えませり。主は血潮を流しませり。その死によりて、われは生きる。われ何をなして、主にむくいし」。#3「ただ身とたまとを献げまつらん」。