説教要旨 出エジプト32・15−24 ローマ1・18−23 2026年9月13日
「神を知っていながら」
今日の説教の結論は、1・21「なぜなら神を知りながら、神としてあがめることも、感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」
わたしたちは、すでにキリスト者となっている「神を知っている者」たちであるが、そのことを本当に感謝しているか。キリスト者であることの恵みを忘れてしまうならば、心が空しい思いになり、心暗い思いに捕らわれてしまう。今朝はそこから脱却する道を示されていきたい。
1.新共同訳聖書は、今日の聖書の箇所に「人類の罪」というタイトルをつけた。ある神学者はここに「夜」という題をつけた。この手紙が書かれた当時のローマ帝国の市民たちの生活は、表面的には何物も恐れないような好き勝手な「心の欲望」(24節)のままに生きていた。しかしその内面はどうなっていたか。29節「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢で、大言を吐き」と続いている。32節「彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら」自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為を是認していた。彼らはそれらの悪を楽しんでいたが、決して悪に満足していた訳ではなかった。むしろ、心は空洞であった。「あなたがたはこの世の中で、希望もなく、神もない者であった」(エフェソ2・12)。人間は生ける神を捨て目に見える偶像を造った(アロンの金の子牛、エレミヤの壊れた水溜)。「わたしたちは神に出会うまでは、わたしたちの心は満たされない」(アウグスチヌス)。
2.われわれはどのようにして神に出会っていくのか。ある神学者が神の存在証明をする、神を見出す方法が3つあるという。@神の造られたこの世界、大自然を見よ。「農業の法則を破れば、収穫は失敗する。建築の法則を破れば、建物は崩壊する。健康の法則に従わないと、人は健康を害して苦悩する」(バークレー)。キリストは言われた。「空の鳥を見よ。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。また野の花がどうして育っているのか、考えてみるがよい。働きもせず。紡ぎもしない。今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、、あなた方に、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6・26以下)。太陽、月、星、空、海、森、山、川、人間、動物、鳥、魚。その生命体の不思議さ。20節「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」A人間の歴史の中に、神の御支配の不思議さが存在している。「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえにねたみを起こすな。彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」「わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかしわたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。」神は歴史の中で、悪を裁き神に従う者を救ってくださる。神は今も見えざる御手をもって、神の造られたこの世界を最も深い所で支配している義なる神である。
Bイエス・キリストを見よ。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(ヨハネ12・44−45)。「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ20・28)。イエス・キリストの十字架と復活の御業は、神の御業の決定的な、否定することのできない神の生きて働いていることのしるしである。
3.人間はどうして、このように神の存在を知らされながら、神を認めようとしないのか。「それは、われわれ人間が主人を持つことを好まないからである。もっとはっきり言えば、われわれは自分が神になりたいからである。エデンの園で蛇がエバを誘惑した言葉は、あなたがたは神のようになる、ということであった。それ以来人間は、自分が神のようになれると思い、神に代わるものであると信じ、したがって、神を必要としないと思うようになった。だから、神を知っても、神としてあがめるのは自分自身であった。22節「彼らは自ら知者と称しながら、愚かになった」。神に対して自分は知者であるというのである。われわれは王であり、人間こそ世界の主人であると、幾度となく自分に言い聞かせるのである。その結果、愚かとなってしまった。」(竹森満佐一)。
しかし神は18節「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信人と不義に対して、神は天から神の怒りを現されます」とある。これはその前の17節にあった「神の義は福音の中に啓示される。」と対比して、18節では神の怒りが人間の不義、不信心に対して啓示される。どちらも神ご自身の御心として啓示されている。ある人は神の怒りが啓示されるということは、「旧約聖書の名残りではないか。新約聖書を持っている我々はもはや、神の怒りを語る必要はないと考える人がいる。しかし神の怒りが啓示されたとある。キリストの十字架は愛の象徴である、と言われる。その通りである。しかし同時に、この十字架こそは神の怒りの啓示である。神は忍耐をもって、今まで侵された罪を、見逃しておられたが(3・25)、その救いのために、キリストを立て、その血による、供え物をお立てになったことを忘れてはならない。人間の罪が、神にとってどんな意味を持っていたかを知らねば、救いもまた全く分からなくなるのである。人間の気持ちで罪の量をはかることはできない。神が罪を、どうご覧になるかということである。神が、罪をどんなに耐えがたくお感じになるか、ということである。神が、罪をどんなにお怒りになるか、ということである。われわれも罪を憎み、罪を怒るが、それでは結局、われわれの量りにのるだけしかわからないのである。神の怒りを正しく知るためには、その怒りがどこからきているかを知らねばならない。天から。神ご自身からきている。神の怒りは神ご自身のみの行われる御業であることを忘れてはならない。神の怒りが徹底的であり、逃れえないことを知らないために、自分の罪が完全に裁かれていることが分からないので、神の恵みがはやり十分に分からないことになるのではないでしょうか。「われらはあなたの怒りによって消え失せあなたの憤りによって滅び去る」(詩篇90・7)「誰があなたの怒りの力を知るでしょうか」(詩篇90・11)。神の怒りは神の尊厳と清さの当然の結果である。絶対であり、徹底的である。」(竹森)「神の義は福音の中に啓示された」。この真理を受け入れようとしない、人間の不信心と不義に対し神は神の怒りを啓示された(18)。
4.われわれは神の真理を知っていながら、神をあがめ神に感謝しない。「神の真理を阻む(口語訳)、妨げる(新共同訳)」は、真理を押さえつけ、縛り付け、閉じ込める強力な力を意味する。この深く人間の内面に入り込んでいるしぶとい、高慢を神は打ち砕かれる。それが礼拝体験である。啓示される(17,18口語訳)は、共に現在形が使われている。神の裁きが、十字架のキリストの上にくだされた恵みを感謝し、ただこのキリストを信じる信仰に生きる者として、信仰による義人として、神の恵みと平安と祝福をいただいていく。それがキリスト者である。
この絶大な大きな大きな恵みを感謝し、今週も罪赦された義人として、この世での果たすべき責任を果たしていきたい。