説教要旨     ゼカリヤ9・9−10        ルカ19・28−40                      20204.5.19
「子ロバに乗った主」

 今日の説教の結論は、ルカ19・33−34「〔二人の弟子が〕ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。」子ロバに乗る主イエス。この姿が今日の結論である。

1.主イエスがエルサレムに入っていかれる場面である。イエスがこの世に来られて以来、すべてのことはここを目指して進んできた。福音書の頂点をなしている。今日の聖書の冒頭28節にも「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムへ上っていかれた。」先立って、とは「先頭に立って」(マルコ10・32)、エルサレムで起こる出来事の、脇役ではなく主役として、進み行かれる気迫が伝わってくる。主イエスはすでに9・51で「イエスは、天にあげられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあった。エルサレムで起こることは運命や宿命ではなく、神の御旨である。キリストご自身の意志でこれを引き受け、苦き杯を自ら引き受ける覚悟、意志ができていた。 「イエスのエルサレム入城は王者の凱旋に譬えうる情景を持ってせられた。しかも彼自身は切迫した受難の死を堅く予期している。十字架が固有の使命であると共に、究極の勝利であることをイエスは明確に自覚していた。「我もし地より挙げられなば、すべての人をわが許に引きよせん」(ヨハネ12・32)とは、彼の瞬時も揺るがぬ確信であった。それゆえ受難者は十字架への道において、王者の儀礼を要求したのである」(熊野義孝)。主イエスはこの世の政治的な勝利者ではなく、神の国の本当の勝利を確信していたゆえに、王者の儀礼を要求したのである。

2.政治的な王の入城なら白馬にまたがって威風堂々として入るのが普通であった。ところが主イエスが選ばれた動物は戦闘用にも使われていた馬ではなく、荷物の運搬や農作業に使われていた忍耐強いロバであった。そこに主イエスの目が注がれていた。イエスの弟子たち、はじめ一般の人々は、イエスのエルサレム入城によってローマ総督の政府が転覆され、神の国がすぐにも現れると期待した。しかしイエスは彼らの願望を打ち消された。イエスの目はただ神の意志である聖書の成就に向けられていた。マタイ福音書にはゼカリヤ書9章が引用され、「見よ、お前の王がおいでになる。柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ろばに乗って」。これは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。と記されている。イエスはこの平和(平安)を実現するために来た。

3.イエスはエルサレムに入る前のオリーブ畑と呼ばれる山の麓に来たとき、二人の弟子を使いに出して、こう言った。30節「向の村へ行きなさい。その村に入ると、まだ誰も乗ったことのない子ロバがつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いてきなさい。もし誰かが「なぜほどくのか」とたずねたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。」 実際はどうなったか。弟子たち二人が行ってみると、確かに子ロバがつながれていた。それをほどいていると、ロバの持ち主たち、多分夫婦かその仲間たちであろうと推測される。どうして他人の子ロバを勝手にほどいて連れて行くのか、それは盗みになることでは
ないか。と言ってきた。そこで、弟子たちは教えられたとおり、主がお入り用なのですと答えた。すると許してくれた。「主」はこの場合イエスのことを指している。イエスは神の御心を実現するために心を用いていた。過ぎ越の祭りの時に行われる食事の準備の時も、イエスは意を用いていた。22・9二人の弟子がどこに準備しましょうかと言ったときに、水瓶を運んでいる男に出会うから、その男の後をついて行け。その家の主人に、先生が弟子たちと過ぎ越の食事をする部屋はどこかと言っています、というと席の整った二階座席を見せてくれるから、そこに準備しなさい。その通りになった。ここにも、主イエスの心が現れていると見なければならない。人間的困難があっても、神の御意志は実現していく。

4.36節イエスがそのロバに乗る。人々は自分の服を脱いで道に敷いた。マルコ福音書では他の人々は、野原から葉の着いた枝を切ってきて道に敷いた。これも王に対する服従の意思を表す行為であった。子ロバに乗ったイエスがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子たちの群は、声高らかに神を讃美して歌った。主の名によって来られる方、我らの王に祝福。天には平和、いと高きところに栄光。と。これは祝祭日に歌われる詩編の113から118編に終わりにある、ハレルヤという言葉を言い換えたものだった。クリスマス、主イエスがこの地上にお生まれになった時に、天使が羊飼いに告げた言葉があった。天には栄光神にあれ。地には平和人々にあれ(2・14)。これに対し、ここではいまこの地上から去っていく、その時に、天に平和、神に栄光と歌われた。マルコ福音書ではダビデの子にホサナ(マルコ11・10)とある。イエスはダビデ王の再現と歌われた。 ところがパリサイ派のある人々がこの群衆を黙らせてくださいとイエスに言った。これに対して、イエスはお答えになった。もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す。石は単なる無機質な物、しかしそれが叫び出すとは。ファリサイ派の一部はこの世の宗教的、政治的権力にしがみついていた。そのエルサレムの石垣がこれから40年後、紀元70年にローマによって滅ぼされる、瓦礫が音を立てて崩れていくのをファリサイ派の人々は知らない。またイエスが甦らされた復活の朝、墓石は音を立てて崩れ、転がされ、地には地震が起こることを知らない(マタイ28・2)。ここでの群衆の、王に対する讃美は復活の朝に響いたであろう天使の讃美の歌声につながっていくものであった。更には、ヨハネ黙示録が語る「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆が白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って大声で叫んだ。」(7・9)、その大群衆の叫び「わたしたちの神である主が王となられた」(19・6)に通じている。ヘンデル(17世紀)の「メサイア」の最後で繰り返される、「王の王、主の主」(19・16)の歌声。わたしたちの礼拝の讃美もそこに連なっている。

5.イエスを乗せた子ロバ。主イエスは言われた。「主がお入り用なのです」。子ロバの所有者がいた。しかし万物の創造者なる神こそ本当の所有者である。三浦綾子は『ちいロバ先生物語』を書いている。そのタイトルに注目したい。ちいロバとは、牧師榎本保郎先生のことであるが、イエス様を乗せた小さな子ロバに自分を譬えている。神は子ロバを必要としている。わたしたちも主イエスを乗せて、主イエスに仕える生き方がここにある。 ある神学者の比喩を思い出す。先生がタクシーに乗った。タクシーはそれまで空車、空っぽの車だった。しかし、自分が乗り込んだら実車となった。これはキリストを信じる者の在り方を示しているという。わたしたちは子ロバ。主の主、王の王イエス・キリストがわたしの人生に乗り込んでくださる。わたしたちは主を乗せて走る。そのとき、その人の人生は本当の実車となる。「わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得になろうか」(ルカ9・24)。