説教要旨 詩編103編1−5節
ルカによる福音書24章1−12節
2025.1.19
「よみかえられたイエス」
今日の説教の結論は、ルカ24・6「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」
1.この言葉は日曜日の明け方早く、墓に行った婦人たちに対して語られた言葉である。23・55、〔ガリラヤからついて来た婦人たちは〕、主イエスが十字架の上で息絶えてから、撮り下ろされ、アリマタヤのヨセフの手で葬られたあと、「イエスの遺体の納められている有様を見届け、家に帰って香料と香油を準備した」。これが金曜日の夕刻であった。婦人たちは、泣きながら悲しみと絶望の夜を過ごした。そして、婦人たちは安息日が終わった日曜日の明け方早く、日の出の頃、主イエスが納められた墓に向かっていた。せめて、先生の亡骸に、香料と香油を塗って差し上げたい。そこにガリラヤから従ってきていた婦人たちの暖かい思いがあった。しかしひとつの心配事があった。それは墓の前には大きな石が置かれていた。マルコ福音書によれば「婦人たちは、誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとある(マルコ16・3)。ところが、どうしたことでしょう。目を上げてみると、あの大きな石が墓のわきに転がしてあった。マタイ福音書には「大きな地震が起こった。主の使いが天から下って、そこに来て、石をわきへ転がし、その石の上に座ったからである」とある(マタイ28・2)。地震も、天使も、神の働きを示す聖書の表現であることを考えると、これは人間の力ではなく、神の力によって石は転がされたのだ。またその墓の前にあった大きな石を人間の手で再び閉めてしまわないように、天使がその石の上に座っていた、とマタイは記している、と読むことができる。またその石が取りのけられたのは、復活のイエス様がそこから出てくるためというのでなく、人間がその墓の中に入って中を確かめて、その墓の中を見るためであった、という解説を読み納得できた。わたしたちの不安を神はこのような形で、人間の思いに先立って既に取りのけてくださっている。「思い患いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペトロ5・7)。
2.婦人たちは中に入ることができた。しかし、「主イエスの遺体が見当たらなかった」(3節)。これには婦人たちは驚き、途方に暮れたとある(4節)。途方に暮れるとは、道がなくて、そこから前に進めない。この言葉のもとの言葉は、「渡しがない」ことを指す(ガラテヤ2・20)。川を前にして向こう岸に行く渡し船がない状態。そのために当惑している、困惑している。天を仰いでいる。わたしたちも日常の生活でそういったことを次々に経験している。婦人たちも同じであった。香料を塗ろうとやってきたのに、今度はイエス様のご遺体がない。しかしそこに神が用意していた。それが天使たちであった。神は一つ一つ、橋をかけて道を開いて行ってくださっている。思い煩うな。天使たちは語った。5節「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活する、と言われたではないか。そこで婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」婦人たちはイエスに対する熱い思いを持っていたが、それはこの世のことであった。わたしたちが悩んでいるのは、この世のことではないのか。この世界は究極的には墓を住処としている世界である。死のなかに支配されている人間。それがわたしたちの現実。墓に向かって生きている人間、それがわたしたち。婦人たちは死者の体を捜していた。ところが天使は言う。死の象徴である墓の中に、イエス・キリストはいない。それはキリスト御自身の言葉である。天使はイエスの語った言葉へと導いていった。24章27節では主が聖書を解かれた。(詩編103・3−4参照)この「思い出す」とは、23・43で、十字架の犯罪人のひとりが「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったその言葉である。主イエスは悔い改めたこの犯罪人の一人を直ちに受け入れた。イエスは言った。「あなたは今日わたしと一緒に、楽園にいる」。思い出す、とは頭の中で、記憶をよみがえらせることだけでなく、その言葉がその語った人との人格的な関係が再び始まっていくことである。ルカ福音書では、この墓の中にはよみがえられたイエスはいない。ところが、ヨハネ福音書を読んでみると、そこには墓の中でよみがえりのイエスが背後からマリアに「マリア」と声をかけたとある。ルカ福音書では、このあと、エマオに向かう弟子たちに自らを現す、顕現する形で出会ったことを書いている。マタイ福音書では、婦人たちが墓を立ち去って、弟子たちに伝えるために道を急いでいた、その途上で婦人たちの行く手に立って、よみがえりのイエスが声をかけた。平安あれ(口語訳)。婦人たちは近寄りイエスの足を抱き、その前にひれ伏した(マタイ28・9)。そのマタイ福音書では、主は言われた。「恐れることはない、行ってわたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」とある。大事なことは、ヨハネ福音書のように墓の中で会ったのか、マタイ福音書のようにガリラヤで会うのか、という問題ではない。ルカ福音書の婦人たちは直ちに主イエスの言葉「人の子は、必ず、罪人の手に渡され、十字架に付けられ、三日目に復活することになっている」を信じた。「必ず」と言う言葉に注目せよ。人の子は必ず罪人の手に渡され、必ず十字架に付けられ、必ずよみがえらされる。これらすべてかかっている。しかもこれらは受け身形で書かれている。これは神の決定、神の定めであることを意味する。婦人たちは、イエスが語られる言葉は、単なる作り話ではなく、いつも真実である、必ず主が言われたようになることを体験的に知っていた。三日目に復活させられることになっている、との言葉を思い出したとき、婦人たちはそれを受け入れることができた。神の言葉が婦人たちを復活の主に導いた。その時、婦人たちは復活の主に出会ったのであった。この世を越えた全く新しい経験であった。
3.イエス・キリストは死と罪の象徴である墓を空とされた。「イエスの十字架はわれらの罪の証拠であり、イエスの復活はわれらの罪の赦された証拠である。・・『イエスはわたしたちの罪のために、死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです』(ローマ4・25)。われらの救いのために計りたもう神の経綸は、なんと大きく義しく、かつ愛に満ちていることだろう。・・イエスは神に立てられ、われらの義と聖と、贖いとになりたもうのだ。」(矢内原忠雄)。言葉は人格をもっている。イエス・キリストはいまもこの言葉をもって私たちに語りかけ、永遠の贖いの業を行ってくださる存在である。
4.ヨハネ黙示録の著者ヨハネは教会への迫害のためにパトモスという島に流されていた。しかしそこでよみがえりの主キリストとの霊的な深い交わりがあった。「その方を見ると、わたしはその足下に倒れて死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きているものである。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。見たこと、今あること、今後起ころうとすることを書き留めよ。」(ヨハネ黙示録1・17)ヨハネも、罪の赦しを与えられ、キリストの復活の命にあずかって、神からの使命を果たしていった。わたしたちも今週その神に仕え、人々に仕える業を果たしていきたい。