説教要旨 歴代誌下6章18−21節 エフェソ6章18−20節 2026.6.21
「根気よく祈れ」

今日の説教の結論は、18節「どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

1.「この世の悪魔の策略」(11節)に対抗するために、神の武具(14節以下)を身に着けよ。真理を帯として締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備として履物を履き、信仰を盾として取り、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。といい、その最後に、「祈り」という武具を書いている。
最後は「祈り」で締めくくっている。「これらすべてのことを行うとき、神の助けを求めて祈りなさい」(リビングバイブル英語版)。 「あなたたちは霊の人として、あらゆる機会をとらえて、さまざまな祈りと願いをささげてください。」(本田哲郎個人訳)。「その際に祈るのを忘れるな」と訳もある。教会の集会では、しつこいくらいに、祈りで始め祈りで終わっている。子供の集会もあれば、テータイムもあれば、聖書その他の学びの時もあり、それぞれに応じていろいろの祈りがなされる。時にお天気の祈りから始まって世界の政治情勢の分析から日本の諸問題が延々と続く場合がある。そうではなく、やはり、その場その場にふさわしい祈り、それが「さまざまな、あらゆる機会」にふさわしい祈りが捧げられることが必要である。特に公的な礼拝の祈りは、今礼拝しているその礼拝のために礼拝者が礼拝に集中できるように祈ることが必要である。焦点を1点に絞り祈ることが大切である。

2.神学校の授業の時、学期の始まりであったが、教授が教室で祈って授業が始まったのを新鮮に受け止めた。眠る時、食事の時、特にレストランなんかでは黙って食べている。そうではなく、これも神からの恵みによって備えられたものだ感謝して、心の中ででもいい。そのことを忘れないで、祈りなさい。祈ることをしない最大の報いは何か。それは神が罰を与えるようなことではない。祈らねばならない時に、祈れなくなることである。
 明治時代の文豪のひとり正宗白鳥(1879明治11−1962昭和37)は若い日に市ヶ谷キリスト教講義所に通い、植村正久から富士見町教会で洗礼を受けた。ところが彼は岡山の大地主の息子で芝居と落語が好きで当時の、禁欲的なピーリタン的なキリスト教から次第に遠ざかり、教会から離れてしまった。ところが晩年すい臓がんになり、死の問題が出てきた。植村の娘植村環牧師(柏木教会)の指導を仰いだ。牧師は毎日病床に通い、讃美歌を歌い、祈りをして聖書の話をした。牧師はヨハネ福音書のトマスと復活のイエスの対話「トマス、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」といった。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(ヨハネ20・27以下)。文語訳聖書では「見ずして信じる者は幸いなり」。牧師はこの言葉を繰り返し語った。「わたしは単純になりました。信じます。従います」と言って、牧師の手を取って牧師の祈りに「アーメン」といった。その前には、自分はもう祈れない。祈ってくださいといったという。祈りをしなくなった生活が長くと祈れなくなってしまうことの実例がここにある。聖書は何といっているか。ヤコブ書5・14「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて主の名によってオリーブを塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」
「神は『アッバ父よ』〔わたしのお父さん〕と叫ぶ御子の霊をわたしたちの心に送ってくださったのです」(ガラテヤ4・6)。(この霊〔御子の霊〕によってわたしたちは、アッバ父よと呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます、ローマ8・15−16)。死に直面して弱って迷っていた白鳥の魂に寄り添い、十字架につき甦られた御子イエスの霊を与え、そこから救い挙げ、てくださった。

3.今日のエフェソ書6・18では「どのような時にも、”霊”に助けられて根気よく祈り続けなさい」とある。この”霊”はアバ父よと叫び祈ることのできる御子イエス・キリストの霊、御父と御子とから出る”聖霊”である。ガラテヤ書では神がその御子の霊をわたしたちの心に送ってくださったと言っている。父と子と聖霊の働きの中で、わたしたちの心に、神に対する信頼が生まれていく。どんな苦しい状況の中でも、たとえ死に直面しても、私たち自身が祈れないような状況の中にあっても、「”霊”自らが言葉にあらわせないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8・26)。「神は、神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということをわたしたちは知っています」(ローマ8・28)。だから、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4・6−7)。子どもはどんなくだらないことでも間違ったことでも親に平気で言う。そのような関係が親子関係が神との祈りの関係についても言える。神は最善を用意してくださる。「万事を益としてくださる」。

4.祈りについて、もう一つ大切なことをエフェソの教会の人たちに願っている。それは19節「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのために祈ってほしい」。この祈りは、パウロ個人の願いであるよりも、キリストの教会に仕える者としての、言い換えればイエス・キリストという福音の奥義を管理する者(1コリント4・1)として、その福音の奥義に仕えるものとして、福音の奥義を託された者として、その福音を大胆に誤りなく語れるように祈ってほしい、という願いである。これは教会にとって、決定的に大事な点である。豆腐屋さんの看板を掲げておきながら、そこに豆腐がおいていないなら、その店は豆腐屋の看板を降ろさねばならない。教会がただ人間的な交わりしかないのなら、それは教会とは言えない。イエス・キリストとの交わりこそ教会の生命、死活問題である(1ヨハネ1・3)。この祈りを要請している。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく、伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画〔奥義 口語訳、新改訳〕が今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画〔奥義〕とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」(コロサイ1・25−27)。
パウロはいう。「わたしはいま鎖につながれているが、語るべきことを大胆に話せるように、祈ってください。」(20)。鎖はこの世の力の象徴である。この力に縛られ屈して、福音の奥義を大胆に語ることに勇気をなくしてしまうことがないように。この世の力によって「神の言葉を曲げずに」(2コリント4・2)真理を明らかにすることが、教会の使命である。このことのために祈ってほしい、とパウロは願っている。毎週の祈祷会は、この課題を果たすためにある。皆さん方のこの祈りによって教会は支えられている。