説教要旨 イザヤ53・1−12 マタイ16・21−28
2026.3.8
「黙々と十字架を負う」
今日の説教の結論は、マタイ16・21「この時から、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」
1.「この時から」とは、16章の初めに、イエスは弟子たちだけを連れて、ガリラヤ湖の北の町フィリポ・カイサリアに移動した。その時、イエスは弟子たちに、人々は人の子を何者だと言っているか、との問いを発せられた。エレミヤ、エリヤ、洗礼者ヨハネのひとりという者もおります、との弟子たちの答えであった。イエスは切り込まれた。それでは「あなたがたは、わたしを何者だというか」。その時、ペトロが代表して答えた。「あなたは生ける神の子キリストです」。これは後の教会のイエスに対する信仰の告白の告白となった。それはそれで正しい。まさに「この時から」、イエスは御自分の働きについて、弟子たちに胸の内を「打ち明け始められた」(21)。マルコ8・32には「はっきりとお話になった」とある。その内容は何であったか。「イエスは、御自分が必ず、エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっている、」と弟子たちに、はっきりと打ち明け始められた。
2.これに対するペトロの反応は「イエスをわきへお連れしていさめ始めた」。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」「直訳すると、あなたに神の憐みあらんことを」という祈願文であるという。人間的に見れば、ペトロはあらん限りの愛を注ぎだし、神の憐みによって、この悲惨事からイエスが守られるようにと願ったのかもしれない。あるいは、神が恵まれれば、そんなことにはならぬでしょう。そうあるべきではないとペトロは言った。
しかし、イエスは、峻厳なる否定をもってこれに答えた。「ペトロはサタンの手先とされたのであった。われわれはここに、人間的には善意を込めて語ったとしても、客間的事実としてはまったく、神に背く結果を招くという、恐るべき事例に直面する。・・もしこの〔イエスの〕受難予告に見られるようなメシア観〔裏切られ、十字架に引き渡されるメシア〕が欠落していたとすれば、キリストの教会は地上から消滅していたであろう。サタンはこれを狙っていたのである。」(高橋三郎)。ペトロは、到底そんな先まで見通せなかった。自分の目先のことから判断して、十字架の苦しみや十字架の死という事実を受け入れることはできなかった。そこにキリストの鋭いまなざし、鋭い裁きの言葉は、深くペトロの内面の無知や愚かさに対して向けられた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。」「サタンよ、わたしの背後に失せろ。お前はわたしの躓きだ」(岩波訳)。「あなたは、わたしの邪魔をするものだ。」それは神の御心、神の御計画、神の御意志と弟子ペトロの考え、意志、思いがいかに、かけ離れているかをペトロ自身に知らしめる必要があったからであった。それが23節「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。神のサイド、側に立たないで、人のサイド(側)に立っている、と訳しいるのがあった。
3.21節でキリストは、自分は「必ずそのように殺され、三日目に復活させられることになっている」十字架の死も、復活も「神によって定められている」。ここに「必ず」という言葉がある。これは、小さな言葉であるが、神のおごそかな決定、神の意志の現われ、神の強制、天よりの強力な動かしがたい決定を意味する言葉である。これから、聖書はそ道行を語っていく。マタイ福音書26章には、長老、祭司長、律法学者たちからなる最高議会〔法廷〕はイエスを亡き者にしようとして、「この男は神の神殿を打倒し、三日あれば立て直すことができるといった」、証言が出された。それは神殿に対する冒涜であり、神に対する冒涜とみなされた。また大祭司カヤファはイエスにお前は神の子、メシアなのか、と直接問われたが、イエスは何もお答えにならず、「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」と答えた。すると大祭司カヤファは服を裂きながら「諸君は神を冒涜した言葉を聞いた。これでもまだ証人が必要だろうか」といったとある。これによって、イエスは神を冒涜した冒涜罪により死刑。最後の死刑の決定は行政府のローマ皇帝の権威を与えられていた総督ピラトによって下された。ユダヤ教の側では、安息日の律法を破り、生まれつき目の見えない人の目を開けたという理由や、先ほどの神殿を壊し三日で建てるといった理由とか、ローマ政府に対して真っ向から反対するような政治的な謀反を企てたという理由もなかったのに、ことはそのように進んでいった。それはこの世にある人間たちの思いであった。
4.なぜ神は御子イエス・キリストを十字架に付けて、殺さねばならなかったのか。それに対する答えは、イエス・キリストご自身の言葉によるほかない。26節「人はたとえ、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払い得ようか。」人間はたとえ、全世界の富を自分の手に入れたとしても、神の前に生きている自分のいのちを持っていないならば、何になろうか。この命は、生物学的な肉体的生命ではない。マタイ10・28「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も、体も地獄で滅ぼすことのできるかた〔神を〕をおそれなさい」といわれた。命とは、肉体的な命ではなく、神の前にある人間の魂。人が人である命、たとえ肉体的に障害を抱えていても、その人自身が持っている命、肉体的な命は故障があったり、欠けている面があったとしても、政治的権力者が殺すことのできるのは、肉体的な命でしかない。そういう者を恐れるな。地獄で肉体も魂も滅ぼすことのできる神を恐れよとキリストは言われた。神の前にあるかけがえのない、わたしたちの魂。その人自身それは、この世の全世界の富よりも尊いのだ、と言われた。これが汚れていてはならない。これを20・28でキリストは、自分は「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われた。このところの口語訳は「多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである。」多くの人、これはすべての人を意味する、すべての人の罪の贖いのために、その身代金として自分のかけがえのない命を献げるために来たのだ、と言われた。5.神の前から離れ、この世の肉、人間の本性にしみ込んでいる罪と汚れ、その悲惨さ。神の目から見るならば、わたしたちの存在は神の前から失われ、この世の罪と汚れに満ち満ちている。そこから人間同士の様々な悪しき業が出てくる。これはユダヤ教の大祭司にも、総督ピラトにも、そして弟子であったペトロにも、その意味するところがこの段階ではまだわからなかった。旧約の詩篇49・8以下に「神に対して人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」われわれは神の前に義とされるどんな身代金もあまりに高く、自分自身で支払うことはできない。それのために、神は御自分の御子の尊い命を献げることを求められた。それが神の御心であった。イザヤ53・11「わたしの僕は、多くの人が正しいものとされるために、彼らの罪を自ら負った」。この罪を宇苦難こそ、イエス・キリストの御業であった。 この命の主に従い神に仕えることが、わたしたちのこの世での生き方である。今週もそれぞれの使命を精一杯果たしていきたい。