説教要旨 イザヤ書25章7−9節
ルカ24章36−43節
2025.2.9
「復活の確かな保証」
今日の説教の結論は、24・39「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」このような仕方で、よみがえりの主は、自らを弟子たちに現わされた。
1.エマオにおいてよみがえりの主イエスに出会った二人の弟子たちが、エルサレムに戻って話をしていた中に、突然主イエスが入ってこられ、その真ん中にたって、「平安あれ」と言われた。弟子たちは、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(37)。口語訳聖書では「霊」を見ているものと思った。それがイエス・キリストであるとは、認識できなかったので、「恐れおののいた」。突然、予期しないときに入ってきて、びっくり仰天した。ここではよみがえりの主が入ってこられ驚いた場合であるが、イエスの生前、弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡ったことがあった。主イエスはひとり祈るために山へ退かれていた。その時、途中で突然海が荒れて、弟子たちの乗った舟が逆風のため危険となり、漕ぎあぐねたことがあった(マルコ6章、マタイ14章)。夜が明ける頃、主イエスが湖の上を渡って、弟子たちの舟に近づいてこられた。その時、弟子たちは、何らかの人影が自分たちの舟に近づてくる来るのを見た。そして言った。「幽霊だ」。恐怖のあまり弟子たちは叫び声をあげた。実はこの時も、イエスの方から声をかけた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。そう言って、弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(マルコ6・52)とある。あそこでも、弟子たちはイエスが神の子キリストであることを、認識していなかった。つまり、人間を超えた御方であることを、まだ完全には認識していなかった。だから、「亡霊」あるいは「幽霊」としか見えなかった。
2.よみがえりのイエスの姿は、人間の肉の目ではとらえ難いものであることが、他の聖書にも記されている。ヨハネ福音書には、イエスの墓に行ったマリアに対し、よみがえりのイエスが出会う場面がある。墓の中にいた天使がマリアに声をかけた。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません』。こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。・・マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」その時イエスが「マリア」と声をかけた。彼女は振り向いてヘブライ語で「ラボニ」と言った。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20・17)。
ヨハネ21章には、ガリラヤ湖畔でよみがえりの主が現れた次第が書いてある。シモンペトロを中心に七人の弟子たちが漁に出た。ところがその夜は何も獲れなかった。「既に夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べるものがありか」と言われると、彼らはありませんと答えた。弟子たちはイエスの命じられるままに、漁をした。」大漁の魚を前にして、ヨハネが「あれは主だ」といった」とある(ヨハネ21・7)。
3.よみがえりの主のお姿は、肉の目で見られるものではなく、イエス・キリスト御自身の方から、声をかけかれる。神御自身の方からの方からの働きかけによって、はじめて、わたしたちはよみがえられたキリスト、神の子キリストに信仰の目が開かれていくのである。人間だけでは、そこにいるのが亡霊であるとか、幽霊であるとか、ラボニ〔先生〕としてしか認識できない。この事実を聖書は語っている。
4.このような弟子たちのために、このルカ福音書24章でも、主イエスが、なぜ驚くのか、なぜ疑うのか、といって、神であるイエス・キリストの方から、39節「わたしの両手とわたしの両足を見よ、触ってみよ」といって、十字架に釘付けられた両手、両足を差し出した。そしてこう言った。「わたしである。」正真正銘の、十字架に付けられたわたしである。この「わたしである」という定式は、神顕現、定式といわれ、旧約以来、モーセに現れた神が「わたしはある」(出エジプト3・14)と言われ。また先ほどの嵐の舟に乗り込んできたイエスが「安心せよ、わたしだ」(マルコ6・50)と言ったときも、「わたしはある」「わたしはここにいます」といって、御自分がよみがえったキリストであることを示した。更にヨハネ福音書20章では、一週間前にはいなくて、自分はこの目で、この手で主イエスに触れなければ、イエスの復活を信じないと言っていた疑い深いトマスに、1週間後、イエスは部屋に入ってきて、誰にも目をくれず、トマスに向かっていった。そして「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばしてわたしの脇腹に入れなさい。信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われた。イエスの釘跡の手に触れること、イエスの脇腹の槍の傷跡に触れること、それは釘跡の表面、脇腹の表面の傷に触れることはではない。イエスの傷のもっと奥深くにあるイエスの愛に触れることである。手を伸ばすとは、神の愛に手を伸ばしたことである。トマスは、その神の愛に触れた。トマスは主の前にへなへなとそこに立ちすくんでしまった。そして「わが主よ、わが神よ」と言った(ヨハネ20・28)。ドイツの彫刻家エルンスト・バルラッハの木彫作品に「再会」と題する作品がある。日本に作品が来た時、この作品を見た。亡くなった加藤常昭先生の解説によると、トマスはイエスよりも年老いていて、今にも崩れそうな体をよみがえりの主イエスの太い腕がその体を支えている。そう解説している。霊的な命を失いつつあるトマス。その今にも崩れ落ちそうなトマス。そのトマスを復活の御腕がしっかりと支えている。トマスは、主に支えられながら、わが主よ、わが神と信仰の告白をしている。
5.ルカ福音書では、主イエスが、ここに何か食べるものがあるかと言われた。弟子たちが焼いた魚を一切れ出すと、食べられた。復活の体が食物を必要としたからではなく、イエス・キリストがこの世にいることを、十字架に付けられたわたしが、いま永遠の命の主としてよみがえっていることを弟子たちに示したかった。イエス・キリストはよみがえりの初穂となられた。ここに、イエス・キリストの十字架と復活によって立てられた神の国が来ている。わたしたちは、この世の人生の旅路の中で、何度も何度もこの世の苦しみや、悲しみ、絶望、落胆、頭を抱え込む現実に出会う。しかし、聖書は、嵐に直面している弟子たちにも、疑い深いトマスにも、エマオに向かっていく弟子たちにも、故郷ガリラヤに帰った弟子たちにも、よみがえりの主はあちらから、人間の不安や、絶望を打ち破って、わたしたちの現実の中に入ってこられて、『わたしである』「わたしはあなた方と共にいる」「わたしの十字架の釘跡に触れよ、そしてここに神の愛の血潮が流れている、永遠の命の主であるわたしが、あなた方の前に立っている、と言って御自身を現しておられる。その時、わたしたちの体にも、神の永遠の命が流れ込んで、わたしたちをキリストと共に、希望に生きるものとしてくださる。ここに復活者キリストを礼拝する教会の礼拝の恵みがある。
わたしたちは今週も、この復活の主イエス・キリストの命に支えられて果たすべき使命を果たしていきたい。