説教要旨 創世記3章1−7節
ローマ書1章24−32節 2026.9.20
「知恵の果実」
今日の説教の結論は、ローマ1・25「〔彼らは〕神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」
1.今日読んだ箇所でわたしたちの目につくのは、この言葉の前後に、人間の具体的な生活を激しい言葉で描写していることにある。男女の関係や29節以下には不義、悪、むさぼりから始まる、人間の悪徳表と名づけられる、21もの罪の数々が数えあげられている。どれか一つでも自分に当てはまらないものはない。しかし次のような言葉を読んで、この箇所の見方が変えられた。「この表は何のために、ここに書き出されたのでありましょうか。われわれは、聖書のような書物を読んでいて、こういうところに出会いますと、つい道徳の教科書をでも読んでいるような気持になって、これこれのことはしてはいけない、ということが書いてあるのだろう、というように思いがちであります。しかしそれにもかかわらず、聖書をそのようなものとして読むことは、やはり、的を外したことになってしまうのであります。ここでもわれわれが読み取らねばならないのは、神の福音である。もとより神の福音とはいっても、恵みにあふれた神の御業が、すぐに見えてくる、ということではないかも知れません。ただ神の福音が語られていることを承知して読むならば、このところもまた、単なる悪徳の表にはならない。逆に言えば、神の福音の広さ、深さも理解できるようになるに違いないのである。それならば、これらの罪の諸項目は、どんな意味で福音とかかわりがあるのでしょうか。まずこの表は、聖書が罪ついての意見を述べているのではありません。また罪について警告を発しているのでもない。ここにはわれわれの聖書では「すなわち」〔これは口語訳聖書にあり新共同訳にはない〕といって、新しい文章ではじまっていますが、もとの言葉によれば、「なすべからざることをなすに任せられた」〔新共同訳では、してはならないことをするようになった〕(28節)に続いて、それをなすに至った人間の状況を説明している。彼らはこういう状態にある。というのである。つまり彼らが、このような状態にあるのは、よいことであるとか悪いことであるというよりも、これは神の怒りの下におかれた人間の姿であるという。神の福音の光に照らした人間の姿、人間の真の姿、人間の正体が示されている。」(竹森満佐一)。
聖書は神の怒りの下にある人間の姿を書いているのだ。先ほどここには21の言葉があるといったが、それについては、次のような説明が語られている。
2.「われわれは事実をもって示されなければ、容易に罪の生活を承認しようとはしないのである。しかしまた、罪は全部を列挙しなくても分かるのである。われわれ人間は、自分のすべての罪について責任があるのであって、一部だけ認めれば、それでよいというのものではない。しかし一つ一つ数え上げなくても、一つの罪についてであっても、悔い改めることができれば、ほかのどの罪についても悔い改めることができるはずです。ここには罪が具体的に記されている。しかしあらゆる罪が書いてあるわけではない。しかしそれで十分なのだ。なぜなら、悔い改めるということは、心をめぐらして神に向かうことで、神との関係を正すことである。したがって、どのことが手がかりになったとしても、悔い改めは、すべての罪についての悔い改めになるはずである。そうでなければ真に悔い改めたことにはならないからである。だから、ここでは悪徳が全部数え上げられないばかりでなく、議論は主として、このような罪の生活が、どこから来たかということになっているのである。」(同上)
3.その理由を28節によれば「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになった」。このところの口語訳は「彼らは神を認めることを正しいとしなかった」。「正しいとする」というのは、鉱石の純度を測定するとき、何度も試した後で、これで正しいと判断する、という言葉であるという。ところが人間は神を認めることにおいて、そのような吟味をしなかった。フランシスコ会訳聖書は「彼らは神を深く知ることに価値を認めようとしなかったので、神は価値のない考えのままに任せられた。」岩波訳は「神を認識することを彼らが是としなかったので」と訳している。要するに、人間は神を知ることを吟味もなしに、正しいとせず、神を認めたくなかったので簡単に神を捨ててしまった。創世記3章の記述によれば、蛇の言葉、この木から取った実を食べてもあなたは死なないよ、むしろ神はあなたがたの目が開け、善悪を知り神のようになることを恐れているのだ、といった。人間、人類(アダム)はこれによって、知性、理性を得て、これを得るなら何の怖いものはない、と、よく吟味することもなく、簡単に蛇の言葉の方を信じ、自分が神にようになれるものなら、と、神認識の価値を「是」としなくなった。神を否定し、自分自身が理性、自分の知性をもって神のようになれるという蛇の言葉を信じ、神を捨ててしまった。その結果はどうなったか。もう自分を縛るものは何もない。自分の理性、自分の知性が万能である。自分の心(最奥の意思決定の機関)、自分の意志が神に取って替えられた。もう看視する人はいない。自分のしたいように、なんでもできると思うようになった。それが24節では「心の欲望」(欲情、口語訳)のままに、26節には「情欲」のままに生きる人間となっていった。男女の関係でも、情欲の奴隷となっていったことが挙げられている。25節には、神の言葉の「真理を捨てて」、蛇の偽りの言葉を信じる者となった。「造り主の代わりに、神によって造られた物を拝んで、礼拝するようになり、これに仕えた」とある。23節でも人間は偶像を神と取り替えたとある。預言者エレミヤは、物言わぬ偶像は「きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれていく。そのようなものを恐れるな。彼らは災いを下すことも幸いをもたらすこともできない。」「鋳て造った像は欺瞞にすぎず、霊を持っていない」「このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は地の上、天の下から滅び去る、と」(エレミヤ10章)語っている。ルターは、お金であれ、名誉であれ、この世の地位であれ、また絶望であれ、憎しみであれ、自分の理性や知性を絶対とし、ひれ伏すとき、それがその人の神であるといっている。
4.まことの神を切り捨ててしまった人間は、対人関係において、これが29節以下の「あらゆる邪なこと、悪と貪欲、悪意が自分の心の中に満ちるようになる。ねたみと殺意と争い、欺きと敵意にあふれ、陰口、そしり、神を憎み、人間を侮り、高ぶり、自慢、悪事を編み、親不孝で弁えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲である」。これらが死に値することは神の定めである。決して神の国を継ぐことはできない(ガラテヤ5・21,1コリント6・10)。これが神を失った、神を信じる信仰を失った人間の造り出している、罪の世界の現実の姿である。そういう中で、われわれは今日の結論である25節に導かれていく。25節はこの世の偶像に満ちた世界の中に、決して倒れることない金字塔のように立っている。「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン」アーメンとは動かない、確かである、真実であるという意味である。
エゴイズムと犯罪の満ち満ちた世界の中で、われわれは動くことのない堅固な真実な神の言葉「造り主こそ、永遠にほめたたえられる。アーメン」を信じて、今週も神の僕たちとして歩んでいきたい。