説教要旨 詩編98・1−3 ローマ1・16−17
2026.8.30
「福音を恥としない」
今日の説教の結論は、1・16「わたしは福音を恥としない」。この短いことば、誰でもすぐに暗記できる言葉、今日はこの言葉だけを覚えてもらいたい。
1.この言葉は、信仰を考えるときの千金〔多額のお金にたとえられる〕に値する言葉である。はじめに注意したいのは、その前の節でパウロは、まだ行ったことのないローマの教会にぜひ行ってあなたがたに福音を宣べ伝えたいのだと書いた。それはパウロの伝道者としての願い、希望であった。しかし注目したいのは、その理由を16節で書いていることである。「日本語訳には十分にあらわれていませんが、16節の初めには『なぜならば』という言葉を補わねば、パウロの気持ちは、わからないのであります。彼は伝道者として、ギリシア人にも未開の人にも、誰に対しても、責任を感じるから、ローマにも行きたいのであると、申しました。それには、また理由がある、というのです。それは自分が、福音を恥としないからである。この福音こそ、神の力だからである、と言いたいのである。福音の宣教に責任を感じるのは、その人が真面目だからではありません。福音の力を知っていなければ、できないことであります。これは〔が〕、最高の理由であります。そして、これが唯一の理由なのであります。そのように読んできますと、パウロという人の信仰生活の一端にふれることができるような気がするのであります。気の利いた、人を驚かせるようなことをぶっつけてやろう、という気持ちからではなく、挨拶をしている中に、勢い福音の内容に触れ、その理由を書かねばならなくなって、それが自然に、人の魂に食い入るような発言になった。17節もまた、16節の理由として書かれたにすぎません」(竹森満佐一)。確かに16節を調べてみると、元の言葉に「理由を説明する言葉」が入っている。したがってある訳は「そは我はキリストの福音を恥とせざればなり、そはユダヤ人を初めとし、ギリシア人に至るまで、すべて信じる者を救うべき神の力なればなり。」(『新契約聖書』永井直治訳)とある。新共同訳も、一番最後のところで「神の力だからです」と訳している。かろうじて、そのニュアンスが出ているが、もっと明確にパウロの意図を表す翻訳は、なぜなら私はキリストの福音を恥とはしないからだ。なぜなら、キリストの福音はユダヤ人にもギリシア人をも救う神の力だからだ。17節にもその理由を書いている。この福音には神の義が啓示されているからである。「啓示せらるればなり」(永井訳)。
つまりパウロは個人の趣味からローマへの伝道に行こうとしていたのではなく、キリストの福音が神の力であることを本当に知っていたので、そうせずにはおれないという気持ちである。福音の力を知っていなければ、当時の世界の中心地ローマに行って伝道するということなどはできないことであった。
2.それだけパウロは福音に対して確信を持っていた。福音を誇りにしていた。16節は確かに「わたしは福音を誇りする」という翻訳もある。しかしなぜあえて、「恥としない」という表現をしたのだろうか。「最初の教会は、信仰を言い表すのに、この言葉を用いた。『あなたは、わたしたちの主のあかしをすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。」(2テモテ1・8)とある。これは主が「この罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ8・38)、と仰せになったことが反映しているであろう。「恥としない」というのは、信仰の告白を否定的な形であらわしたに過ぎない。わたしは福音を信じるということである。しかし、あえてこのような表現をしたのは、「邪悪で罪深いこの時代」にはありがちな事であったのである。」(竹森)。パウロはアテネでもコリントでも伝道した経験を持っていた。アテネで、キリストに復活を語った時、アテネの知識人たちはパウロの説教をあざ笑い、「このさえずるもの、いずれまた後で聞くことにする」(使徒言行録17・16以下)と言ったとある。キリストの十字架の福音は「ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなもの」(1コリント1・23)でしかなかった。「パウロが、福音を恥としなかった事には、一つだけ理由があった。それは、これが神の力であることを知っていたことであった。『事柄に確信を持っていない者は、恥を感じるものだ』。福音を信じるといっても、その人の力になっていなければ、いつかは、それを信じていることを恥ずかしく思うでしょう。しかし力を確保しうるのであれば、理論的には説明できなくても、恥ずることなく堂々と語りうるはずです。」(竹森)
3.アウグスティヌスは若いころ、ラテン語の言葉を効果的に使って適切に美しく表現する文学上の技巧、レトリックともいわれる修辞学の専門家であった。そのアウグスチヌスが、聖書を読んだとき、こんなダサい文体はないといって、見向きもしなかった。母親がカトリックの熱心な信者であった。母の勧めなど聞こうとしなかった。ところが彼が罪の問題で苦しみ、精神的に追い込まれ魂の苦悩に直面した時、聖書を再び読んだ。その時、俄然、聖書が自分の魂に光を与える書物となった。「聖言(みことば)うちひくれば光を放ちて、愚かなるものをさとからしむ。我汝の戒めを慕うがゆえに、わが口を広く開けて喘(あえ)ぎもとめたり。聖言をもてわが歩みを整え、もろもろの邪悪(よこしま)をわれに主たらしめたもうなかれ」(詩篇139・130以下)。若くて健康で何の不自由もなく思い放題のことを自由にできた時、自分には聖書も神も必要なかった。むしろ反対に母親のひからびた信仰を軽蔑していた。ところが彼自身が人生に悩み、その魂が苦しみ始めたとき、聖書のみ言葉は自分の路の光に放つものとなった、と言っている。
4.先週、ひとりの姉妹の葬儀をこの会堂で行った。聖書の文字上で読んでいた、人間の「死」の現実に直面したとき、死の力の前におろおろする体験を味わった。その時、「神の国は言葉ではなく力である」(1コリント4・20)との言葉の本当の意味を知るに至った。それはどのような力か。パウロはコリント書で語っている。「わたしたちはこのような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。・・主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(2コリント4・7以下)。更に聖書の言葉は続いている。「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。信仰は、キリストを死からよみがえらせ、陶器の器でしかない、はかなく壊れるわたしたちの人生、わたしたちの死と悲しみ、痛みと苦しみと嘆き、神なき孤独の底から救い出し、甦らせ神の御前に立たせてくださる。その神の全能の御力を信じるることである。
5.詩編98・1「新しき歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救い〔勝利 口語訳〕の御業を果たされた。主は救い〔勝利〕を示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、・・地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救い〔勝利〕の御業を見た」。どこまでもこの信仰から信仰へと進みゆこう。神はすべての人(国、言語、社会的身分、男女、年齢)にこの信仰を啓示された。