説教要旨 詩篇69・1−13 エフェソ1・8−10
2025.9.14
「引き裂かれた現実」
今日の説教の結論は、9節「〔神は〕秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」
1.「秘められた計画」とある。口語訳では「御旨の奥義」、文語訳では「御意(みこころ)の奥義」と訳されていた。奥義とは今まで隠されていたものが、時の満ちるに及んでわたしたちに知らされるようになった(3・3−4)。その奥義は言うまでもなくイエス・キリスト御自身である。その奥義が7節では「わたしたちはこの御子〔イエス・キリスト〕において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神に豊かな恵みによるものです。8節では「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、この恵みに対する知恵と理解をわたしたちに与えてくださり、神の御心にあった奥義を、神が自らあらかじめ定めておられた計画に従ってわたしたちに示してくださったのである。神の奥義の第一は、5節にあるように、わたしたちをイエス・キリストによって、神の子(「神の子たる身分を授けるように」口語訳)にしようと、御心のままに、前もってお定めになったことである。わたしたちが、イエス・キリストの血の代価によって、罪の奴隷状態にあったわたしたちをそのような状態から、神の子の身分へと引き出してくださった。それは、かりそめの、一時的な、偶然的な、神のわがままなことから出たことではなかった。神がご自分の意志の中で、御計画の中で決心されたことによって行われたことである。人間がけがれた者から抜け出し、聖なる者になる可能性があったからではない。聖なる者だったからではない。そのような人間的な可能性によるのでは一切なく、それはただ、ひとえに天地創造の前に、人間の歴史が始まるよりももっと前に、もうすでに神のご懐の中に定められていたことであった。
2.「われわれは自分が罪から買い取らねばならない者である。罪に捕らえられて、その奴隷になって、そこから買い取っていただくほかに救いはない。ということが分かっているでしょうか。われわれは、自分たちが、そんな状態であるなどとは、考えてもみないのではないでしょうか。・・罪が赦されて、罪について、もはや何の問題もなくなるために、これだけの手続きが必要であったのである。天地の造られる前からの神の御計画は、この小さなわたしの罪が赦されるためであった。」(竹森満佐一)。
先週牧師の勉強会があり、ある牧師がこう語った。ある教会で罪について語ったら、後でその教会の信徒から電話がかかってきた。先生はどうして、説教で罪、罪ということをくどくどと語るのか。自分はこの世でいう悪いことは何もしていないんですけど。そういう電話の内容だった。その後の話し合いの中で、わたしたち日本人には神がない。人間関係の中だけで生活している。そこには生ける神がない。日本にも法律があり、六法の一つには刑法がある。人のものを盗んだり、脅したり、殺人といった場合には、警察に逮捕され、それによって取り調べられ、最後は裁判があり、刑法という法律によって刑罰が言い渡され、それが執行される。そういう罪は自分は犯していない。と主張される。確かにそうだ。では次には、道徳的な罪がある。刑法という法律にはひっかっからないが、法の目をくぐって、相手に害を及ぼすようなものも現にある。しかし、教会で、聖書が言っている罪というのは、この世の法律的な段階、道徳的な段階でなくて、神の御前に立った時に初めて明らかになるようなものである。だから、その勉強会で問題になっていたのは、詩篇51編6節口語訳に「あなたは(神)は「真実を心のうちに求められます。わたしの隠れた心に知恵(神の御心を知る)を教えてください。」12節に「神よ、わたしのうちに清い心を創造してください。新しく確かな霊を授けてください。」この「創造する」という言葉は、神にのみ使われる言葉であり、人間が心の中で反省することや懺悔や道徳的な修養、悟り、善い行いといったもので、許されるような、そういった一切の人間的な業によって、清い心は造られるものではない。神によって与えられるものである。ただ神の御子イエス・キリストの十字架の御業による、血の代価によってのみ、罪を赦され、神の子としての身分を与えられた。これが神の豊かな恵みの最大のものである。連合長老会の聖餐式の式文で、最も評価できる最大の功績は「聖餐はすべてにまさる恵み」であると宣言している点である。
3.今日の聖句は、今言ったような神と人間との間の人格関係の回復だけに終わらず、キリストの救いの業は、10節、天と地の「あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」とある。「わたしたちは通常、これほど大きなキリストの救いを考えてはいないのではないでしょうか。わたしたちはどうしても自分中心で、キリストにおける神の救いも自己中心的に小さく理解しがちです。いつの間にか自分のサイズに合わせて、キリストによる救いを縮小して受け取っているのではないでしょうか。しかし聖書はキリスト御自身に即した仕方で、救いを告げ知らせます。」(近藤勝彦)わたしたちの周りにはいたるところに、分裂、対立、争いの現実、引き裂かれた現実がある。旧約聖書の一例をあげてみると、創世記に人類初めての兄弟殺しが記されている。カインとアベルの話である(創世記4章)。世には不公平がある。神はカインのささげた捧げものではなく、アベルの捧げものを顧みられた。カインはそれを憤り、神を恨み、神との関係を断ってしまった。神を失ったカインは神を無視してアベル殺害に走った。アベルの、土の中から叫ぶ血の叫び声が神には聞こえた。神との断絶の罪が次々と新しい罪を生み、いろいろの姿をとりながらこの世に広がっていった。この罪の姿が神の深い御心の中にあった。それは御子を十字架に付けて血を流し、その代価を払わねば、神との和解はできないほど深刻な深い越えられない断絶であった。今も、兄弟同士の間で、親と子の間で、夫婦の間で、民族と民族の対立、紛争、世界中で現に殺し合いが起こっている。
4.どんな紛争が起こっても、相手の悪を絶対化するのでなく、キリストの愛を絶対的なものにしていかねばならない。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4・9−10)。神の御心の奥義はイエス・キリスト御自身にある。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されれている」(コロサイ2・3)。フィリピ3・8の口語訳聖書は「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義を受けることである」。このキリストとその復活の力を知ることの中に、隠された奥義がある。
5.このキリストは今も働いている諸霊(2・2)を支配するお方である。これが10節「キリストのもとに一つにまとめられる」という言葉がある。キリストが頭となって今も働いている。旧約においてヤコブの梯子の話が創世記28章にある。天使はヤコブを励ますために上り下りしていた。その天使はキリストが天と地をつないでいるしるしである。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助ける(詩篇34・8)。
「死も命も、天使も支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8・38)。主イエス・キリストは天地の裁き主、頭であることを忘れず(詩篇96・13)、この世の諸霊に敗北することなく、イエス・キリストにおいて啓示された神の愛を堅く信じて、今週もそれぞれの戦いに励んでいきたい。