説教要旨        イザヤ書40章6−9節             一ペトロ1章22−25節                2025.5.4
「朽ちない種から」

今日の説教の結論は、1・23「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれさせられたのです。」

1.ペトロの手紙は故郷を追われて離散している故郷喪失者の状態にあった仮住まいの、小さな教会の信者たちにあてて書かれた手紙である。従って生活も不安定であった。そこでペトロは、キリスト者とはどういう者であるかを、繰り返し教えている。23節に「新たに生まれさせられた者」とある。これは今まで、この世の普通の生き方をしていた者が、イエス・キリストに出会い、その恵みにあずかるということは、新しく生まれた者とされたということである。1章3節に「神はわたしたちを新たに生まれさせ、イエス・キリストの復活によって希望を与え、天の財産を受け継ぐ者としてくださった」とすでに言及されていた。わたしたちはみんな、地上に生を与えられて生まれてきた。そういうわたしたちが新しく生まれるということはどういうことであろうか。それは肉体的にはできない。

2.ヨハネ福音書3章に、ニコデモというユダヤ教のラビ、律法の教師であった人が、夜、主イエスのもとに来て、あなたのなさっている業を見ると、人間業とは思えません。「わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、誰にもできはしません。」と言った。その時、イエスはニコデモが「わたしたちは」と言うことによって自分(自己)の責任をあいまいにして一般的な事柄にしたのに対して、主イエスは明瞭に、「よくよくあなたに言っておく」(口語訳ヨハネ3・3)。ニコデモよ、あなたによくよく言っておく。一般的認識と自分の自身の事柄とは違う。「ニコデモよ、誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」パリサイ人の認識では神の国は政治的な目に見える神の国であった。そこでニコデモは言った。人は年をとってから生まれることがどうしてできますか。もう一度母の胎に入って生まれることができましょうか。イエスは言われた。ニコデモよくよくあなたに言っておく、誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれるものは霊である。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。ニコデモはいった。どうしてそんなことがあり得ましょうか。イエスは言われた。あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことが分からないのか。「よくよく言っておく、ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられねばならない。それは彼を信じる者がすべて永遠の命を得るためである。」モーセが蛇を上げたというのは、イスラエルの民が荒野で食べ物がなく神に不平を言った。その時、神は火の蛇を送った。蛇は民を噛んだ。その時、モーセは青銅の蛇を造って、竿の先に付けてそれを民は仰げば、民は生きると言われ、そうして民は救われた(民数記21)。それは今後起こるご自分の十字架のことを語っている。その十字架の業によって、人間の罪の赦しの業が行われる。それによって、この肉の命ではなく、霊的な命が与えられる。イエスの神の国は霊的な神のご支配の出来事である。人が罪の赦しをいただくことは、人の肉の目に見えない事実である。しかし、神はそのような仕方で働いて、人間の目には見えない聖霊の働きによって、人間に罪の赦しと新しい神の命を与えてくださる。人間を新しく造り替えることができる。事実、ニコデモはイエス・キリストが十字架上で死を迎え、十字架から降ろされたとき、ヨハネ福音書は19・39「前に、夜イエスの御許に行ったニコデモも、没薬と沈香をまぜたものを100リトラ、約30k持ってきた。彼らは〔アリマタヤのヨセフとニコデモ〕イエスの死体を取り下ろしユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を入れて亜麻布で巻いた。」ニコデモはイエスの弟子となったということである。

3.上方落語の噺家が73歳でキリスト教の洗礼を受けられた時のことを書いた本を読んだ。娘さんが牧師と結婚なさったこともあって教会に出入りするようになったこともあるらしいが、このような芸人の方が洗礼を受けるというのは難しいのではないか。しかしその本を読んで感心したことがあった。聖書には「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15・16)そうか。わたしが選ぶのではなくて、イエス・キリストが選んでくれたのだ。わたしをスカウトして何度もわたしを生きながらえさせ、わたしに「こっちを見ろ、ここに神であるわたしがおるやろ」とアピールし続けてきたのに違いない。わたしは落語の世界に入るときも、向こうさんに選んでもらって今日まで来た。あのとき、春団治師匠がスカウトしてくれたから、今のわたしがある。「イエス様がせっかく選んでくれはったんやから、応えなあかん」。まだ15歳だったわたしが師匠に言われて「はい」と答えたように、イエス・キリストにスカウトされたからには「はい」と答えて従うしかないのである。洗礼に抵抗を感じていた時、しかし洗礼はスタート、入門ということか。ま、そういうことやわ。洗礼が入門なら、わたしは受けてもいいと思った。弟子になるのである。イエス様が師匠である。わたしは弟子であるから、師匠の言うことは絶対である。カラスは白いと言われれば「その通りです」と、決して逆らわない。だからイエス師匠が、おまえは罪人だと言わはるなら「その通りです」という。おまえを愛していると言わはったら「ありがとうございます」と感謝する。なんと素直な態度ではないか。「わたしのため福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8・35)。信仰には最終的にこのような決断が必要である。

4.信仰は朽ちない種、必ず芽を出す神の言葉から生まれる。イエス・キリストの言葉を信じるとき、必ずそれによって、わたしたちは新しくなることができる。魂の罪の赦しを確信する。その次に、わたしたちの生活も変えられていく。22節「あなたがたは、キリストの真理、福音を受け入れ、魂を清められたら、偽りのない兄弟愛を抱くようになっていく。清い心で、忍耐強く愛し合うものとなりなさい」。わたしたち日本人は24節の「人は皆草のようで、その華やかさはすべて草の花のようだ。草は枯れ、花は散る」ここまでは、日本人はよく共感できる。これは長い間日本人の人生観を養ってきた。日本の文学、芸能、哲学、宗教もそのような影響を受けている。しかし聖書にはその続きがある。ここで終わらない。「主の言葉は永遠に変わらない」。今も生きている。キリストの福音は、罪の赦しを与えられた者たちに新しい生き方を示している。清い心、罪の赦しを与えられて、神を愛し、神に従い、人々を大事にする生き方、希望を捨てないで忍耐強く、人々を愛する、大事にしていく生き方を聖書は語っている。人生のはかなさ、むなしさで終わってしまわない。キリスト教には、罪の赦しとイエス・キリストの復活にあずかって信仰による新しい命を生きる、そのような生き方がある。これが力強く語られている。25節「これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉である。」新しく生まれることは、洗礼で終わるのではない。それは始まりである。イエス・キリストは「道であり、真理、であり、命である」(ヨハネ14・6)。

5.イエス・キリストはわたしたちの人生に伴なってくださるナビゲーター(水先案内人、車のナビ)人生という道の道案内人、真理とは福音、罪の赦しの福音のことである。また命とは、神によって与えられたイエス・キリストの新しい復活の命に生かされていくことである。今週もわたしたちはイエス・キリストを信じる信仰の良き歩みを続けて行こう。