説教要旨 詩編34編2−8節
一ペトロ3章13−18節
2025.7.6
「主を仰ぎ見よ」
今日の説教の結論は、ペトロ3・14−15「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。」
1.14節に「義のために苦しみを受けるのであれば」とある。学者の研究によると、これの文章は、まだ始まっていないローマ帝国による教会への迫害を想定しているように見える。これはペトロの婉曲的な表現であり、4・12には「愛する人たち、あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」これは明らかに迫害を意識した表現である。個人生活において、召使いたちに対して、「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何になるでしょう。しかし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(2・20)とる。人生の苦難をいかに耐え忍んでいったらよいのか。この課題に対して、彼らの信仰生活を励ましているのがこの手紙である。
2.この14節を岩波訳はこう訳している。「あなたがたは幸いである。彼らを恐れるな。動揺するな。」あなた方は幸いである。あなたがたはキリストの福音を聞かされ、その救いにあずかっているから幸いである。あなたがたは神の恵みの中にあるゆえに、たとえ経済的に貧しくても、あるいは社会の中で召使いのような身分に現在あるとしても、あなたがたは確かに神の恵みの中にある。だから幸いだ。1・8「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」。信仰者が経験するこの世の数々の火のような試練は、鉱石を火で精錬し不純物を取り除き、純度を高めて混じりけのないものを造り出すに似ている。「あなたがたの信仰はその試練によって本物と証明されていく」(1・7)。 このことは、他の聖書にも見出すことができる。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」(ヤコブ1・12)。試練を耐え忍ぶから、幸いなのではなくて、幸いだから試練を耐え忍ぶことができる。最終的には主イエス・キリストの言葉にまで遡っていく。「義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5・10)。迫害そのものが幸いなのではない。あなたがたは幸いだから、迫害に耐えることができるのだ。それはあなたがたを天の喜びにまで導いていくものだ。キリストは続けた。あなたがたが「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5・11−12)。
3.ペトロが語ったこの13と14節の背景には、イザヤ書8章がある。当時アッスリヤの大軍が鉄の戦車をもって、ユダヤの国に攻撃してくるという状況の中で、預言者イザヤに対して神が語った言葉がある。イザヤ書8章「主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように〔わたしを〕戒めて言われた。あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(イザヤ8・11−13)。ペトロはこのイザヤの言葉「人々を恐れたり、心を乱したりしてはならない。あなたがたは万軍の主のみを恐れよ」の最後の部分を「あなたがたは心の中でキリストを主とあがめなさい」と言い換えているが、その背景となっているのは、イザヤの言葉である。
4.ある方が次のような例を書いていた。「神田駿河台のニコライ大聖堂を創立したのは、。ロシア出身のニコライ大主教であった。明治37,8年の日露戦争の時、ロシア人が全部本国に引き揚げた後も、ニコライはひとり東京に踏みとどまっていた。無謀な日本人が害を加えようとして彼を付け狙ったので、危険が身に迫ったこともしばしであった。しかし彼は少しも恐れず、オーストリア公使館からの保護の申し出を断って、道路に面した聖堂の一室に閉じこもり、神の守りを信じつつ、聖書の翻訳に携わった。いわゆるニコライ訳日本語聖書は、その時の産物である。結局彼に手出しをした者は一人もなかった。しかし、世には無知な人や狂暴な人がいて、正邪善悪の見境もなく、義人を苦しめ、正しい人を辱める場合もないとは言えない。キリスト者はどう対処すべきか。」「信者の味わっている祝福〔幸い〕は外側のものによって左右されず、魂の内側から湧き上がってくるからである。外部のものは何も、信者の内部の祝福を奪い去ることはできない。」(『キリスト者の生き方』
由木康)。「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10・28)との主イエスの言葉も想い起こすことができる。
5.次の15節「心の中でキリストを主とあがめなさい」。これはいかにも消極的な勧めのように見える。しかし当時の社会状況を鑑みる時、迫害者や弾圧者が信者が教会に行くのを禁じたり、聖書を読むのを止めさせたり、祈るのを禁じたりするようなことが部分的にはすでに始まっていた。そのことを考慮に入れる時、ペトロはこう書かざるを言えなかった。「これは、心の祭壇、内なる聖所でキリストを主とあがめることである。これならば、いつ、どんなときにもできるし、また誰もそれを止めることはできない。どんな外部からの圧力も、信仰の本源にまで手を触れることはできないのである。古来迫害を受けた信者たちは、外の自由をことごとく奪われても、心の中でキリストをあがめる信仰を確保し、それによって強く生き続けた。これは外からの苦難に対する最後の切り札であると共に、平穏無事なときに、われわれの信仰を更新する秘訣である」(同上、由木康)。平穏無事なとき、教会に来て楽しく讃美歌を歌い、おしゃべりをして帰って行く。それが礼拝だろうか。「心の中で」とは魂の奥深くで、どんな時もイエスを主キリストと告白する信仰がなかったならば、外側の飾りだけの信仰はこの世の圧力によって簡単に吹っ飛んでしまう。あのニコライのような信仰、このペトロは60年代のネロの迫害によって殉教したと言われている。ペトロにはあの大祭司の庭で何気ない婦人の一言で、三度も主を否定した経験があった。心のすきにサタンが入り込んでペトロの心は「恐れに支配され、心を乱されたのであった。」(14節)。「心の中でキリストを主とあがめる」ことができなかった痛い経験が、この文章の背後にある。「キリストを主とあがめる」。ある英語の聖書では、「心の中のキリストに完全に身を献げることに集中しなさい」(フィッリプス)と訳している。この世の力の方に目を奪われる時、恐れに心が支配される。そこにサタンが入り込んで、ペトロの心を乱した。それがペトロ自身の苦い体験であった。
6.詩編34・1「どのような時も、(わたしは常に)わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。わたしの魂は主を賛美する。・・脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。・・主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」どのような時も主を礼拝する群れ、それが教会の本当の姿である。
わたしたちはこの恵みを受けて、今週もそれぞれの一週間の戦いに出て行こう。