説教要旨    民数記6・22−27     エフェソ6・23−24                       2026.7.5
「主の祝福」

今日の説教の結論は、24節「恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」

1.このエフェソの信徒への手紙を終わるにあたり、パウロはこの手紙の言葉を聞いた全ての人々に、「わたしたちの主イエス・キリストを変わらぬ愛をもって愛する全ての人々の上に、神の恵みがあるように」と祝福の言葉を語った。パウロは他の手紙でも、ガラテヤの信徒への手紙(6・18)では「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなた方の霊と共にあるように、アーメン」。2コリントの最後(13・13)では「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」。これらに共通しているパウロの心にあった思いはただひとつ、今まで宣べて来たキリストの恵みが、ただ言葉で聞くだけでなく、その恵みから離れてしまうのでなく、その恵みがひとり一人の魂の中にいつも留まっているように、という祈りを込めた、神の祝福の宣言である。

2.この神の恵み・祝福というのは、旧約聖書の時代からあった。そのような役割を担っていたのは、祭司であった。アロンとその子、当時は祭司の一族が世襲制のような形で担っていた。民数記の6章には、主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」ここには、神の祝福、守り、光、恵み、平安といった言葉がある。最後にその意味が明確に語られている。「彼ら〔アロンとその子ら〕がわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、「わたしは彼らを祝福するであろう」。祝祷の言葉を実現するのは、アロンではない。イスラエルの人々でもない。それを実現してくださるのは、神ご自身である。祝祷の言葉に臨在してくださる神ご自身が、神の祝福してくださる。これが今の教会でも継承されている。

3.旧約聖書には、神の祝福という言葉が、いろんな形で書かれている。アブラハムはその代表と言える。創世記12章1節、主はアブラム(75歳)に言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。〔あなたは〕祝福の源となるように。・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。アブラムは、神の祝福を信じて旅立った。アブラムはその一族の祝福の基い、源、根源、神の祝福から、神の数々の具体的な恵みが与えられる基にあるもの、それが神の祝福であった。アブラムと妻サラの間には長い間子どもがなかった。しかしアブラムが99歳の時、神は「わたしは全の神である。わたしに従って歩みなさい。その印として、神との間に契約が立てられた。その時名前をアブラムからアブラハムに変えなさい(創世記17章)といわれ、アブラハムとなった。そのとき、また神の言葉「あなたを多くの国民の父とする。わたしはあなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となるものたちが、あなたから出るであろう」があった。その1年後、アブラハムが100歳の時、イサクが生まれたとある。アブラハムは人生の根底に約束されていた神の祝福を疑うようなことがなかった。その子イサクがかわいい盛りに、イサクを捧げよとの言葉があった。これが創世記22章。これはアブラハムとサラにとっては大きな試練であった。しかしここでアブラハムは神の約束と祝福を信じた。わが子を縛り、祭壇を築き、薪を並べ、祭壇の薪の上にイサクを乗せ、刃物をとり、屠ろうとした時、み使いが言った。その子に手を下すな。あなたが神を畏れるものであることが今、分かった。なたは、自分の独り人である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった。アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムはいってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。人々は今日も「主の山に備えあり」という。み使いは言った。「あなたがこのことを行い、自分の独り人である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう・・地上の諸国民はあなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(22・16−18)。

4.新約時代になり、この神の祝福は、神の独り人イエス・キリストの存在によって、イエス・キリストを信じる者たちに与えられている。エフェソ書の冒頭1・3「神はわたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」4「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」5「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」6「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」7「わたしたちはこの御子において 、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。」

5. 今日のエフェソの最後において、全く同じ言葉づかいではないが、その内容が最後にもう一度繰り返されている。それが6章23節では、平和、これは御子イエス・キリストによって与えれた神との間の平和、御子イエスの血によって罪が贖われ、罪が赦されて、わたしたちは神の裁きに対する真の魂の平安あるものとされる。どんなこの世の試練の中にあっても、御子イエス・キリストを思い起こすとき(1・3ー6)、わたしたちは揺るぎない平安を取り戻すことができる。それをヨハネの手紙は、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、おそれは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4・18)。どんな試練の中でも、この完全な愛〔キリストの愛、神の愛と恵み〕によって満たされ時、神の祝福を確信できる。その完全な愛を与えてくださったのがイエス・キリストである。人間の側ではない。その完全な愛を受けるのが信仰である。わたしたちはイエス・キリストと完全に結ばれている必要がある。その信仰が兄弟たちにあるように、と23節で祈っている。主イエスは、12年間長血を患った婦人を癒し、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」(ルカ8・48)と言われた。24節の日本語訳は「変わらぬ愛をもって、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人と共にあるように」と祈っている。ここに「変わらぬ愛をもって」とある。しかしこの言葉「朽ちない」は「復活のいのち」(1コリント15・50,53,54)を表す言葉である。したがってこの部分は、人間の愛の永遠性ではなく、神の恵みが朽ちることのない永遠の命をもっている。神の恵みの永遠性が、イエス・キリストを愛する全ての人にあるように、と祈っていると理解するほうが良いと判断される。いずれにしても、最後に、パウロはわたしたちの中に、神の祝福の永遠性をもたらしてくださったイエス・キリストを愛する者となるようにと祈っている。

6.イエス・キリストを愛するとは、旧約でアブラハムが数々の試練を通して神の山に備えあり、と信じて疑わなかったように、私たちの試練の中に備えられている雄羊はイエス・キリスト御自身である。ここにわたしたちに与えられている神の不朽の愛がある。それはイエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活の命を信じて生きることである。