説教要旨      マタイ28章1−10節 2026.4.5
「喜びのイースター」

 今日の説教の結論はマタイ28・8「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り弟子たちに知らせるために走って行った。」そこに、甦りの主イエスが待ち構えるようにして、主イエスの方から声をかけた。「平安あれ。恐れることはない」。婦人たちは主の御足を抱いて拝した(礼拝)。主は婦人たちに新しい伝道の使命を授けた(伝道)。

1.この一連の場面をわたしたちなりに想像してみたい。安息日明けの、日曜の朝早く、婦人たち、マグダラのマリアたちは、不安を抱きながらもイエスの納められた墓に近づいて行った。不安は、巨大な石で封印された墓石を誰が転がしてくれるだろうか(マルコ16・3)ということであった。マタイ福音書には墓の番兵が置かれていた(マタイ27・66)とある。マリアたちの行動は、主イエスを慕うことから出た自然な業であった。しかしこれらはすべては、過去の出来事に対する人間の在り方を象徴している。

2.しかし聖書は、神御自身によって、人間の常識や人間の生き方に新しい事態が引き起こされた事実を語っている。婦人たちの不安は既に神によってぬぐい去られていた。マタイ福音書は旧約聖書の背景から、神の力を表す地震、神に仕える天使を登場させている。「大きな地震が起こった」「主の天使が天から降って近寄り」とある。その天使が石を脇へ転がし、その上に天使が座った(2節)とある。神は大きな地震を起こし、人間の力の象徴であった大きな「墓石」を脇へ転がし、天使が「その上に座った」。ということは、神御自身が墓を封印した人間の力を押し戻し、その力の象徴である石を支配した。そういう出来事が神ご自身によって引き起こされた、とマタイ福音書は記している。マルコ、ルカも地震の記述はない。墓石が動かされ、墓が開かれたのは、墓からイエス・キリストが出てくるためではなく、婦人たちが、墓の中に入って行くためであった。婦人たちが空となった墓を確かめるためであった。5ー6節 天使は言った。「あの方はここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」婦人たちが確認したのは、空の墓であった。
 ルカ福音書は(24・2−4)、「見ると、石が墓のわきにころがしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていた」とある。途方に暮れる、という元の言葉は、道がなく通れない。目の前の川を渡っていく、渡しがない状態を指す。あったはずの主イエスの御遺体がない。確認したのは、空の墓だけであった。これに直面し婦人たちは思考停止状態に陥ってしまった。

3.「実際にイエスさまが復活なさったときは、驚き、戸惑うばかりでした。なかなか信じられませんでしたし、疑いをぬぐうこともできませんでした。それはそうでしょう。復活というのは、ちょうど、わたしたちの生きている世界を水平線とすると、それに垂直線に立っている出来事なのですから。イエスさまという一点で、この世界と違った世界が開かれているからです。復活の事実が、何よりも、復活なさったその方御自身が、弟子たちの疑いと不信を解いて、確固とした信仰にまで導いてくださいました。」(『キリスト教教理』永井春子)
  婦人たちはこの世界に起こった不思議さ、御遺体を収めた場所が空になっていた。その事実に直面し戸惑い、驚き困惑に陥ち行ってしまった。この世の中にも不思議なことはたくさん起こっている。婦人たちが直面した事実をこの世の理性で考えようとすると、理性は思考停止状態となってしまい、そこから一歩も動くことができなかった。それが婦人たちの心の状態であった。そこから先、前に進めない。マタイ28・11−14には人間の理性がたどり着いた結論が記されている。番兵からの報告を受けた祭司長たちは、長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやって来て、われわれ〔墓の番兵たち〕の寝ている間に死体を盗んで行った」といいなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。」これが主イエスの復活を認めたくないために理性によって考え出された、ひとつの、空になった墓の解釈であった。これに対して、天使は言った。「あの方はここにはおられない」。こことは「墓」であり、それは人間の死のシンボルである。人間世界の、水平線の世界をいくら先に進んでも、最後は死が終着点である。人間の理性は、イエスの遺体が盗まれた、という解釈しかできなかった。婦人たちはただ茫然としていただけであった。そこから先に進めない。

4.そこに道を開いたのは、天使の言葉、すなわち神の言葉、神からの啓示であった。そこで人間世界の水平線に垂直に立っている、神による新しい出来事が明らかにされた。それが「あの方は死者の中から復活された」(7節)。元の言葉では「受身形」が使われている。神によってよみがえらされた。ここに神の全能の御手が働いたということが伝えられている。死者をよみがえらす神の御手がここで働いたのだ。ルカ福音書では「二人の天使が言った。なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」とある。婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
 「十字架の上で本当に死んで、死の支配の中にまで入って行かれた方が、三日目に死者の中から復活されたのです。それは生き返ったのではありません。新しい生命へと復活されたのです。この主イエス様のご復活とともに、新しい命がわたしたちに開かれたのです。わたしたちを新しい存在にするために、新しい人類の代表者、また新しい人間の初穂として復活なさったのです」(永井春子)。復活の出来事は、死んだ人の生き返りではない。この世の延長ではない。復活という神の新しい救いの出来事、罪の勝利という新しい神の救済の出来事が引き起こされた、垂直の次元の啓示であった。婦人たちは主イエスの思い出し、死の世界から、死への勝利、新しい命の出来事が起こったことに導かれた。それが今日の結論である8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り弟子たちに知らせるために走って行った。」。

5.婦人たちは恐れながらも大きな喜びを知っていった。イエスが語っていたことがここに実現したのだ。その喜びはこの世の朽ちゆく、消えていく、消滅していく一時的な喜びではなく、信仰による神の御業によって起こされたキリストの復活の新しい出来事。その恵みに満たされる喜び、復活のキリストと出会う喜び、神を信じる世界、復活のキリスト共に生きる世界がここに開かれたのである。9節イエスが婦人たちが走って行く手に既に立って声をかけた。ここは「平安あれ」と訳した口語訳を推奨したい。なお不安の中にあったと想像される婦人たちに「平安あれ」と言って、婦人たちを待つ復活のイエス・キリストには、その足に釘の傷痕(きづあと)が残されていたであろう。婦人たちはその御足をいだいで、主の前にひれ伏した。「御手御足よりぞ、恵みと悲しみこもごも流るる」(讃美歌142)。ここに教会の礼拝と伝道がある。礼拝は甦りの主に出会って、主を拝し、復活のいのちに満たされていくことであり、そこから福音伝道の使命が与えられる。