説教要旨   イザヤ52・7−10      エフェソ2・14−18   2025.11.9
「御父に近づく」

今日の説教の結論は、エフェソ2・16「〔キリストは〕十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」キリストは十字架によって、わたしたちの心の中にある敵意を滅ぼしてくださった。

1.礼拝に集うわたしたちは、毎週キリストのなさった多くの御業の中から、聖書を通してキリストの恵みに新しく与ることができる。今朝の聖書は、キリストはわたしたちの心の中にある「敵意」を十字架において、滅ぼしてくださった恵みを明らかにしている。一週間の歩みの中でも、小さな家族の中で、親と子の対立、夫婦の対立、兄弟同士の間でのいさかいがたえず生じる。14節には「敵意という隔ての壁」という言葉がある。心に厚い壁を作って、会話をしない、交流がない状態を作っていく。これが肉なる人間の現実である。政治においても、「隔ての壁」が造られる。その根底には人間の心の中にある、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、争い、ねたみ」(ガラテヤ5・20)が絶えず渦巻いている。巣をつくっている。たえず怒っている人、争いを起こす人、妬みと嫉妬に生きる人、自分のことしか考えていない利己心の人、これがありのままの人間の姿である。聖書の時代には、ユダヤ人と異邦人の間に、実際に隔ての壁が存在していたという。ユダヤ教の神殿は、その全体が二重、三重の仕切りで区切られた構造を持っていた。神殿の前に庭があって、その外が「婦人の庭」、更にその外側が「異邦人の庭」で、異邦人はそこまでしか入ることを許されなかった。その奥の神殿部分には入れなかった。それを越えて侵入するものは命を絶たれる、という警告文がギリシア語とラテン語で記されていたという。ユダヤ人でない者から見れば、それは敵意を感じるものだったといえる。ユダヤ人は自分のことしか考えずに、異邦人は12節「イスラエルの民に属さず(市民権がなく)、アブラハム以来の神の祝福の約束を含む契約と関係ない、この世で希望を持たず、神を知らない」者たちと軽蔑していた。反対に当時イスラエルの民はローマの政治権力に支配されていたので、ユダヤ人は神の民というけれども何ほどの事もないと、ローやギリシア人たちはユダヤ人を軽蔑し、お互いに隔ての壁を作っていたといえる。

2.いったん造られた「隔ての壁」はなかなか崩せるものではない。ベルリンの壁は1961−1989年まで約30年存在した。ベルリンの市長で、後に大統領になったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、固い壁と向き合いながら、こう語ったという。「この壁は必ず崩れる。理由はただ一つ。人間が造った壁だから。神が造られた壁ではない。人間が造った壁は、神の手によって必ず崩される」。実現した。」(加藤常昭『エフェソの信徒への手紙』)。ベルリンの壁は崩壊したが、人間の歴史においては、絶えず繰り返し、この「隔ての壁」を造り続けてきた。絶えず憎しみから戦争を引き起こすて来た。これがエゴイズム(利己主義)に支配された人間の姿である。しかし、これを本当の意味で打ち破った存在がイエス・キリスト、その十字架であった。

3.主イエスの行動は実際どうであったか。例えばローマの百人隊長のしもべが中風で苦しんでいた時、百人隊長は主イエスのもとに僕を遣わし助けてほしいと願った。その時、イエスが「行って癒そう」と言われた。百人隊長は言った。ただ一言お言葉をおっしゃってください。わたしも権威の下に去るものですが、部下に行けと言えば、行きます、これをしろと命じれば、行います。ですから、ただあなたのお言葉をください。主イエスはこの百人隊長の自分に対する信頼に対し、「はっきり言っておく、イスラエルの中でこれ程の信仰を見たことはない、といって、「信じたとおりになるように」と命じられると、ちょうどその時僕の病は癒されたとある(マタイ8・5−13)。カナンの女の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいた。癒してほしいと願ったが、主イエスははじめ、自分はイスラエルの家の失われた羊に遣わされている。子どものパンを取って子犬にやってはいけないと答えた。しかしその時、女が子犬も主人の食卓からこぼれるパンくずをいただきます、と答えた。イエスは言われた。「婦人よあなたの信仰は立派だ、あなたの願い通りになるように」。その時、娘の病気はいやされたと聖書は記している(マタイ15・21−28)。このように、主イエスはユダヤ人異邦人の枠を超えて、神を本当に信じることにおいて、異邦人もユダヤ人もない。真実に神に対して生きるかどうかである。そのことを問われ、福音そのものを明らかにした。イエスの十字架において、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(ルカ23・45)とあるのは、神ご自身が旧約時代の神殿の「隔ての壁」を取り除いたことを意味する。40年後、ローマ軍によってエルサレムの神殿は崩壊した。

4.「敵意という隔ての壁を取り壊した」(14)「十字架によって敵意を滅ぼされた」(16)とある。14節の「取り壊した」は、口語訳は「取り除き」文語訳は「こぼちたまえり」、これは壊す、崩す、破壊する、という強い意味がある。しかも、これを壊したのは、キリスト御自身であり、神の側からである。人間は敵意を作る。神はこれを壊す。ここで注目したいのは、「敵意」という言葉である。ユダヤ人は異邦人を、異邦人はユダヤ人を互いに敵視していた。敵意は「『敵』とは違います。むしろ「敵」をつくる心です。敵は他者ですが、敵意はまさに自分自身にあります。わたしたちは敵ばかり考えて「敵意」を忘れています。相手に対して否定的に働く力、自己しか認めぬ心です。キリストは敵を滅ぼしたのでなく、「敵意」を滅ぼしたのです。」(蓮見和男)。
 キリストは十字架において、人間の肉の心の中に巣くっている肉の心、罪を打ち砕いて、神に向かう心、霊の心を造るために、十字架上で血を流された。コロサイ書には「武装解除」(3・15)したとある。その恵みを受けるのが礼拝である。われわれは自分でどんなに敵意をなくそうとしても自分自身の力では新しくなる道はない。人間の心の根底にある罪の力は弱くない。神よって十字架の血による以外に新しくなる道はない。礼拝の恵み。

5.「人間はいろいろな工夫をして新しくなろうといます。しかしそれらはすぐに古びて消え去ってしまいます。それはその新しさが、本当の新しさではなかったからであります。どの工夫にも、罪がまといついていたからです。罪からの解放ということがなければ、どんな試みも結局堂々巡りで、少しも進みませんし、新しくならないのです。つまリ、罪すなわち、神との関係が変わらなければ、人は変わりようがないのです。それなら、本当に新しいとはどういうことでしょうか。それは罪でなく、恵みによって生きる、ということです。神との関係が全く変わるのです。罪のゆえに、神に対して敵対していたものが恵みによって、神と和らぎ、神の愛を確保するに至る、ということです。ここに新しい人間が生まれるのです。このようにして、全く新しい人間ができるのです。」(竹森満佐一)
 神はわたしたちに、平和の福音を告げ、神に近づく信仰の道を通して人間を新しくする恵みを与えられた。イザヤ書52章。「いかに美しいことか、山々を行き廻り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」わたしたちはイエス・キリストによって、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる。「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる安定した錨のようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」(ヘブライ6・19)。毎週の礼拝は、わたしたちの魂に救いと平和をもたらして、動くことのない安定した錨のように、わたしたちを希望の神にしっかりつなぎとめてくださる。この神に支えられて今週もそれぞれの戦いに出ていこう。