説教要旨    イザヤ40・9−11       ヨハネ1・14−18         2025.12.28
「恵みと真理の主」

今日の説教の結論はヨハネ1・14「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」これは、マタイ福音書やルカ福音書とは違った仕方で、クリスマスの出来事を伝えているといえる。ヨハネによる福音書のクリスマスバージョンと言っていいものである。

1.初めに注目したいのは、14節の「言は肉となって」と訳されていることである。ある聖書の研究者は、自分はこれを「言は肉体となった」と訳すべきである。というのは、1・1に「初めに言葉があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」とある。1節で「あった」「あった」と訳されている動詞の使われ方は、永遠から永遠にずーと存在し続けていた、その過去の状態や、過去の動作の進行形を示すものであるのに対し、この14節で、「その言が肉体となった」という時に使われている動詞の形は1節とは違う。これは歴史のある時点で、一回きりの出来事になった事実を示す用法である。したがって、14節は1,2節との対峙、対比するものである。だから、「言は肉となって、・・」と訳すのでなく、「初めに言があった」(1)と対応して「言は肉となった」(14)とすべきであるという。永遠から永遠に存在していた言が、わたしたちの歴史の「今」という時、時間と空間の領域に存在するものとなった。言が制約される存在となり、わたしたち人間と同じ次元の存在になったという宣言がここでなされている。

2.17節の「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」ここでは、モーセとイエス・キリストが対比されている。モーセは旧約聖書を代表する人物であり、その中心には十戒があった。それは律法といえる。これに対して、イエス・キリストによって現わされた福音、律法はユダヤ人の生活様式を規定してきた。その信仰生活や食べ物からなる生活習慣を形成してきた。これに対して、イエス・キリストは「恵みの上に更に恵み」を明らかにした。したがって先ほどの学者は「恵みに代わる恵みを受けた」と訳している。その意味は旧約の恵みの上に、ただ漫然と恵みが積み重なったということではない。今までの恵みに代わり新たな恵みを受けたということである。モーセによって確立された律法中心のユダヤ教と「恵みと真理をもたらすイエスをキリストとする」これがキリスト教となっていった。
 ここに「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(17)とある。ヨハネ福音書において、真理とは、哲学的な知識、難しい教理の言葉ではない。14・6「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた。また8・31「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。するとユダヤ人たちは言った。わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である。」イエス・キリストは罪の奴隷から解放する。また14・6「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」このように、ヨハネ福音書では「真理」は イエス・キリストそのお方の言葉と業、イエス・キリストの存在そのものを指している。「真理」というギリシア語は、隠されていない、露わな、覆われていない、という意味がある。18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」父の懐にいるとは、あたかも母の胎内にいる子どものごとく、不可分離の(分けられない)生命関係を指す言葉である。それは場所的な意味ではなく、神との密接不可分の関係を示すのである。イエス・キリストはあますことなく、神を現わした、完全に示した、宣言した、解き明かした。14・11「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ私たちに御父を御示し下さいというのか」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたにいう言葉は、自分から話しているのではない。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」

3.モーセが荒れ野の旅をしていた時、民が不平を言った。パンも水もなく、こんな粗末な食物では気力も失せてしまいます。主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの中から多くの死者が出た。民はモーセの下に来ていった。わたしたちは主とあなたを非難して罪を犯しました。主に祈って、私たちから蛇を取り除いてください。モーセは主に祈った。主はモーセに言われた。あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。モーセは青銅で蛇をひとつ造り、旗竿の先に掲げた。青銅の蛇を仰ぐと、命を得た(民数記21)。モーセは青銅の蛇を造り、旗竿の先に括り付けて高く上げ、民はそれを仰いで、命を得た。これはイエス・キリストの十字架を予型するものとなった。これに対して、イエス・キリストは罪の赦しを宣言することができた。ヨハネ8章には、罪の女性が現場を捕らえられて、主イエスのところに連れてこられた。これは公衆の面前でイエスに対する批判であり、罠であった。このような場合には石で撃ち殺せと律法は命じている(申命記22・22)。その時のイエスの対応が示されている。イエスはかがみこみ、黙って地面に何か書いておられた。人々の目をこの女から引き離すためだった。しつこく彼らが問い詰めるので、イエスは立ち上がって、「あなた方の中で罪のないものが、まずこの女に石を投げよ」と言われ、また地面に何か書き続けられた。人々は自分自身の内面を顧みるときを得たのだろう。「年長のものから一人また一人と手に持った石を置いてその場を去っていった。そこには、茫然と立ち尽くす女性とかがみこんでいたイエスだけだった。イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはならない」。ここに罪の赦しだけでなく、罪からの解放者イエス・キリストがおられる。現実に罪を犯さなくても、人間は罪を犯す可能性を持った人間である。主イエスは人間が罪の奴隷となっている存在であることを知り抜いておられた。イエスはこの場面で女性に立ち直りの機会を与えたのである。主イエスのこの言葉と業は、人間にはまねできない、神の業である。またモーセができなかった罪の奴隷からの解放、罪に対する勝利の道を顕わしてくださったのは、イエス・キリストである。
「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男のことを生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1・21−23)。

4.イエス・キリストは「羊飼いとして群れ〔教会〕を養い、御腕をもって集め、小羊を懐に抱き、その母を導いて行かれる」(イザヤ40・11)。この1年この主の導きの下に歩めたことを感謝して、この年を送り、新しい年を迎えたい。