説教要旨    申命記5章12−15節      エフェソ6章5−9節                  2026.5.17
「主に仕えるように」

今日の説教の結論は、6・5「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのでなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」

1.当時のローマ帝国が支配する地域には、多くの奴隷がいた。このエフェソの教会の礼拝にも、一家の主人が来ているので、その家の奴隷も礼拝に来ているという家族が何組かあったと考えられる。奴隷の数はローマ帝国全体では約20%、ローマ市内では約30%いたと言われている。当時の社会においては、武力で征服された民が戦勝国に拉致されて、奴隷として使役された。国が勝つか負けるかは大変なことで、負けた国の多くの民族が奴隷として引き連れられていった。イスラエルもバビロンに捕囚を経験した。惨めな奴隷になりさがってしまったという歴史がある。そのようにして帝国内には各地から連れて来られた奴隷たちがいた。奴隷は物であって「人」ではなかった。つまり奴隷には人格が認められない。奴隷は、主人の意のままに「働く機械」であって、自分の自由意志は持ってはならなかった。囚人や奴隷たちは剣を持たされ、互いに殺しあう光景をコロシアムに集まったローマ市民は見て楽しんだと言われている。これに反して、キリスト教の教会では、ガラテヤ書3章で、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3・27−28)と説教されていた。したがって、奴隷たちの中には、キリスト教会の礼拝に出て、説教を聞き、奴隷という身分を超えるものがある。そこで洗礼を受ける奴隷たちがいても不思議ではなかった。

2.今日の聖書エフェソ6・5には「奴隷たちよ、あなたがたは肉による主人に従いなさい」とある。これはどういうことであろうか。ますます奴隷を苦しめることを語っているのだろうか。「肉による主人」。とある。この主人は、奴隷が日々仕えている家の主人を指すであろう。これに対して、7節では「人にではなく主に仕えるように」とある。この主は、もう一人の主人であるキリスト、5節では「キリスト」、6節では「キリストの奴隷として」とある。つまり、日々日常生活で仕えている「肉の主人」に対して、目に見えないが、もう一人の、霊的なキリストともいうべき主人の存在が明らかに語られている。

3.キリストは何をなさったか。病人の癒し、神の国を教えただけではない。ヘブライ書2章14節以下には「〔イエスは〕死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」とある。キリストは死をつかさどる悪魔を支配する者、死の支配者、勝利の主がここにいる。当時の奴隷たちもこのようなキリストの福音を教会の礼拝の説教を通して聞いていたであろう。あなたがたは本質的に、罪と死の奴隷状態から解放されて、神に仕える神の僕(奴隷)とされた。「罪の支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリストイエスによる永遠の命なのです」(ローマ6・23)。罪の奴隷から解放され、新しい命の道が与えられる。それがキリスト教の洗礼、死の支配者、新しい命の付与者であるキリストを着る。その恵みに覆われる。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3・27−28)。奴隷たちは進んで洗礼を受けた。

4.ある方はその恵みを次のような言葉で書いている。「クロムウエルは、自分の人生は主イエス・キリストから莫大な報酬をすでに「前受け金」の形で受け取った人生だ、といった。主の十字架による赦しを与えられ、復活の主によって新しい命を受け、神の子とされた名誉も受けています。赦しと義と聖化の恵みを既に受け、神の国を本国として受けています。主の召しを受けて、証人ともされています。「豊かな報酬」をすでに受けた私たちが、他の人に仕えて、善いことを行うのは、当然のことといえるでしょう」(近藤勝彦)。
 ここには、キリストという巨大な富に仕える、キリストの福音の僕、キリストの奴隷として生きた代表はパウロであった。すでにエフェソ3・7−8で「わたしは神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちの内で最も小さいものであるわたしにこの恵みが与えられたが、それはキリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝える」(口語訳)ためであった。ここに、パウロはキリストの僕、奴隷という言葉を使っている。キリストの恵みの大きさ、罪と死を滅ぼし、死の支配者となって、新しい復活のいのちの付与者となって、その無尽蔵の富を与えてくださるキリストの僕である。そのようなキリストの奴隷である。パウロの肉体には数々の受けた傷があった。しかしそれらはむしろパウロの誇りであった。

5.現実の奴隷の生活には、厳しいものがあったと思われる。中には数々の肉体的な傷を持っていたものも多くいいたに違いない。ペトロの手紙1,2・18には次のようにある。「僕たる者よ、心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気難しい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみ受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。・・善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。・・この方〔キリスト〕はののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました」。

6.奴隷で洗礼を受けた信仰者たちは、目の前の肉の主人の奥に、キリストというまことの主人がいることを見るようにして、肉の主人に仕えていった。いつもキリストの恵みの中で、罪の赦しを受け、計り知れない無尽蔵の神の富、神の恵みをいただいたものとして、「恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおとして、うわべだけで、仕えるのでなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」とのみ言葉を受けとめていった。
 主人に対しては、「彼ら〔奴隷たち〕を脅すことはやめなさい。あなたがたも知っているように、彼らにもあなたがたにも、同じ、主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」。初めに言及したように、奴隷も一人の人格として、神の教会の一員として、その存在を認めてきたのが初期の教会の姿であった。また申命記5章には、安息日に規定であるが、礼拝のたびごとに、「あなたがたはかつて、エジプトで奴隷であったことを忘れるな」と言っている、神の大いなる救済の御手によってあなたがたは救い出された。その恵みを思い、この地上にあっての生活において、天に裁き主なる神がおられることを忘れず、神の御前に愛と慈しみをもって共に歩んでいこうと勧めているのである。
 わたしたちも今週出会っていく多くの人々がいるが、わたしたはキリストの絶大な恵み、無尽蔵の富に生かされたものとして、今週の旅を続けていきたい。