説教要旨 イザヤ53・1−8
ルカ23・13−31 2024.11.3
「イエスを十字架にかけよ」
今日の説教の結論は、ルカ23・23「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求を入れる決定を下した。」
1.ルカ福音書は、これがイエスが十字架につけられることになった決定的瞬間であった。これがわたしたちが信仰告白、使徒信条の言葉の中に、「主は、聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに、苦しみを受け、十字架につけられ」と告白している」この文言が入れられた、その理由を聖書は明らかにしている。
当時ローマ帝国が支配していたので、死刑を決定する権限はユダヤにはなかった。ローマ政府にあった。そこで、祭司長たちはイエスはローマ帝国に反逆する政治的な活動をしている。ローマに税金を納めないことを奨励しているなどの、理由を述べてイエスを処刑してほしいと、ローマ総督ピラトに裁判を願い出ていた。ところが実際、ピラトが尋問してみると、ローマ政府を転覆するとか、過激な反ローマの政治的導者であるというような証拠は何も見つからなかった。それが13節のピラトの言葉である。「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて言った。あなたたちは、この男(イエス)を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきた。わたしはあなたたちの前で、取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。」ローマ政府の下で、ユダヤの王として君臨していたヘロデも「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない、と言っている」。鞭で懲らしめて、釈放しようとした。というのは、ユダヤの過越の祭では毎年、囚人ひとりを釈放しなければならないことになっていたので、ピラトはその提案を三度(15,20,22節)繰り返して言った。ところが、人々は、イエスを十字架につけるように、あくまで大声で要求し続けた。その声は、ますます強くなった。口語訳は、「ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そしてその声が勝った。」ピラトはローマの総督です、あくまでローマの法、規則を守るべき責任があったが、人々の要求が強く彼らが暴動になりそうなのを心配して、ローマの総督としての権威、内的な声よりも、ユダヤの民衆の方の声がピラトの中で、勝った
。
「総督はただ自分の政治的利害から行動しているに過ぎません。総督にとってイエスの運命そのものは全然関心の外にあります。ピラトはローマ法の番人として。行動しているだけです。今ピラトは、その法と、自分の判決を曲げて群衆に屈しました。政治家としての配慮の現れです。いわゆる高度の政治的判断です。法を曲げても、政治的にうまく治まれば良いと判断しました。」(蓮見和男)
2.その結果どうなったか。24節「ピラトは彼らの要求を入れる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通り釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して好きなようにさせた。」マタイ福音書には、その時ピラトは、水をもってこさせ、群衆の前で手を洗っていった。この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。民はこぞって答えた。その血の責任は我々とその子孫にある。ピラトはイエスの十字架の血の責任はユダヤの民にある、と言った。またヨハネ福音書によれば、民衆の殺せ、殺せ、十字架につけよ、という声に対し、ピラトは、わたしがあなたがたの王を十字架につけるのか、と言うと祭司長は「わたしたちには、皇帝の他に王はありません」と言った。(ヨハネ19・15)。ピラトは水で手を洗い、自分は潔白であることを証明しようとした。しかし、ピラトは最終的には自らの総督としての責任を放棄し、民衆の意志にイエスを引き渡した。イエスを裏切ったユダと同じくイエスを敵の手に手渡した。祭司長は何と言ったか。「祭司長はローマの皇帝以外に自分たちの王はいないと言って、「主はあなたたちの王である」(サムエル上12・13)との神政政治の第一原理を放擲し、来たらんとするメシア王国への待望をも否認する結果となり、彼ら自身の宗教の自家崩壊を招かざるを得なかった」(森好春「ヨハネ伝」)。ここには、結局最後には救い主イエス・キリストを捨てていく人間の姿が示されている。ユダがイエスを裏切った。この裏切るとは、イエスという救い主を、誰かに「引き渡す」ことである。25節でピラトは民衆にイエスを引き渡した。途中までピラトは14節にあったように、イエスの無罪を認めていた。しかし最終的にはイエスを手渡してしまった。この世の中に生きるわたしたちは、時の支配者の権力や気分や彼らの利己的な利害得失のために、翻弄されるような存在でしかない。イエス・キリスト御自身がそのような存在であった。わたしたち自身も、最終的にいろいろの理由をつけて救い主を捨ててしまう存在である。
3.しかし、神は生きておられる。人々によって捨てられた石を神はそのままにしておかれず、神は人々によって捨てられたイエス・キリストを信仰の家を建てる隅の親石とした。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石なった」(1ペトロ2・7)。その時、何が起こったか。暴動と殺人の罪で牢獄に捕らえられていた、罪人バラバが釈放されて、イエス・キリストが十字架で処刑される出来事がここで起こっている。これは罪の奴隷であったわたしたちが釈放されて、イエス・キリストが十字架に身代わりとなった救いの出来事を象徴するもの以外の何物でもない。
「神の子イエスがこのような無法な取り扱いを受けて、世から除かれるに至ったことは、他に比類のない一大矛盾である。我らはその矛盾の大きいことに驚くと共に、かのイザヤ書53章の預言が、かくも文字通りイエスの身に成就したことについて、驚きと畏れを禁じ得ない。「彼は捕らえられ、裁きを受けて、命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53・8)イエスの裁判を説明するのに、これ以上適切な言葉はない。神の子イエス・キリストがこのように虐待と不法な裁判の後、この世から絶たれたのは「わが民のとが」換言すれば、我ら自身の咎のために、彼が代わって打たれたのである。これが神の啓示したもうた説明である。これを信じるとき、、彼の打たれた傷によってわれらは癒やされる。それが神に逆らった罪人に救いを与えるための神の取りたもうた道であった。」(矢内原忠雄)
4.わたしたちの人生は納得のいかない、説明のつかない苦難の道を歩まねばならない時がある。しかし神のなした救いの事実を見よ。1ペテロ2・22−24「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に死んで、義に生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたは癒やされました。」わたしたちはこの世の力に翻弄されている小舟でしかない。しかしこの小舟にイエス・キリストが乗り込んでくださっている。ここにわたしたちを見捨てていない神の力がある(1コリント1・18)。今週もこの十字架のキリストと共に歩んでいこう。