説教要旨              ハバクク2・1−4               ルカ18・1−8                    2024.2.18
「たとえ遅くなっても」

 今日の説教の結論は、ルカ18・7ー8でキリストが言われた言葉、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために、裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」

1.このところの文語訳聖書は「たとい遅くとも、遂に裁きたまわざらんや。我、汝らに告ぐ、速やかに裁きたまわん。」キリストはこの言葉によって、弟子たちがこの世にあって、キリストの弟子として生きていく時に出会うであろうさまざまな困難、迫害、苦しみに対していかに生きるべきかを教えた。神の裁きは速やかに来る、ということは時間的に速いということではなく、神の裁きは必ずある。人間の感覚では遅いと思うかも知れないが、神の時が必ずある。だから、それまで忍耐して待て、といわれた。
 1節には「イエスは気を落とさずにたえず祈らなければならないことを教えるために譬えを話された」とある。イエス・キリストが十字架につけられ、弟子たちの目の前から、その姿が消え失せていく時が来る。その時のことを思って弟子たちに語った。必ず、戸惑い、疑い、落胆するだろう。その時の弟子たちの武器は何であるか。それは人を殺す武器ではなく、「祈り」という神の武具である。信仰の盾、救いの兜、御霊の剣すなわち神の言(エフェソ6・16)。その他には何もなかった。しかしキリストは弟子たちに祈りという戦いの手段を与えた。迫害や困難に出会うようなときがあっても、落胆することなく、失望せず、繰り返し祈るべきことをイエスは譬えをもって教えられた。祈ることを止めてはならないといわれた。

2.どんな譬えであったか。ある町に、神を畏れず、人を人とも思っていない裁判官がいた。そこに夫を失ったやもめがいた。やもめは社会的な弱者となった者である。旧約の律法には「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」(出エジプト22・21)という規定もあったがこの裁判官は「神を畏れず、人を人と思っていない」裁判官であったので、初めから、律法など守ろうとする意志はなく、「賄賂を喜び、贈り物を強要する」(イザヤ1・23)役人だった。だから、やもめがいくら訴えても全然取りあげてくれなかった。しかしその後に裁判官はこう考えた。あのやもめは、うるさくて適わないから、裁判をしてやろう。さもないと、わたしをさんざんな目に遭わせるに違いない。散々な目に遭わせるというのは、格闘技の用語で目の下を激しく殴るといった意味だと言われる。
 主イエスは言われる。神を畏れず、人を人も思わない裁判官でも考えを変えて、やもめの訴えを聞いてやることがある。7節「まして神は、昼も夜も叫び続けている人たちのために、裁きをおこなわずに、彼らをいつまでもほおっておくことがあるだろうか。」
 ここには、「『小から大へ』の論理がある。つまり不義の裁判官ですら寡婦の願いをとうとう聞いたのだから、まして義の神は信者たちの願いを聞き入れないであろうか。いや絶対聞き入れる、という論である」(岩波訳の注)。神は裁きを行わずに放っておくということは絶対にない。神は必ず裁きを下され、救いを明らかにされる神である。この神の存在を疑わず、この義なる神を信じて、もうしばらくの間、忍耐せよ。

3.この世には、確かに神を畏れることなく、人を人とも思っていないこの裁判官のような面がある。ある方は次のように書いている。「神を畏れない正義のない政治、人を人と思わない愛のない政治、いつの時代にも、権力が民衆のためであったためしは、まれであります。・・それだけではありません。わたしたちの周りには、もっと目に見えない権力、力といったものも存在するではありませんか。運命、宿命といった力はまるで大きなブルトーザーのように、わたしたちの生活をめりめりと破壊してゆくのではないでしょうか。あるいは「死」という名前を持っている場合もあります。死、それは恐ろしい力です。さらに大衆ファッシズムのような、周りの雰囲気のような、噂のような力で、わたしたちを孤立させる力、信仰者はいつもそんな勢力に悩まされていないでしょうか。」(蓮見和男)

4.このような世にある弟子たちに、わたしたちに対して、キリストは言われた。それが7-8節である。7節「昼も夜も叫び求めている人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。口語訳聖書は「さばきをしてくださらずに、長い間そのままにしておかれることがあろうか」。文語訳聖書は「たとい遅くとも、遂に裁きたまわざらんや。」つまり、神の裁きは遅くなっているように見えるが、いつまでもそのような状態をそのままにしておかれるはずはない。遅くなっても待っておれ。神は必ず救いをもたらす。この神を信じて待てと言った。
 旧約の預言者ハバククは神からもう一つの幻を板の上にはっきりと書き記せと命じられた。人々が忙しく走って立ち働かねばならない時代の中で、走りながらでも読めるように。定められた時のために、もう一つの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。それは人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。神の救いは確実に必ず到達点に向かって進んでいる。それは必ず来る。遅れることはない。それは救いの出来事である。それを待つのが「神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2・2−4)。 この様な旧約時代の時を経て、「時が満ちると神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラテヤ4・4ー5)。

5.わたしたちもこの時代の中で、自分たちの力ではどうすることもできないような力の前に、翻弄されている現実がある。神はそのような時代に生きるわたしたちに対して、御子イエス・キリストの十字架と復活の事実を明らかにしてくださった。
 「神は日夜叫び求める信じる者たちを、ほおっておかれることがあろうか。断じてない。神は必ず救いを速やかにもたらすから、それを信じて落胆することなく、忍耐を持って祈り続けよ。」希望がなければ、忍耐もできない。信仰者に忍耐の力を与えるのは希望である。その希望の根底に、十字架の主、復活の主、再臨の主が立っている。
 「自分たちの勢力の弱さを見るべきではありません。それはもう既に権力の虜になって、神を見ることをやめている不信仰の姿以外の何物でありましょうか。日本でキリスト教が最も大きな社会的影響を与えたのは、その数が最も少ない明治の初年であったことを忘れてはなりません。わたしたちは人数や能力の虜にならずに、神の虜になるべきであります」(蓮見和男)。イエス・キリストによってあらわにされた十字架と復活の事実に基づいて、罪と悪のなお支配が続くこの世の中にあって、確実に進んでいる神の国の事実を信じていく。それが「信仰による義人は生きる」との言葉である。これはパウロによってローマ書1・17に引用された。

6.これから歌う讃美歌291「しのびて、春を待て、あらしにも、やみにも、ただ汝が身を。」「なやみは強くとも、みめぐみには勝つを得じ、まことなる主の手に、ただまかせよ、汝が身を」。この歌を歌って今週も、心晴れやかに、なすべき業に主と共に取り組んでいく信仰の道を歩んで行こう。