説教要旨 イザヤ9・5−6
ロ−マ1・1−7 2025.12.7
「ダビデの子孫から」
今日の説教の結論は、ローマ1・3「御子に関するものです。御子は、肉によれば、ダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」
1.クリスマスは、「人の心に思い浮びもしなかった」(1コリント2・9)、神からの喜びの知らせ、喜びの出来事、神からの福音である。しかし、その福音は2節によれば、「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」であった。神の時が満ちて(ガラテヤ4・4)実際にこの世の出来事となって世に現わされた。福音は神の「御子に関するもの」である。御子とは、元の言葉では「神の息子」「神のひとり子」という言葉である。御子はダビデの子孫として実際にこの世に生まれた。
ダビデはイスラエルの王であった人物である。イエスが、ダビデの子孫、という言葉には、大きくいって二つの意味が込められている。その第一はダビデは人間であったという面である。第二は王としての姿である。まず人間的な面を見てみたい。詩篇にはダビデの作、ダビデ自身の体験から記されたと思われる多くの作品がある。わたしたちは礼拝で詩篇の中から、悔い改めの詩篇と名づけられたもの二つだけ選び出して、これを毎週唱えている。その一つは詩篇32、その冒頭は「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」とある。神への背き、神に対する罪、咎、心の欺き、これらはすべてはダビデ自身の自分自身の人生の中で、自ら体験した出来事が背後にあるものばかりである。詩篇51編には「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください」とある。これももう自分自身の心の中には汚れに満ちた思いの他何もない。清い心を必死で求めている悲痛な叫びである。それは肉の弱さ、誘惑に弱い人間の哀れな姿や、もろさ、不完全さというに留まらず、神を畏れず、神への背きの心が暴かれ、さらけ出され、神に赦しを必死で請うている。神の赦しを得る以外に、清くされる道はない。その心情が明らかにされている詩篇である。
2.パウロは人間の現実をガラテヤ4・4で次のように書いている。「時いたって、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました。」律法は人間の心の中まで見抜き、裁き、判定する。その時、すべての人間が神の御前に義とされるものはいない。ことごとく迷い出て、死の判定を受けざるを得ない。モーセの律法はイスラエル民族に与えられていたが、異邦人にはモーセの律法はなかった。しかし異邦人には人間の心に記された律法があった。それは良心という律法であった。異邦人にも良心がとがめられる、良心の呵責(責め)というものある。それに苦しめられることが人間にはある。パウロは更にローマ7章24節で「ああわれ悩める人かな」(文語訳)「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」といい、死に向かっていかざるを得ない、肉の存在としての人間の悲惨な現実をパウロは切々と語っている。人間世界を取り巻いている、罪とその悲惨な現実は今も変わりがない。日本の社会でも連日のように、突然人が刺されて死んでいる現実が起こっている。ガラテヤ書4・4には次の言葉が、続いている。「御子を〔女から生まれさせ死に定められた人間の下に〕お遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」神の御子がこの世に遣わされたのは、この世で、罪とその悲惨な現実の中で救いの叫びを上げざるを得ない、赦しや贖いを求めざるを得ない人間の現実(ダビデの肉の叫び)を贖い出して、神の子とするためであった。
3.この御子イエス・キリストの働きを明確に示しているのが、4節の「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」という言葉である。ここに、御子イエス・キリストの王としての働きが示されている。
イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入場なさったとき、棕櫚の枝を道に敷き、ホサナ(王万歳)、ホサナ、主の御名によって来る方に、と叫んだ。自分たちを回ローマから解放してくれる王として、王万歳といった。ローマの兵隊は茨で編んだ冠を主イエスの頭にかぶらせ「ユダヤ人の王万歳」と言って(マルコ15・17)、何度も葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。いずれも、イエス様の王としての働きを理解していなかった。それで十字架、復活へと主イエスの歩みは進んでいった。
4節 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められた。
ここに、定められたとある。これは後に神の予定という言葉になっていった、重要な言葉であるが、復活は神の御心の中に定められていた事であった。先ほど、パウロの肉の叫び声を見た。ローマ7・24、そこに「ああわれ悩める人かな」(文語訳)「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか」とあった。7・24では原文では「死の体」であり、「死に定められた体」という訳は意味を強めた補った訳である。つまり、もう死ぬしかない人間の肉の姿を示している。肉の奴隷になっている人間の姿を「死に定められた体」という言葉で言い表している。これに対して、神は御子イエス・キリストを、そのような罪の奴隷状態から贖いだすために、救い主として定めたのが、御子の復活であった。ヘブライ書2章15節には「死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼ」したとある。このために、イエス・キリストの肉は引き裂かれ、その骨は打ち砕かた。まさに主イエスは全身全霊をもって、すべての力を出し切って十字架の死を死なれた。それが「復活」「力ある御子と定められた」ということである。
「死人からの復活ということが、どうしてそのように重要なのでありましょうか。またなぜわれわれに対しても、重大な意味を持つのでありましょうか。もしも死んだ人が生き返ったということだけであれば、ラザロは主イエスよりも先に甦ったのではないか、ナインの息子も甦ったのではなかったか。それらのことは、主イエスの場合とどのように異なっているのでしょうか。主イエスが復活されたのは、罪に対する勝利であります。」(竹森満佐一)。クリスマスの讃美歌には「悪魔のひとやを打ち砕きて、とりこを(捕虜)をはなつと、しゅはきませり」(讃美歌112#2)。「力にみつる主 世にのぞめり」(讃美歌97#2)と歌っている。すべてはわたしたちが神を「アバ父よ」と呼ぶ(ローマ8・15)神の子とするためであった。御子は私たち人間を神の子とするために生まれた。クリスマスは罪と死の勝利者、勝利の主、栄光の王がこの世に来られた。旧約の預言の言葉イザヤ9・6「王国は正義と恵みの業によって、今もとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」は、神の御子イエス・キリストによって成し遂げられた。わたしたちはこの主に「死に至るまで忠実」(黙示録2)な礼拝者でありたい。