説教要旨     出エジプト17章10−14節       エフェソ6章21−22節            2026.6.28
「忠実な仕え人」

今日の説教の結論は、パウロに仕えていた一人「ティキコ」が、この手紙をエフェソの教会に携えていった。21「彼は主に結ばれた愛する兄弟であり、忠実に主に仕える者です。」

1.この手紙は、エフェソだけでなく、コロサイなど、アジア州にあった他の諸教会でも、(ヨハネ黙示録によると7つの教会の名前が挙げられている)、それらの教会の礼拝で、われわれが礼拝で読んできたように読まれたと考えられる。パウロはこの手紙をローマで書いている。しかもパウロは身分的には獄中にあり、鎖につながれた囚人として、しかし「福音の使者」十字架につけられ復活されたキリストの大使として、獄中にあってもキリストの福音に仕え、福音を伝道するという任務に生きていた。そういう消息を知ってもらうために、21節「わたしがどういう様子でいるか、また何をしてるか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコをがすべてを話すことでしょう。」22節「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを受けるためなのです。」手紙の読み手たちの心を慰めるために、自分の部下ティキコを送るというのである。

2.この「励まし」という元の言葉は「慰め」と訳され、悲しんでいる人、不安に満ちている人を「傍ら、そばに」「呼び寄せて」助ける、という言葉である。(ヨハネ14・17,助け主なる聖霊)、キリストは言われた。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」(ヨハネ14・16−7)。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14・18)。キリストは悩み苦しむわたしたちを、御自分のそばに呼んで、ここに来なさい。ここにおいで、と言って、御自分の傍らにわたしたちを引き寄せてくださる。そういう慰め主、助け主、弁護者である。エフェソ書4・30では「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して、保証されているのです。」1・13ー4では「あなたがたはキリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証である」。ここに、聖霊の保証、聖霊の証印とある。保証とは、これは契約の保証としての第1回分の支払いを指す言葉、手付金であり、残りの支払いを保証するものである。
 また聖霊の証印とは、この世において、神のもの、神の所有であることを示す最高の特権であり、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(1コリント6・11)。「この〔聖霊の〕約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているもの」(使徒2・39)である。ここに聖霊の慰め、励ましの確かな保証がある。洗礼はその目に見える印である。

3.エフェソの教会の信仰者ひとり一人の具体的な状況や、抱えている問題などについて、ティキコが聞いてくれるだろう。またパウロたちの具体的な状況もすべて彼が話すことになるだろう。信仰の交わりがある。21節「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕えるものです。彼から心に励ましを得ることができる」とパウロは書いている。ティキコはアジア人で、エフェソの出身であったといわれて、パウロに同行したひとりにその名が挙げられている(使徒20・4に「アジア州出身のティキコ」とある)。「主に結ばれた、愛する兄弟ティキコ」と訳されている言葉は、かつての口語訳では「主にあって忠実に仕えている愛する兄弟ティキコ」とあった。主にあって、主において、主の中で、と元の言葉で書かれているが、その短い言葉に含蓄されている意味を、新共同訳は「主に結ばれて」と訳している。主イエス・キリストとの密接な関係を示すこの日本語訳は。新共同訳聖書の中で特筆すべきことである。それに続いて翻訳では愛する兄弟となっているが、元の文章のままでいえば、順序が逆で、愛せられる兄弟、そして主にあって忠実な仕え人、とある。主に愛せられたのか、みんなから愛されたのか、パウロから愛されたのか、はきりしないが、文脈から言えば、神から愛されたティキコ、神の愛を受けているティキコと読むのが妥当である。ある解説に次にようにあって、納得させられた。「神に愛せられたというのは、神から可愛がっていただくこともあるでしょうが、大事なことは、それによって、神に結びついている、ということである。キリストの恵みを受けた者は、神に結びつくのであります。神に結びついている者だけが、神の業を託される者になるのである。人間としての資格は何もいりません。ただ神が用いてくださるか、どうか。神に選ばれた者は忠実な仕え人であります。忠実なという字は、信仰深いという意味もあります。しかしそれは人間的な意味で、忠実とか真実とかいうのではなくて、どこまでいっても信仰によって考え動くことのできる人である。信仰のことは、いつでも信仰によって決まるのです。信仰がなければ、信頼することはできないであろう、と思います。ここには、使徒と書かないで、仕え人となっている。使徒といえば、教会の中だけで用いられる役目である。しかし仕え人というのは、どこにでも適用する言葉である。そういう何の特徴もない、ただ仕えるために働く人が福音を伝えるために用いられている。何の資格も問われていない。無色な仕え人が、今は主に用いられた人になっている。したがって、今は全く主の色に染まっている者、主のご希望の通り、どんなにでも動き回る人間ということであります。」
「想像することを許されるならば、彼のような立場の人は何人かいたのではないでしょうか。歴史は、本当は有名な人によって書かれるものではなくて、ある意味ではこういう無名の人々によって書かれたのかも知れません。ここに、はしなくも、 はじめの教会の力がどこにあったかを見せられる思いがすると共に、教会が、神よって支えられ、導かれるとは、どういうことか、ということが分かるような気がするのであります。」(竹森満佐一)。ある21節の翻訳を読んで衝撃を受けた。「彼は、神が大切にしておられる仲間で、主と一体のものとして信頼をもって歩みを起こす介添えの役の人です。」(本田哲郎個人訳)。ここに「介添えの役の人」とティキコのことを訳している。結婚式で主役は花嫁、花婿であり、彼らを引き立てる、それに仕える人が介添え人である。主役はあくまでキリストであり、キリストに忠実に仕える人、信仰に生きる人、それがティキコであった。

4.22節の訳で、目を開かれるものがあった。「ティキコはあなたたちにフレッシュ、ハートをもたらす」(フィリップス現代英語訳)とある。わたしたちの生きてい状況は日々変化していく。ティキコがエフェソの人々の生きている現実、時に新しい難問に直面している者に対しても、日々新しいキリストの恵みの福音を語り、エフェソの教会の人々に、新しい慰めと新しい勇気と新しい(フレッシュ)信仰の恵みに対する確信を与えてくれたに違いない。旧約にもモーセの働きを支えた人々がいた。モーセはアマレクとの戦いおいて神の杖を手に持って、丘のいただきに立った。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石をもってきてモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルは、モーセの両側に立って彼の手を支えた。その手は日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」(出エジプト17・11以下)。今週も新しい戦いが始まる。主キリストによって、それぞれ新しい慰めと力をいただいて、この一週間を歩んでいこう。