説教要旨     詩編145・10−21      エフェソ5・15−20         2026.4.19
「全てを感謝せよ」

今日の説教の結論は、エフェソ5・20「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」

1.すべてのことを、いつも感謝しなさい。これは、自分にとって都合のいい、うれしいことや願っていることが実現したから、そのような時にだけ感謝するのでなく、そうでないときにも、感謝しなさいという意味であろう。パウロはフィリピ人への手紙で同じような言葉を書いている。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。・・そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4・4)
 ここには「主において」「主にあって」常に喜びなさい。とある。先週も語ったように、「主において」とは、主の中で、主の恵みによって、主イエスに結ばれることによって、常に喜びなさい。その時、あなたが今経験している悲しみや、困難や、つらいこと、時には肉体の痛みや病、それらよりも遥かに大きなキリストの恵みの中に生きることができる。だから「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(これは2026年度の日本橋教会の聖句として、総会で皆さんの承認を受けることになるもの)。「何事につけ」、どんなことでも、あらゆる問題について、思い煩うな。「あなたがたは感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」であろう。

2.実はこのエフェソ書においても、3・12ですでに次のように語られていた。「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」16「どうか、御父がその豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。またあなたがたが、全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識を遥かに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れるゆたかさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に栄光がありますように、アーメン」。つまり、神は、人間の体験やそこから出てくる人間の願いや思い、計画や人間の知識、それらをはるかに超えるキリストの愛を用意してくださっている。キリストに結ばれている者は、その神の満ち溢れる豊かさの中にある。この神の御心を本当に受け止めることができるとき、人生の根本にある神の愛に生きることができる(ロマ8・39)。神の愛はイエス・キリストの十字架で実現された。神の命が明らかにされたのはイエス・キリストの復活の恵みであった。このことが明らかにされていくのが、礼拝である。

3.16節「今は悪い時代なのです」とある。現代もサタンがいろいろに姿や形を変えて、勢力を伸ばして、食い尽くすべき餌食を求めている。この現実はいつの時代にも存在している。1ペトロ5・8「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」。神はこのような悪い時代に中にも、救いの時を与えておられる。16節「時をよく用いなさい」。これは、買い取るという言葉であり、わたしたちは、この悪い時代の中で、救いの時を与えられている。わたしたちはこの神の時を手に入れていかねばならない。礼拝に出るためには、時間的なやりくりをして、時間を確保しなければならない。エフェソの町はカイステル川の河口にあり、肥沃な腐植土が上流から運ばれ、豊潤で豊かなブドウが実り、そこからワインが造られ、デオニソスの祭儀では、陶酔状態の中で神との交わりを求めるのを常としたといわれている。しかしそのような交わりは泥酔、乱行、放蕩をもたらしたと言われる。

4.これに対して、18節「霊に満たされ、詩編と讃歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」ここに教会の礼拝が具体的に語られている。聖霊に満たされるとは、「まことの信仰によって、キリストとそのすべての良き賜物にあずからせ、わたしを慰め、永遠までもわたしと共にいてくださる」(ハイデルベルク信仰問答53)ことである。したがって、わたしたちが、この世でどんな苦しいこと、悲しいこと、つらいことを経験しようとも、礼拝に来て、主イエス・キリストの愛に触れるとき、そこに聖霊が満たされることが起る。詩編145・14「主は倒れようとする人を一人一人支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」。
 キリストの愛の広さは、全世界を覆い、日本に生きるわたしにまで到達している。キリストの愛の長さは、歴史をこえ、時間を超えて、今現代に生きる私の中にまで延びてきている。愛の高さは、わたしたちを神の身元にまで引き上げてくださる。キリストの愛の深さは、罪の深みの底に沈んだわたしの魂にまで到達してくる。このような、無限の神の愛に触れたとき、わたしの魂は癒され、わたしの心に神の愛が次第にひたひたと満ちてくる。その時、わたしの心には、神への賛美がわいてくる。それが我々の礼拝の讃美歌である。

5.礼拝における讃美歌はひとりで歌うのでない。多くの人と共に歌う。ひとりひとりの歌う声は、ひとり一人の語りとなって、会堂に響いていく。まるでそれは互いに語り合っているかのようである。共に歌う交わりの礼拝がここにある。
 語り合うとは、「おのずと語りだす」という解釈もある。神への讃美は、心が満タンになれば、おのずと流れ出すように、神への賛美が自然とあふれ出てくる。
 主に向かって「心からほめうたいなさい」。心からとは、心のすべてをもって、であり「イスラエルよ聞け、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・4−5)。全身全霊をもって、神へのほめ歌を歌う。その最後は、神への感謝となっていく。
「わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝しなさい。」「ただキリストでも、イエス・キリストでもよかったのではないか、と思うのになぜ、このように、キリストについて、御名前の全てを書かねばならなったのでしょう。それはおそらく、これが礼拝に関係があるからでしょう。神とあがめるのであれば、その御名のすべてを書き連ねるようにすることは、自然なことでありまでょう。どのひとつが欠けても、自分の群れの拝むまことの神にならないのではないか、という気持ちになるでありましょう。キリストの名は口癖のようになって、あまり重んじられません。それならなおさら、ひとつ一つ深い思いをもって唱えなければならないと、と思う」(竹森満佐一)。
#讃美歌529「ああ嬉し、我が身も、主のものとなりけり。浮世だにさながら、天つ世の心地す。歌わでやあるべき、救われし身のさち、たたえでやあるべき、御救いのかしこさ」(アメリカの盲目の讃美歌作家クロスビー作)