説教要旨 イザヤ52・7−10
ローマ1・1−7 2026.7.19
「神の福音」
今日の説教の結論は、1節「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」。この2点に注目してきたい。
1.先週は、キリスト・イエスの僕とされた、僕に与えられた恵みと祝福、そのありがたさの数々を見た。今日は、その僕とされたパウロには、一つの使命が与えれたという点である。これはわたしたち信仰者すべてに当てはまる。それは神の福音のために、「選び別たれ」(口語訳)、「神の福音を告げ知らせる任務をいただきました」(本田哲郎訳)。神の福音を告げ知らせる、という使命であった。
ここに「選び出された」とある。この言葉は、「この言葉の語幹となっている字は、やがて近代語では、地平線という語が出てくる言葉である。つまり、これは地平線のような一線を画して、あるものを他のものから区別するという言葉を、さらに強化した語である。パウロは、神の業のために派遣される。それは、実に天と地を分けるように、自分が他の用をするものとは、まったく一線を画せられたものとされた、ということである。・・後にパウロはガラテヤ人への手紙〔1・15〕で、『わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた。』「選び分け」という言葉が、今日の「福音のために選び出され」と全く同じ言葉である。」(竹森満佐一)。
つまり、パウロは、自分は神によって、人々と一線を画された、もはや人々とは違った存在された。今までとは全く違って、神の福音に仕える僕とされた、といっている。ここには確かにパウロの個人的な体験がこの背景にあると言わざるをえない。それはあのダマスコへ向かっての旅、キリスト教徒を迫害して、彼らを男女の別なく捕らえ、獄に入れようとしていたその旅の途上にサウロの前に、現れたのが甦りのキリストであった。「サウロサウロ、なぜわたしを迫害するのか」と問う男の声があった。「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えがあった。真昼であったが、その光は太陽よりも明るく輝いて、わたしと同行していた者の周りを照らし、わたしたちは皆地に倒れた。その声は更に續いた。「起き上がれ、自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そしてこれから示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民〔異邦人〕のもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」(使徒26・16−18)。
2.この甦りのキリストとの出会いとその後のパウロの生き方がここに示された決定的な出来事であった。後にパウロは自らの言葉で弟子テモテにこう書いている。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。・・以前わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし〔キリスト・イスを〕信じていないときに知らずに行ったことなので、憐みを受けました。そして、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、わたしたちの主の恵みがあふれる程与えられました。・・わたしが憐みを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐を御示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本になるためでした。」(1テモテ1・12−16)。ここに手本とある。ヘブライ人への手紙12章では「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れ〔例に挙げた、アブラハム、モーセ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、預言者たちなど旧約の信仰者たちを指す〕に囲まれている以上、・・自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」手本とはお習字で先生の書いたものを下敷きにしてその上に自分の用紙をおいて、その上をなぞって行く。自分の下にある手本。その最たる御方はイエス・キリストである。パウロは自らを信仰者の実例としてあげている。「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々」に対する、自分はその実例、サンプルであるという。ダマスコ体験は確かにつまりこれはパウロひとりの個人的体験であった。しかしその個の体験は、その後の人々が追体することによって、信仰者すべてがいろんな形の経験となっていく。それが教会の歴史、伝統となって継承されてきた。パウロ、アウグスチヌス、ルター、カルヴァン、ノックス、ウェスレー、チンセドルフ、シュライエルマッファー、内村鑑三、植村正久も、羽仁もと子、沢田美喜も、キリスト教の歴史に、旧約から始まり全教会史になかに、無数のキリスト者たちがいる。全て我々の信仰の手本である。その根本には、神が信仰者一人一人を、この世の事柄とは一線を画して、わたしたちをキリストを信じる者へと導いてくださったということである。信仰は人間の業ではなく、神の業なのだ。パウロは「選び分け」、神の選び、神への召しと言った。ガラテヤ1章だけでない。エフェソ1・4でも「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて終えらびになりました。イエス・キリストによって、神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神が愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」。たたえる、と讃美の歌を歌えばいいのではない。この救い主を知らない方に伝えていくこと、これが伝道。
3.パウロはこの福音の異邦人に伝えるために選ばれた。神によって召し出された。使徒とは、遣わされた者、遣わす者に従順に従い、誤りなく、その内容を伝える役割を担った全権大使という意味である。教会の、キリスト教の基本をつくった人々を指す。ガラテヤ書の冒頭1・1では「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と書いた。あの人この人間のしがらみ、義理人情、社会的地位や名誉によってではない、この世の社会的政治的、法的制度からではなく、イエス・キリスト御自身とイエスをよみがえらせた父なる神によって、その全権によって、使徒とされたパウロ。人間の知恵や人間の能力に依るのでなく、それ以前に、まだ生まれない先から、あの旧約の預言者たち(エレミヤ1・5やイザヤ49・1)と同じように、わたしもそのような神の全能の権威によってキリストを信じる者として召されたのである。
4.神の福音とは、神に関することではなく、神御自身から出た福音。神が創始者であり、神が所有者である福音。神ご自身が主語である福音。その福音を伝えるのが、福音の伝令者、使徒である。この福音は旧約聖書イザヤ書にまで遡り、そこにおいて、示されたことであった。イザヤ書52章に、良きおとずれ、すなわち喜びの知らせを伝えるために伝令者は走って行った。戦いに勝ったぞ。その喜びを第二イザヤは、長いバビロン捕囚から解放された喜びを伝える情景を描いている。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。〔人々は〕歓声を上げ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。」(イザヤ52・7−10)。パウロは自分の足で何万キロの道のりを異邦人のために伝道した。われわれにもその使命がある。それ以前にイエス・キリスト御自身が福音の伝道者であった。「岩山荒れ野を漏れず訪ね、飢疲れし小羊をばいたわり抱きて、かえりたもう」(讃美歌#247)。この主と共に今週も歩もう。