説教要旨 ハバクク2章19−20節
ルカ1章5−25節 2024年12月1日
「沈黙の時」
今日の説教の結論は、ルカ1・19天使は答えた。「わたしはガブリエル。神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」
クリスマスは希望を与えられる日、それが今日から始まった。待降節(アドベント)はクリスマスの中に入っている。クリスマスは今日から始まっている。
1.待降節はクリスマスを迎える心の準備体操のようなものであるが、神はすでにそこにクリスマスの本体の喜びを入り込ませている。それは天使ガブリエルが語った「喜ばしい知らせ」(19)に要約できる。これは戦争に勝利したことを伝える喜ばしい知らせ、それを伝える者を指した。それが「キリストの福音」を語る言葉として、聖書の中で数多く使われるようになった。イエス・キリストの言葉と業を記した4つの書物は、すべて「福音書」と言われている。この言葉と天使ガブリエルが伝える福音は同じく福音である。
2.神は天使を通して祭司ザカリアに語った。ザカリアは既に老人であったし妻エリサベツも年老いていた(18節)。また彼らの生きていた当時ユダヤは、ローマ帝国の主権の下にあったが、ローマは統治政策上ユダヤをローマの直轄地とせず、ヘロデを王(5節)に命じ治めさせていた。ヘロデはキリスト誕生の報を受けると、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をひとり残らず殺させた(マタイ2・16)、あの残忍な王である。ザカリア夫妻には跡継ぎがなく(7節)、当時は恥(25節)と考えられていた。そのような中にあっても、ザカリア祭司夫妻は、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ち所がなかった。」(6節)。
わたしたちの生きているこの時代も、決して手放しは喜べない、闇が覆っている時代である。個人的にもそれぞれ問題を抱えながら生きている。しかし神はなお神の前に真実に生きようとする人々を見捨てることはない。ヘロデに象徴される時代の闇よりも、強い神の働きがあったことを聖書は語っている。天使ガブリエルは、自分のことを神の前に立つ者と語る(19節)。天使は聖書の中で多数存在しているが、名前をつけられているのは、このガブリエルとミカエル(黙示録12・7)二人のみである。ガブリエルは自分が神の前に立つものであることを宣言することによって、自分が登場したなら、それは自分が仕えている神がここにいることを語っているのである。ガブリエルという名前は、神は強者、勇者であるという意味である。そのような名前を与えられて、天使は神からのメッセージを語った。神はヘロデ大王よりも強い勇者である。神は人間の肉のはかなさ、時と共に弱くなっていく肉体に新しい命を創造することのできる強い力を持っている。そのことを、天使ガブリエルは一組の老祭司夫妻に明らかにした。詩編71編には「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」(9節)「わたしが老いても白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。」との祈りがある。
3.ザカリアが他の祭司たちと神殿に入り、ザカリアは香を焚く務めを行っていた。10節「香を焚いている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると主の天使が現れ、香壇の
右に立った。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。」ここで強調されていることは、神の御業は「あなた」自身に向けられているということである。「あなたの祈り」「あなたの妻」「あなたにとっての喜びと楽しみ」。神の救いの御業はこうだ、と一般的な説明をしているのではない。ある方が次のように書いてあるのを読んで教えられた。「わたしたちは神の言葉を聞いている。しかし、信じてはいない。祈ってはいる。しかし、信頼してはいないのではないでしょうか。みんな既製の概念で、神を測っているのではないでしょうか。それはまるで、30センチの物差しで、地球の長さを測るのに似ています。」(蓮見和男)頭では神の救いを理解している。しかしそ神の恵みが自分自身の上に注がれていることを受け入れようとしない。自分自身がそれに当てはまるとは考えない。そこに隔たりがある。その隔たりを埋めるにはどうしたらいいのか。われわれは自分の持っている30センチの物差しで地球の長さを測ろうとしているのではないか。われわれの持っている尺度で神を測ることはできない。不可能なのだ。自分自身の中に既にできあがっている神とはこういうものだ、という考え方を一端打ち壊されねばならない。聖書の神は30センチの物差しで地球の長さ(4万キロメートル、約1億倍)を測ろうとしているようなものである。イザヤ書40章には「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって持って天を量る者があろうか・・丘を天秤にかけるものがあろうか。見よ、国々は革袋かあらこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる」。これらは皆神の被造物、神御自身ではない。神が天使を遣わして語った言葉、「ザカリアよ、あなたの祈りは実現する」「あなたの妻は身ごもって、救い主を指し示す者となる。」「生まれ出る子はあなたの喜びとなる」。ザカリアは自分の基準で神の言葉を量ろうとした。人間の所有する条件にこだわっていた。18節「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」。ザカリアは自分が所持している物差しで、神の言葉を量っている。そんなことは不可能である、と。天使が反論した。「わたしは天使ガブリエル。神の前に立つ者である」。神は強者であるとガブリエルは、神のメッセージを語った。
4.同じような状況にあったアブラハムについて、新約聖書のローマ書4章は、「アブラハムは死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じ、その御前でわたしたちの(信仰の)父となったのです。アブラハムは希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」ローマ4・17−18)。アブラハムもザカリヤも、同じように高齢者であった。アブラハムも100歳で妻サラは90歳であった。希望するすべは自分の中に何もなかった。しかしアブラハムはそういう自分に固執しないで、その物差しを放棄して、神の言葉を受け入れた。「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと、確信していたのです。だからそれが彼の義と認められたのです。」(ローマ4・21−22)。一方ザカリアは年老いた自分にこだわり、そのような自分に対する神の約束「福音の到来」を実現させる力をお持ちの方であることを信じなかった。
5.ガブリエルの答えは「あなたはこのことの起こる日まで、話すことができなくなる」(20節)といった。これは裁きではなく、神の前に自分にこだわる頑なさを打ち砕かれ、ただ神の行う御業を黙って見る時を与えられた。讃美歌第2編167に「われをもすくいし、くしきめぐみ、まよいし身もいま、たちかえりぬ」の元の歌詞は「アメイジング、グレイス」(驚くべき恵み)。作詞者ジョン・ニュウートン(18世紀)はアフリカ奴隷船の船長であったが、ブラジルからの長い航海の中で暴風雨に遇い命を失いかけ、回心し16年間もかけて勉強し英国国教会の聖職に任じられ、最後は失明しながらも82歳の死の時まで、「自分を生まれ変わらせてくださった神の恵みの豊かさと、その驚きについて」語ることを止めなかった、といわれている。人生は肉体の弱さや年齢や欠けや罪に満ちている。しかしそれにこだわって失望の中を生きることを聖書は許さい。神は驚くべき恵みを一人ひとりの人生に備えられた。これを信じて神の前に静まる時がクリスマスである。