説教要旨 イザヤ61・1−4
ローマ1・1−7
2026.7.26
「神の御子の福音」
今日の説教の結論は、4節「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。パウロは、わたしたちが信じている「主イエス・キリストはどのような方であるか」をまず明確に、このローマの教会の信仰者たちに対して、信仰の根本を書いた。
1.先週は、神からの「福音」がわたしたちのところに来たと語った。今日のところではそれを受けて、その神の福音は、3節「御子に関するもの」であるという。なぜ、神の御子が登場するのか。わたしたちは神の恵み、神からの祝福といえば、豊かな食料が与えられる、とか大漁の魚が捕れるとか、昔から日本では五穀豊穣(稲、麦、アワ、キビ、豆などの穀物がたくさん収穫できること、食べるに困らないこと、家内安全、安心、平和であること、みなが健康長寿で、争いや病気がないことなどを願ってきた。それが実現すれば、それが神の恵み、それが神の福音であると思う。しかし、聖書では、神の恵みはそれにとどまらない。キリスト教の信仰、聖書が示す神の恵みは、それだけではない。イエス・キリストという神の御子をこの世に送ってくださったことだと書いている。
物質的なことだけでなく、もっと広い世界、神を知る恵みを聖書は明らかにしている。その恵みは、御子イエス・キリストという人格を通して、明らかにされた。主イエスは、「主はわたしに油を注ぎ、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知した」。(イザヤ61・1)。山上の説教と名づけられたものに一つに、「だから言っておく、自分の命のことで何を食べようかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」人間は衣食住のことで思い煩っている現実がある。しかし主イエスは言われた。あなた方の命そのものが、創造者である神の手の中にあるではないか。といわれ、「あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の労苦は、その日だけで十分である。」(マタイ6・25−34)。これらの言葉だけでも、主イエスから聞いた福音である。新約聖書その中の小さな一節だけでも、このような福音が充分に表されている。
2.イエス・キリストは「肉によれば、ダビデの子孫として生まれた」とある。肉によればとは、肉の目で見れば、ダビデの子孫として生まれた。ユダヤの国は近隣の大国の支配を受け、自分たちの歴史的な偉大な王であったダビデの再来を求める長い期待があった。当時はヘロデ大王が支配し、更にその上に巨大なローマの帝国が支配していた。「ダビデの子孫として生まれた」とは、あのダビデ王の血統を引きついだ「まことの王」が生まれたというイメージがあった。しかし、同時に、ダビデも肉を持ったひとりの罪人であった。この事実を見逃すことはできない。
「この才能豊かな王は、はなはだ人間的な人物でありました。数々の失敗がありました。彼の家庭には煩わしい憂いがありました。その生涯は輝かしい栄も表しましたが、惨めな人間の弱点をさらけ出したようなものでありました。彼は信仰の深い人でありました。しかし彼の名を用いて作られた多くの詩編が示しているように彼はいわゆる聖者型の信仰者ではなかったようであります。彼は何度も躓き、神の憐みにすがって、その都度立ち上がることを学んだ罪人でありました。彼こそはまことに人間であったといえるのではないかと思います。」(竹森満佐一)。このような罪人の代表であるダビデの、子孫として、イエス・キリストは「罪は犯さなかったが、すべてのことについて私たちと同じように試練にあわれた」(ヘブライ4・15)。わたしたちの肉の人間としての現実、罪と死の現実に深く同情し、罪人の仲間となって、共に泣き、共に苦しむ存在となって、そこから救い出すために、イエス・キリストはわれわれと同じ肉をとられたのであった。
3.これを更に決定づけるのが、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の御子と定められた。」(4)。このところを「〔神の子イエス・キリストは〕死んだ者たちの中から復活して、聖霊の力ある働きによって、神の子であるとはっきりと示されました。」(本田哲郎訳)。死者と訳されているところが、この訳では「死んだ者たち」と元のことばに従い、複数形で訳されている。これに対して、「復活」のところは単数形である。ということは、キリストが神よって甦らされた復活は、キリストおひとりがよみがえらされた事実を示しているのに対して、「死んだ者たち」が複数形であるとは、キリストのよみがえりは、ただ1回なのであるが、キリストは、ひとりひとりの人間の罪とその罪人たちの死につながれた陰府に降り、死者の国に堕ちて、その死につながれた者たち、一人一人をよみがらせる命の主となられた。多くの死者たち、死のとげである罪を取り除き、新しい神の命を提示するために、よみがえらされた。ここで復活ということが前面に出ているが、その復活は十字架の死があってのことである。
「それゆえ復活ということを一つ〔だけ〕語っているようでありますが、実は復活を語ることは御子の御業のいっさいを語ることであり、御父のすべてが明らかにされることである。最初の教会の伝道が主の復活の証しとして出発したことは当然なことであった。主イエスが復活によって御子と定められたということは、われわれ〔一人一人〕が復活の力に与ることによって、御子を真に知ることができるということになるのである。」(竹森)
1コリント6・14「神は主を復活させ、またその力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」
ローマ8・11「もしイエスを死者の中から復活させた方の霊があなたがたの中に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
4.復活の朝、マリアは墓の外で泣いていた(ヨハネ20)・1)。甦りの主は後ろから「マリア」とその名を呼んだ。マリアはその声の主を覚えており、振り返って懐かしさのあまり、イエス
にとりすがろうとした。イエスは「わたしにさわってはいけない」といって、これを拒否された。復活のキリストは肉の手で触れるような御方ではない。主は肉のキリストではなく、甦りのキリストとなっていた。
「それは主が変わられたのでもありましょう。しかしそれよりも、マリアが主に対する心を変えねばならないことを示しているのではないでしょうか。今こそ、ラボニ(先生)ではなく、救い主(主キリスト)として取りすがるべきなのでありましょう。御子はこういう道によって我らの主イエス・キリストになられたのであります。」(竹森)。
今週もこの主イエス・キリストと共に歩んでいこう。そこには罪と死に勝利した信仰者の希望の歩みがある。これから歌う#224、「勝利の主イエスの名と栄光の神の国、
四方(よも)に宣べ伝え、広めよとの声えきこゆ。」「生まれ変わり、共々に、神の国へすすみゆけ」「歌声挙げ、もろともに、ほめたたえよ、主の力」」「宣べ伝えよ、みめぐみの、いとも奇しき神のわざ」。これはCウェスレの作。教会の伝道はここから始まる。