説教要旨   2022.10.2
詩編86・13−17、ルカ8・26−39
「一人の小さい者を」

今日の説教の結論は、ルカ8・39の一番最後の「その人は〔イエスのもとを〕立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」。

1.その人というのは27節によれば、長い間衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。29節には「この人は何回も汚れた霊に取り憑かれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それをひきちぎっては、悪霊によって荒野へと駆り立てられていた」。聖書はそのような人を「悪霊に取り憑かれた人」と表現している。今までも8・2には「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア」とあった。4・33にはカファルナウムの会堂に汚れた悪霊に取り憑かれた男が大声で「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか、神の聖者だ」と叫んだとき、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒して、何の傷も負わせないで出て行った。」しかしこの度は、その程度において、今までとは比べものにならない激しいものであった様子が伝わってくる。
 生きているのは、この人ではなく、悪霊が生きている。主はそのことを見抜かれ、29節「この男から出るように命じられた」。するとこの男は、わめきながら、ひれふし、大声で言った。「いと高き神の子イエスかまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」。この男が語っているのか、悪霊が語っているのか、渾然一体となっている。先ほどの4章の会堂にいた男も「我々を滅ぼしに来たのか」と大声で叫んだとあった。人々は今度の男を鎖や足枷でしばって拘束した。しかし異常な力でそれを引きちぎった。もう誰も恐ろして手が出せない状態だった。荒野で生きている恐ろしい怪物、獣のように裸で生活し、自分を傷つけていた。人の訓誡に耳を傾けず、交わりを断ち、自分を損なっている。もう自己の暗闇の中に閉じこもってしか生きていけない所へと追いやられていた(29)。しかしこの人も、実は人間であった。イエス・キリストはこの人に語りかけることを止めなかった。30節「イエスが名は何というか」とお尋ねになると「レギオン」と答えた。レギオンとは、ローマの軍隊を表す言葉で、歩兵5〜6千人、騎兵120騎を擁すると言われている。それ程多くの悪霊が彼を支配していた。このガリラヤ湖の東側はヘレニズム〔ギリシア風〕の町で、当時はローマの支配下にあったので、この言葉が使われたと見える。7つの悪霊どころではない、はるかに多くの悪霊がこの人の中に入り込んでいた。29節「この人は何回も悪霊に取り憑かれたので」とある、これは引きつかんでさらっていく。悪霊に拉致されて身動きが出来ないような状態にされてしまうことである。悪霊が一番恐れていることは、31節「悪霊どもは、底なしの淵」、これは他の聖書では悪霊を閉じこめておく、いわば地獄(黙示録20・1−3)に追いやられ、この世で活躍できなくなることを一番恐れている。

2.わたしの牧会経験でも、このようなことに出会いました。もう20年以上前のことですが、あまりのショックに昨日のことにように覚えています。まだ30台後半の男子青年でした。面会が可能になった時、尋ねた。鍵のかかった部屋で2段ベッドの狭い部屋に何人も寝ている。部屋はタバコの煙でもんもん。鍵を開けてもらえて、階下のロビーで会った。お母さんが熱心なクリスチャンであった。素人のわたしにの目にはこれはもう絶望としか映らなかった。母の愛だけが、家族の愛だけが彼を支えていた。その背後にイエス・キリストの愛があった。回復できたのは本当に奇跡としか思えなかった。人の精神を狂わす力こそ、汚れた霊の働きである。今日まで様々な誤った方法が試みられた。まじない、火あぶり、焼き火箸、冷たい氷のお風呂、電気ショックなどなど残忍ないくつもの方法が試みられてきた。今ではかなり改善されて、研究も進んでいる。しかし、母の愛、家族の愛、キリストの愛がその根幹に必要である。ほとんどの患者が家族から、社会から見離され、荒れ野に追いやられ、墓場で生活しているのが現実である。

3.わたしたちの心にも、たくさんの悪霊が住んでいる。何らかのきっかけで、精神のバランスが崩れ正常な理性や愛が壊れてしまうと、悪霊に支配されることになってしまう。ここにも毎週の礼拝の恵みがある。イエス・キリストは言われた。「人の体に入るもので人を汚すものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」つまり「人間の心から、悪い思いが出てくる。みだらな行い。盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな、〔人間の心の〕中から出てきて、人を汚すのである。」(マルコ7・21−22)。これを否定できる人はいない。
 イエス・キリストが教えた主の祈りの言葉の中に「我らを試みに遭わせず、悪より〔悪魔〕より救い出し(いだし)たまえ」とある理由がここにもある。われわれが悪霊に支配され続けるのでなく、それらが断ち切られ聖き神の恵みの霊に支配される。それが礼拝である。われわれは聖霊の御支配に服する者となる。イエス・キリストの十字架と復活は、悪霊の敗北であり、罪の赦しの確立であり、慰めの到来であり、聖霊の御支配の始まりである。恵みの時が来たのである。我々の闇と悪霊の、その支配を打ち破ってくださったのは、イエス・キリスト以外にない。この男が全く癒され、健全な精神を取り戻せたのは、イエス・キリストの愛、神の愛であった。キリストはこの男を見離さなかった。名前を聞かれたとき、この男は「レギオン」と答えた。いくつものこの世の思い患いに支配されている人間の心の状態を的確に表している。イエス・キリストは名前を聞いている。自分自身を取り戻させようとしている。この男は自分自身を失いこの世のお金や権力や名誉の奴隷、悪霊の支配の中に縛り付けられ、それが実現できず自分を傷つけていたのである。
この世の悪霊の支配からの解放者こそ、イエス・キリストであった。この異邦人の小さいしかも多くの汚れた霊に支配されていた男のために主イエスは嵐の湖を渡ってきた。
 2000頭の豚の件について、バークレーは「実際に起こったことは次のようなことだろう。豚の群が山の中腹で飼育されていた。イエスはその病を癒そうと力を行使つつあった。突然男は猛々しい叫び声をあげ、その異様な声にびっくりした豚が得体の知れない恐怖に押し出されて急な坂をまっしぐらに突進しはじめた。イエスは「見なさい。あなたの悪霊はあそこへ行ってしまった」と言った。

4.最後にこの男は「正気になってイエスの足下に座っていた。」(35)足下に座るとは、弟子となる意味である。この男は正気、理性を取り戻し、イエスにお供したいとしきりに願った。しかしイエスは言われた。あなたは家に帰り、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい(29)。彼はそれに従った。悪霊を追い出されただけではキリスト教信仰は完結しない(11・24−26を見よ)。悪霊はたえず新しく人間精神の中に入り込み支配しようとしている。人は神の栄光のために生きるという新しい使命を必要とする。「福音はユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1・16)である。主イエスは自然に対してだけでなく、人間の精神破壊の力に対しても回復者であり勝利者である。神のなしてくださった恵みをことごとく伝えるこの男の証しは、見える説教(4・44)である。家族は信仰者を見ている。