説教要旨     詩篇139・8−18        エフェソ3・10−13                2026.1.11
「大胆に神に近づく」
 
 今日の説教の結論はエフェソ3・12「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」

1.この短い文章の中に、キリスト教の本質が言い表されている。わたしたちは毎週、この礼拝を通して神に近づく神と出会うことができる。見えない神とどうやって出会うのか。荘厳な雰囲気、音楽、お茶会の交わりで神に出会えるわけではない。ではどうやって出会うのか。それは「キリストに対する信仰により」「神に近づくことができる」とある。キリストに対する信仰はどうやって得られるのか。キリストはこの地上にあった時、神の存在を説教、奇跡の御業、最後は十字架、復活の御業を通して語った。山上の説教(マタイ5−7章)で、「野の花を見よ、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」そう言って神の存在を示した(6章)。またユダヤ人と異邦人の区別なく、神への信仰を率直に語った。一人のローマ人の百人隊長のしもべが中風で寝込んで、ひどく苦しんでいた時、隊長は主イエスに癒しを願った。「行って癒してあげよう」と、主イエスが言うと、百人隊長はわたしも権威の下にあるものですが、兵隊に行けと言えば行きますし、これをしろと言えば、その通りにします。それゆえ「ただお言葉をください」。イエスはこれを聞いて感心し、「イスラエルの中でさえこれほどの信仰を見たことがない」と言われ、「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われた。丁度その時間に僕はいやされた(マタイ8)。このように主イエスは御自分に対する信頼、信仰を強く求められた。「ピリポ、わたしになぜ御父を示してほしいというのか。わたしを見たのは、父〔父なる神〕を見たのである」。(ヨハネ14・9)。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1・18)。このように聖書は、イエス・キリストの中に、神は我々と共にいます(インマヌエル、マタイ1・23)という信仰を明確に伝えている。イエス誕生の預言の天使の言葉は、現実のものとなっていった事が聖書には記されている。

2.そのようにして、「イエスは主である」、「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16・16、口語訳)との信仰の告白をして、主イエスを信じる者は、イエス・キリストの「わたしはまこと〔完全な〕のブドウの木、あなた方はその枝である」(ヨハネ15・5)。キリストに接ぎ木された者、必ず良い実を結ぶことができる枝、キリストに属する者(この世につながっているものでなく)、キリストの忠実な僕(主人に忠実な奴隷)、キリストの親しい友、キリストの忠実な弟子とされていった。その時、わたしたちはキリストの恵み(罪の赦しと祝福)のすべてに生かされるものとなっていく。このような経過を経て、神を信じ、神と交わり、神に祈り、アバ父よという御子の霊を与えられたものとされる(ローマ8・15)。神の子の身分を授けられた。讃美歌#16の3節「ひたすらにアバ父と、よびまつるほかぞなき」。このキリストとの人格的な関係によって、わたしたちは父なる神、全能の神、イエス・キリストを死からよみがえらせたもうた神、天地の造り主なる神の前に立つことができるようになった。これが毎週の礼拝の恵みである。
 礼拝を成り立たせているのは、2節「秘められた計画」「神の奥義」(神の御心にそれまで隠されていた奥義、神秘)が今やイエス・キリストによって、9節「すべてのものをお造りになった神の内に、世の初めから隠されていた秘められた計画」、11節では「イエス・キリストによって実現された永遠の計画」が実現したからである。これは偶然や一時的なことではなく、神の永遠の御心の中で定められていた、予定されていたこと、人間の思いをはるかに超える神の永遠の御心の中で定め、制定されたことである。その神の確かさであるイエス・キリストに対する信仰のゆえに、私たちは神礼拝をすることができる。

3.今朝注目したいのは、12節で「確信をもって」「大胆に」という言葉がある。その前に「イエス・キリストに対する信仰により」とある。われわれの確信や大胆さはどこに由来するのか。イエス・キリストに対する信仰による。では信仰とは何か。ハイデルベルク信仰問答21は、使徒信条の解説を始めるにあたり、「まことの信仰とは何ですか」と問う。答「それは、神の言葉によって、われわれに現わしてくださったことを、みなまこととする堅固な認識だけではなく、聖霊が福音によって、わたしの内に起こしてくれる、心からなる信頼のことであります。これによって、わたしのためにも、罪の赦し、永遠の義、祝福が、ただ恩恵により、キリストの御業のゆえにのみ、神から与えられるようになるのです。」ここに、認識と信頼という言葉がある。認識は神の御心、神の計画、神の定めをを知るという面である。しかしそれだけでなく、それによって明らかにされたイエス・キリストに対する信頼によって、その認識がわたし自身の存在そのものや生き方に変化をもたらしていく。私自身の中に本当に罪の赦しの恵みが与えられるとき、わたし自身の生き方が変わってくる。罪の赦しがイエス・キリストの福音によって、その恵みが本当にわたしの中に入って生きるとき、その恵みはわたし個人の赦しだけに留まるのでなく、神の祝福を周りにも、隣人にも家族にも与える余裕が出てくる。広い視野へと進んでいくことができるようになる。キリストに対する信頼関係は私個人の中にとどまらず、広がっていく。信仰には、認識とは違う信頼という側面がある。福音の認識がキリストへの信頼となっていくとき、その信仰は本物となっていく。「大胆」という言葉は「キリスト以外にどのような仲介者も必要とせず、直接神に近づくことができるクリスチャンの自由を示している。」神の前に出るのに何が必要なのか。献げものか(お金持ちか)、学識か(頭がいいか)、家柄か(立派な家系か)、職業か(どんな仕事か)、健康か(病気である、障害がある)、男か女か、年齢、国籍、言語、人間の罪と過ち。礼拝はそういったものすべてから自由である。このことを知った時、この認識があるところ、ヘブライ書4・16口語訳には「はばかることなく」恵みの御座に近づくことができる。新共同訳はそれを「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と訳している。キリストへの信仰だけをもっているなら誰でも自由に、一切の制限なしに神の御前に出ることができる。
「確信をもって」とは何の恐怖や不安もなく。イエス・キリストを失うなら、神に対し不安と恐怖が支配する。イエス・キリストに対する信頼関係のゆえに、神への不安や恐怖は全くなくなって、神の前に出ることができる。ヨハネ黙示録3・4は、サルディスの教会に対して「彼らは白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。」とある。「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13・14)ともある。イエス・キリストに対する信仰のみが、神に対する不安や恐怖を取り除いてくれる。死後の世界や悪魔が力をふるう天上(10節)や地下の陰府であっても(詩篇139・8)キリストの力の及ばないところはない。キリストに属する時、不安や恐怖を完全に取り除かれて「確信をもって」神の前に立つことができる。

4.われわれもこのような精神で今週、礼拝の生活を續けて行きたい。教会の使命は、この神によって定められた確かな福音の恵みをこの世に伝えていくことである。