説教要旨     詩篇34・2−11      エフェソ4・7−10        2026.2.1
「恵みの充満」

今日の説教の結論は、エフェソ4・10「この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」

1.神はその絶大な力をキリストに働かせ、キリストを死者の中から復活させた、天において御自分の右の座に着かせた(エフェソ1・20)だけでなく、わたしたち信仰者に対して、2章6節で「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」、更に続けて2・7では「神は限りなく豊かな恵みを、来るべき世に表そうとされたのです」とある。ここには、神の働きがこの世と来るべき世を貫いて、また御子キリストに対してだけでなく、キリストに連なるわたしたちに対しても、その恵みが明らかにされることが明確に示されている。

2.今日の4章7節の主語は「わたしたち一人一人」であり、わたしたちはみんなひとりひとりキリストの恵みの量りにしたがって、神の恵みが与えられている、と語る。(例ヘレンケラーにも。祈りは自分に隠されている神の恵みを発掘することだーカルヴァン)。パウロは,次の8節で詩篇の68編を引用する。もともとこの詩篇は、王である勝利の神がエルサレムに行進する(68・25「神よ、あなたの行進が見える」)。その時、王が戦利品を分け合う様子を描いている(68・19「人々をとりこ〔捕虜〕とし」)詩篇である。パウロはこの詩篇を、キリストの天上における働きを記すものと解釈して、これを引用する。「戦いに勝利した王が捕らわれ人を連れていく、その賜物を人々に分け与えられた」。それがキリストの天上における働きであるという。パウロはコリント書で「神はいつもわたしたちをキリストの勝利の行進に連ならせ〔わたしたちをキリストの凱旋に伴い行き〕口語訳」(2コリント2・14)と書いている。それだけでなく、キリストの勝利の戦利品を人々に分配する。
その戦利品とは何か。キリストは1・21に言及されたように、当時、天において力をふるっていると人々が信じていた「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き」また2・2の「空中に勢力を持つ者、すなわち不従順な者たちに内に今も働く霊」を支配し、それらに勝利し、それらを縛り上げた。罪の支配、死の支配、悪霊の支配、そのようなもろもろの支配と権威、勢力、主権の上に、それらを征服してそれらを支配下に置かれた。神はその恵み、その勝利の喜びの行進にわれわれを伴って行く。一番最後には敵の捕虜たちが連れられて行進する。そんな情景が一般的に日常的に行われていた。

3.そのキリストが9節では、「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか、という。これは、神と共にあったキリストが、時いたって、この地上に降りてこられ肉をとってこの世に現われ(誕生)、十字架につけられ、死んで 葬られ、さらにはペトロの手紙にあるように「キリストは捕らわれていた霊たちのところにへ行って宣教した」(1ペトロ3・19)陰府(よみ)に下ったとも理解される。このように、キリストは高き天から、低い所、地上に降りてこられた。10節「この降りてこられた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」
 このようにして、キリストは「すべての時」「すべての場所」で勝利者となってくださったという。10節「すべてのものを満たす」(「あらゆるものに満ちる」口語訳)
「あらゆることに満ちる、というのは、どういうことでしょう。こういう言葉に行きあたると、何か不思議な方法で、キリストが、万物のうちに満ちるのではないか、と漠然と考えるのであります。しかし、このことは、そういうあいまいなことではありません。キリストの満ちるというのは、キリストがそこにおいでになる、ということであります。したがって、キリストがあらゆるものに満ちる、というのは、どこに行っても、キリストがおられるという、ということであります。もちろん、キリストは、天に上られたのであります。それなら、どこにいっても、キリストを信じることができる、ということではないでしょうか。あらゆるものに満ちておられるのなら、信仰者から言えば、どんな事情の中でも、キリストの恵みを信じることができる、ということであります。キリストの方から言えば、満ちるというような分かりにくいことではなくて、どこにおいてもキリストが支配される、ということでありましょう。キリストが支配される、というのは、どこでも、キリストこそ力であることが信じられる、ということになると思います。
キリストが天に上られた、ということはキリストが勝利し、その御業が完成したことであります。それは、その救いが成就したことになります。それなら、今はあらゆるもののうちに、キリストの勝利を見ることができる、信じることができる、ということになるのではないでしょうか。信仰者の最大の願いは、いつ、どんな時でも、神の恵みを信じることができる。悲しい時にも、苦しい時にも、また嬉しい時でも、神の恵みが自分に与えられていることを信じることであります。そのためには、自分の罪を赦してくださって、神から愛されていることを信じることができるようになるために、キリストの救いが完全であることが必要であります。キリストが、悲しみにも苦しみにも、勝ってくださって、そのゆえに、キリストを信じる者が、どのような事情の中にも、神の恵みを信じることができるようになるのであります。その意味で、キリストが、すべてのものの中に満ちて、すべてのすべてになられるのであります」(竹森満佐一)。

4.キリストはこの地上にある時は、もちろん、それだけでなく、来るべき世においても、わたしたちに対して憐れみ深く働いておられることがわかる。わたしたちのこの世の人生は終わりに至るまで、この世の「生老病死」の労苦に満ちており、どこまでも不安に満ちている。しかし主イエスは、何を着ようか、何を食べようか、という言葉に代表される生の苦しみ、思い煩い、老い、様々な病い、人間の死に対して、いずれに対しても対応してくださった。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病のを患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を聞かされている(マタイ11・7以下)。福音の伝道者であった。それだけでなく、主は「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11・25)と宣言された。エフェソ2・4「憐み豊かな神はわたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に、天の王座に着かせてくださいました。」と語っている。

5.「あなたの生きるときも、死ぬときも、ただ一つの慰めは何ですか。それは、生きるときも死ぬときも、わたしたちの救い主、イエス・キリストのものであることであります」(ハイデルベルク信仰問答、問1)。詩篇34・6−7「主を仰ぎ見る人は光と輝き・・この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。味わい見よ。主の恵み深さを。」主はこの世だけでなく、来るべき世の支配者、救い主である。
 これから受ける聖餐はわたしたちの今、目にみえる、確かな神の恵みのしるしである。これこそ、「この世にあるすべてのものに勝る」(連合長老会式文)神の恵みの印である。