説教要旨 詩編51・3−14 ローマ3・1−8
2026.10.18
「神を真実とせよ」
今日の説教の結論は、ロマ3・3−4「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」
1.今日の3章の冒頭には、ユダヤ人の優れている点は何か、と問う。今日の主題はユダヤ人に向けられている。パウロは語る。いろいろ指摘できるが第一に、それは「神の言葉」が与えられた点にある。神の言葉は、律法(モーセ五書)をはじめとして、預言者、諸書といわれる聖書全体と言ってもいい。それは神からの語りかけであり、神の選び、神との契約の言葉、神の祝福と神の呪いの言葉も含んでいる全体である。特に2章にあったように、律法と神との契約のしるしである割礼が、ユダヤ人たちの誇りとするものであった。ところがユダヤ人たちはそれを誇っていたが、その律法の内実を守れていたか、というとそうではなかった。パウロ自身、ユダヤ教の中で律法に関しては最も厳格なファリサイ派に属し、ガマリエルの門下、生まれて8ケ目に割礼を受けたヘブライ人の中のヘブライ人、ベニヤミン族の出身、熱心さの点では誰よりもまさってキリスト教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者(フィリピ3・6)であった。このような肉の誇りに満ちて自信満々であったパウロが、迫害の息を弾ませてダマスコに向かっていた時、甦られたキリストに出会い、天からの天からの光に撃たれた。目が見えなくなり、キリストの弟子に手をひかれてダマスコに行き、アナニヤによって手が置かれ再び見えるようになった(使徒9、22,26章)。パウロ、当時はサウロは自分の手にしていた数々の誇りがはぎとられ、その傲慢な魂が神の下に打ち砕かれ、真実に神の前にひれ伏すものとなった。それがサウロの悔い改めであった。先週も見たように、すでに預言者エレミヤは「心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する」(エレミヤ9・25)「エルサレムよ、心の悪を洗い去って救われよ」(エレミヤ4・13)と言ってはいた。しかし、現実はエレミヤの言葉からはほど遠いものであった。
2.そこに主イエスが神から遣わされた。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』(イザヤ56・7)。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった(マタイ21・18)。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた。そしてこういわれた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、殺すことか、」彼らは黙っていた。そこでイエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元通りになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3・1−6)。マルコ福音書はすでにもうこの時から十字架へ道は始まっていたことを記している。これが当時のイスラエルを支配していた宗教的な雰囲気であった。
3.そこでユダヤ人に手によって、イエスが十字架につけられ殺されたことは歴史的事実となった。「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。ひとはすべて偽りものであるとしても、神は真実な方であるとすべき」である。イスラエルの民の不信、反逆、離反が行われて来た歴史であるが、神の契約が破棄されることはない。神はイスラエルの罪のゆえにイスラエルをバビロンに引き渡したが、時いたりイスラエルの罪を赦し、祖国に帰ることを許した。そこに「神の憐みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたはかたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」(ローマ2・4−5)。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(口語訳ローマ10・22)。神は預言者を通し、イスラエルの悔い改めを求めた。
パウロが人間の不信実によっても神の真実は断じて変わらないことを語り、十字架のイエスの恵みを強調すると、ユダヤ人たちから次のような皮肉な攻撃を受けた。それが5節人間の不義が神の義を明らかにするなら、7節人間の偽りが神の義を明らかにするなら、8節の「もしそうであれば、善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいる」。人間の不義、不真実、不誠実が、神の義を際立だせるなら、悪事を積極的にしようではないか、ということが起こってくることになりはしないか。そのような攻撃が実際にパウロにかけられた、と思われる。キリストの十字架の恵みを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つと聞くと、もう滅びることがないんだったら、どんな罪を犯してもよいのではないかとか、神の恵みが人の罪をゆるすなら、善いこと(恵み)をもっと表すために悪をしようと考える人も出てくる。しかしそう考える人は神の裁きを受けるのは当然だ。
4.「キリストの十字架がそんなに大切であるというなら、ユダの裏切りは絶対必要なことではなかったか。ユダがいなかったら、十字架はなくわれわれの救いもなかったはずである、という議論をしたがる人がいる。このことを考えたら分からなくなって信仰を捨てた人がいた。彼らは神のことを考えずに、人のことのみを考えている。ユダはなぜ罪を犯したのか。ユダにはユダなりの考えがあったことだろう。しかしキリストを裏切ってみて、罪はやはり罪で神の義を現わすなどとは到底考えることができなかった。彼は自分の罪を償い難いと思って自殺したのであろう。ユダの行為から神の業が生まれることはあり得ない。『善を来たらせるために悪をしようではないか』、これはその後、歴史の中にも事実として現れた。これはわれわれの心にさえ時として襲いかかろうとする悪魔の声である。全く恐ろしい虫のいい話である。自分の責任を捨てて神の責任にしようというのである。これは人の罪がどこまで〔深く〕落ちていくかをしみじみ感じさせることである。異邦人もユダヤ人も形は違っているが、神を離れ、しかも身勝手な行動や理由をつけてゆくことがよくわかるのである。問題は信仰を持っているかどうか。神の真実を信じ抜き、神の恵みを受ける用意があるかないかである。
『断じてそうではない』(口語訳6節)という言葉は、文字の通りに言えば、そういうことが起こらないように、あるいは起こっては大変である、ということで、そうあらせてはならないとでも訳すべきである。そうあってはならないという強烈な祈りがこもっている言い方である。パウロにとっても、どの信仰者にとってもただ一つの望み、それは「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方である」(4節)ということである。詩編51編はダビデが怖ろしい失敗をしたときの心境を歌ったものである。自分の罪を正直に認めることは難しいものである。いろいろと言い訳したいものである。しかし言い訳をしては解決にならない。神の正しさを恵みと知って、悔い改めるときにのみ、一切のことは正しく理解される。〔その時〕人は自己の罪深い姿を見出すことができるのである。」(竹森満佐一)。
わたしたちは今週も、キリストの十字架による罪の赦しの恵みを空しくしないように、神の真実にあずかり己の十字架を担って歩んでいこう。