説教要旨       箴言16章1−9節       ルカによる福音書16章14−18節                   2023.11.26
「神は心を知る」

 今日の説教の結論は、ルカ16・15「そこでイエスは言われた。あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存知である」。神はわたしたちの心をご存知である。これが今日の結論である。

1.ここにあなたがたの存在の根拠、人生の土台をここに置けと主イエス・キリストはいわれた。この言葉を主イエスが語られたのは、ファリサイ派の人々がその前に語られた主の話しの一部始終を聞いて、イエスをあざ笑ったからであった。「ファリサイ人」を修飾する言葉として、「金に執着する」ファリサイ派とある。「金を愛する」ファリサイ派、という訳もある。彼らがイエスをあざ笑った主な理由は、譬えとして、不正な管理人が登場していること。しかも、その管理人が主人に借金している者たちの借金の金額を主人の目をごまかすように書き換えたこと、更にその抜け目のないやり方がほめられた、とイエスが言ったことに反発した。またイエスが結論として最後に語った、13節「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」この言葉にも反発した。冒頭の「金に執着する」ファリサイ派であったからである。彼らは、富は神の祝福を受けているしるし、また律法を守る者にだけ与えられる恵みだと考えていた。富みに仕えることをよしとしていた。富は律法を守っていることへの神からの報酬と見ていた。
 「パリサイ人はこの世を愛する欲深き者、イエスは財宝を天に蓄える者。パリサイ人は固定した律法主義者、イエスは生命の躍動した信仰者。パリサイ人から見てイエスは実際的でなく、また常識的でなかった。イエスから見てパリサイ人は欲深き偽善者。両者は全く肌合いを異にした。それ故パリサイ人はイエスを嘲笑い、イエスを憎悪し、イエスに対して殺意を抱くに至ったのである」(矢内原忠雄)。

2.これに対して、主イエスは、この世の富は神を忘れさせ、天に宝を積むことを忘れさせることを警告した。だから、先のたとえ話で、この世の汚れに満ちた金を用いてでも、天に宝を積め、あるいはこの世を去るとき、神の国に迎えられるように行動した不正な管理者をほめたのであった。この世を愛する、金に執着するファリサイ人はこの点を理解できなかった。そこで主イエスは、ぐっと切り込んで「神はあなたがたの心を知っておられる」と言われた。今までも、主イエスは、すでにファリサイ人の心の中に何があるかを明らかにされていた。
 ルカ11・39「主は言われた。実にあなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。・・あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気がつかない」。同じようなことはマタイ福音書にもある。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。茨からぶどうが、アザミからイチジクが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ7・15−20)。「あなたたちは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23・27)。ここまで、徹底的に人間の内側を見通すことのできるお方はいない。これは神の子にして初めて言いうる言葉である。
 あなたがたは外側が白く美しく塗られた墓のようだ。その外観に対して内側は死者の骨と汚れに満ちている。あなたがたは、羊の衣を着た狼ではないか。良い木が良い実をむすぶのであって、悪い木が良い実を結ぶことはない。茨からぶどうが採れることはない。アザミからイチジクが採れることはない。あなたがたは、外側に羊の衣をまとい、内面は強欲と悪意という狼ではないか。それらを脱ぎ捨てよ。悪い木を切り倒して、良い木に接ぎ木されていかねばならない。そうすれば、良き実を結ぶことができるようになる。
 先週創立記念礼拝で、今泉先生を通して、ペトロの手紙(1)2章の説教を聞きました。その中で、わたしは「キリスト者は、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、・・霊の乳を慕い求めよ」との言葉の説明で、「捨て去って」とは、泥まみれの服を脱ぐ捨てることだと説明された。わたしたちは泥まみれの服を着たままで、新しくなることはできないのだ。本当にそうだ。泥まみれの服に代表される、人間の内側にある、悪意、偽り、偽善、ねたみ、貪欲、強欲、それらすべてを脱ぎ捨てることが、洗礼であり、それらを捨て去ってキリストという新しい良いぶどうの木に接ぎ木されていくこと、それがキリスト者である。ことを強く印象深く聞いた。
 絶えず古き人間の内面から湧き出てくるような、悪しき業を、一週間ごとに脱ぎすてて、新しいキリストという義の衣を与えられて、それを着ていく。ローマ13・14「ただ汝ら主イエス・キリストを衣(き)よ」(文語訳)。洗濯してきれいになれるようなものでない。真新しい衣が外から与えられて、着せられるように、キリストという義の衣を着よ。それが洗礼であり、信仰生活である。

3.更にキリストは言われた。律法と預言者は、ヨハネの時までである。「律法と預言者」とは旧約聖書全体をさし、旧約の時代は終わりを告げ、神の国の福音が告げられている。新しい新約の時代が到来した。神の国の福音が告げ知らされ、誰でもがその恵みの中に入ろうとしている。イエス・キリストはその福音の成就者としてこの世に神から遣わされた。神の国は今やイエス・キリストを通してあらゆる人々に開かれるものとなった。
 ルカ8章には、12年間長血を患った婦人は癒されたい一心から、後ろからイエスの衣の裾に触った。そのような仕方で、今や神の国がここに到来した。ルカ15章では、徴税人や罪人と当時言われていた追いやられ、軽蔑されていた人々が、イエス・キリストのまわりに集まり、見失われた羊のたとえ、見失った銀貨のたとえ、放蕩息子の帰還の、イエスのたとえ話を聞いている。いまや神の国がここに到来している。
 パリサイ人は常識的な道徳を守ることはできても、神の国に至らせる生命の命を与えることはできず、ただイエス・キリストを通して神の国は来たのである。
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1・17−18)。

4.わたしたちの心を知り、わたしたちの心を新しくされる創造の神、贖いの神イエス・キリストがこの世に来たのである。箴言16・2「人間の道は自分の目には清く見えるが、主はその精神を調べられる」。詩編139・23−24「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。ご覧ください。わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」。
エフェソ4・22「滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とを備えた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(口語訳)
 わたしたちはこのような神,イエス・キリストの御前に立ちつつ、神の恵みと憐れみに満たされて、今週も歩み続けよう。