説教要旨     哀歌3・28−33      エフェソ3・14−21                2026.1.18
「人知を越える愛」

今日の説教の結論はエフェソ3・18「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように」パウロは神の前にひざまずいてこう祈っている。

1.パウロは祈っている。1章15節以下でも「あなたがたの心の目を開いて神を深く知ることができるようにしてくださるように」「絶大な働きをなさる神の力を悟らせてくださるように」と祈っていた。しかしここでは、御父の前で「ひざまずいて」祈ります。と言っている。これはユダヤ人が通常立って祈っていたと比べてみると違っている。主イエスはゲッセマネでは地にひれ伏して祈ったとある。またパウロは使徒言行録20章で、エフェソの長老たちとの別れに際して、ミレトの海岸で「長老たちと一緒にひざまずいて祈った」とある。パウロは15節で、天と地にあるすべての統治者、支配者、森羅万象の創造者、所有者、ただ一人の実在者の御前でひざまずいて祈る、という。「あらゆるものの源なる父」(口語訳)の御前に、自らの無力さを全部さらけ出して、謙遜の限りを尽くして御父の力を請い求めている。パウロはこの世的に見れば能力もあり、優れた人物であったがキリストに出会ってからは、神の前に低くなって膝ざまづいて祈る謙遜な魂となっていった。パウロの祈りの姿をわれわれは真似て行かねばならないことを示される。われわれは本当に「膝まづいて」祈ったことがあるか。いや人間は苦難の中で、初めてそのような場に追い込まれる。外的な力に強制的に差し向けられる状況、自分から意図しない仕方でそのような状況へと投げ出される事がある。病気であれ、自然災害であれ、人間のトラブルであれ、そのような状況の中に巻き込まれていくことがある。その時、次の言葉を思い出したい。哀歌3・28「くびきを負わされたなら、黙して独り座っているがよい。塵に口をつけよ。打つ者に頬を向けよ。」そこに「ひざまずく」祈りがある。31節「主は決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない・・主の慈しみは深く、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」

2.ここではパウロは何を祈っているのか。16節どうか、御父がその豊かな栄光に従い、口語訳では「その栄光の富にしたがい」とあった。パウロは神の所有する無限の富を見ていた。神の栄光は神の恩恵(恵み)と真理(義)である。神のみ力によって、あなた方の「内なる人」を強くしてください。と祈っている。今日特に注目したいのは、この祈りである。しかしそれはパウロ自身の祈りの力ではない。内なる人を強める力は、神の霊、聖霊により、神の絶大な力である。その神の力をもって、内なる人を強くしてくださるようにとパウロは祈っている。内なる人、とは単なる人間の内面の精神力や人間の内にある心の状態ではない、イエス・キリストを信じる「信仰の人」を指す。パウロはコリント第二の手紙4章16節以下で、「だからわたしたちは、落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。わたしたちが見えるのは、外なる人のみであるのに対し、神は「内なる人」、神を畏れる心、神に従う信仰を見る。この世の目に見える状態は過ぎ去っていく。一時的なものである。これに対し、内なる人は見えないもの、神の永遠の栄光につながるものである。

3.この「内なる人」を強くするのが、17節「信仰によってキリストがあなたがたの心のうちに住む」ようになることをパウロは祈っている。信仰はこの世の目に見えることではない。信仰は、人間の目には見えないが、わたしたちの心の内に信仰を通してキリストが定住するようになることである。一時的な仮住まいのようにキリストが私たちの心に滞在した、というのでなく、わたしたちの生活全体の中心にキリストが一緒に住んでくださる。しかも、そのキリストは愛の御方である。ここでの愛は、アガペー、神の愛、人間の一時的な壊れやすい冷めやすい愛ではなく、人間の一方的な裏切り、神への背信、神からの逃走、破壊工作によって何度も何度も破られても、神の愛は変わることのない不動の愛、忍耐強い神の愛がわたしたちの魂の中心に根を張るように(植物の比喩)、わたしたちの人生という建物の土台、基礎を神の愛に置く(建築の比喩)ようになることを祈っている。わたしたちがまことの(完全な、完璧な、パーフェクト)ぶどうの木(ヨハネ15)であるキリストに接ぎ木され、根を張って成長するとき、必ず良い実を結ぶようになる。神の完全な土台の石の上に建てられた建物は、砂の上に建てられた建物とは違って、人生の危機に際し、揺れることがあっても倒壊しない(マタイ7・27)。わたしたちの人生も同じである。人間は若い時には感じないが、時間と共に衰えや弱りを実感するようになる。そこに「内なる人」が強めていただく必要が出てくる。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身をささげられた神の子に対する〔御子を信じる信仰によって生きているのである。口語訳〕信仰によるものです。」(ガラテヤ2・20)。これがパウロの信仰であった。

4.18節 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをすべての聖徒たちと共に理解するようにパウロは祈っている。@神の愛の広さは、福音がユダヤ人から異邦人にも伝えられたように、国境を超え、時代を超え、人種を超え、年齢を超えて、世界のいたるところに延びていく、それが神の愛の広がりである。また「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」(ルカ23)。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5)。寛容な、敵をも包んでいくような広い愛、これが神の愛である。A神の愛の長さとは、イスラエルの長い歴史の中で、神がじっと民の反逆に耐えて持続している忍耐の愛の時間的な長さがある。神はアダムを造って以来、神の戒めを破って罪を犯した時でさえ、「女のすえ」から(創世3・15)御子イエスをその家系に与えて、恵みの回復を約束し、遂に時いたって救いを実現された。その間、長い長い旧約聖書の時代があった。それは神の長い忍耐の時間であった。神は神の民を滅ぼすことなく、忍耐をもって導いてこられた。B神の愛は高さを持っている。それはイエス・キリストは死んで葬られ、甦り、栄光のうちに天に挙げられ神に右に座すに至った(エフェソ1・20−21)。それだけでなく、わたしたちをも「共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった」(2・6)。大祭司イエス・キリストの存在のゆえに「はばかることなく」「大胆に恵みの座に近づこうではないか」(ヘブライ4・16)C神の愛は人間の罪を深い海に投げ込まれた。「主は我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」(ミカ7・19)。イエス・キリストは「死と陰府(よみ)の鍵を持っている」(ヨハネ黙示録1・18)。 すべては人知を超える神の愛、キリストの愛である。「キリストを有する者は一切を有する(満たされる)」(カルヴァン)。
今週もこの主イエス・キリストと共に、与えられた使命に向かって取り組んでいこう。