説教要旨     エゼキエル33・10−11節      1ペトロ1・10−12                             2025.3.16
「ひとりの滅びをも」

今日の説教の結論は、1・12の最後の一文である。12節の後半に次のようにある。「聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」

1.それは何かと言いますと、10節では「この救い」、その前の9節で、「あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けている。」この救いこそ、天使たちが見て確かめたいと願っていたものである。それは10節で「あなたがたに与えられている恵み」とあり、12節では「福音」と言い換えられている。ですから、わたしたちに与えられた救い、わたしたちへの恵み、わたしたちが信じている福音、いずれも同じことを言い換えているといえる。この手紙を受け取っている小さな信仰者の群れ、彼らは故郷を喪失し、各地に離散し、仮住まいをしている人々である。そのような心細く感じてる信仰者たちの、その信仰そのものをペトロは手紙を書いて励ましている。だから強調されているのは「あなたがた」という言葉が12節でも、くどいように繰り返されている。12節では「福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今あなたがたに告げ知らせて」いる、その福音を説明している。ここにある、「告げ知らせる」とあるが、ただ用件を伝えるという言葉ではない。、「福音を告げ知らせる」という、福音という文字が入っている特別な言葉である。福音伝道者が語ったイエス・キリストの福音は、天から(神から)遣わされた聖霊によって、ここには、神、イエス・キリスト、聖霊の深いつながりがある。そのような働きによってもたらされた福音を、天使たちも見て確かめたい、口語訳では「うかがいみたい」と思っていたものである。天使は神に仕えている存在ですので、何も不自由なものはないと思うのですが、その御使いがうかがいみたい、ひたすら知りたいと願っていたものである。首を前に突き出してのぞき込んで、見たと願ったものである。

2.なぜここで、天使について言及されたのだろうか。ヘブライ書2・14以下に次のような言葉がある。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。」天使は肉と血という肉体を持っていない存在である。イエス・キリストがこの世に来られたのは、そのような天使たちを助けるためではなく、死の恐怖のために震えているような、あるいはこの手紙を受け取っている、故郷喪失者のように不安な日々を送っている肉体を持った人々、そのような人間を助けるために、イエス・キリストはこの世に来られたのだ。罪とその悲惨さを抱え込んでいる人間、そのような人間と同じ姿になって、主イエス・キリストは、その罪と死を背負う大祭司となってくださった。ヘブライ書は続けて、「イエスは神の御前に憐れみ深い忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2・17−18)。

3.ペトロは徹底的に肉の弱さを体験した人間でした。「今日鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」と予告された。しかし主イエスは、その前に、最後の晩餐の直後、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った(口語訳)。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・31−32)と語っていた。肉と血を備えた人間はなんと弱い者だろう。しかしそのような弱さの中で、人間は、つまずき、時に後悔の涙を流し、倒れる。そのような人間に対して、キリストは「あなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈った」。この赦しの福音を本当に語り、語るだけでなく、罪の贖いの十字架を担い、自らの命をささげてくださった。これがあなたがたに伝えられている福音である。この福音の恵みは、聖霊の導きなしに受け入れることはできない。ペトロはただ弱さを嘆いたのではない。キリストの祈りを聖霊の力によって真実に受け入れたとき、キリストの恵みがペトロの中に流れ込んでいった。弱さと滅ぶべき肉と血を持っていない天使には分からない福音であったのだ、とペトロは語る。

4.9−10節で、信仰の実り、信仰の究極の目標は、人間存在を根底から救う恵みであることを書いている。この救いの恵みは、すでに旧約の預言者たちによって、考えられ、探求され、言葉をもって書き記されてきたと言って、特に預言者に言及している。預言者の言葉から二つだけを取り出してみたい。ひとつは、@イザヤ書61・1「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕らえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、とらわれた人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」とある。イエス・キリストはナザレの会堂で安息日に聖書を朗読しようとお立ちになり、イザヤの巻物がわたされ、この聖書の箇所を読み、こう語った。「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」(ルカ7・1−21)。ここには神の油注ぎ(神の霊、聖霊)を受け、神の御業をおこなわれるイエス・キリストがいる。そのひとつに生まれつき目の見えない人を癒やされた事件がある。ヨハネ福音書9章。人々は言った。こうなったのは、誰が罪を犯したのか。両親か、それとも本人か。イエスは当時考えられていたこの問いをきっぱりと否定された。本人が罪を犯したのでもない。両親が罪を犯したからでもない。ただ神の栄光が現されるためである。そう言って、地面につばをし、つばで土をこねて、その目に塗り、シロアムの池に行って洗うよう命じた。その通りにすると、癒やされた。病気は罪の結果であるとする、当時の考え方を打ち破る革命的なものであった。見えないことの不自由さ、その苦難に対する憐れみ、と同時に、この盲人の魂の苦しみ、自分を責め、両親を恨み、社会を呪う、そのような魂の苦しみからの解放の宣言がなされた。その日は安息日であった。そのために、主イエスは次第にユダヤ人たちから憎まれ、ついに十字架において抹殺されることになった。イエス・キリストはただ肉体の医者であっただけではなく、魂の解放者として、この盲人の負ってきたすべての重荷と苦しみをご自分の上に担われた。「すべて重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)。Aイザヤ53・11−12「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それ故、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。多くの人の過ちを担い、背いた者のために、執り成しをしたのはこの人であった。」大祭司として 「キリストは雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた。」(ヘブライ9・12)。キリストの十字架の出来事、その苦難と復活の栄光が示されている。ここにイエス・キリストを信じる信仰の救い、恵み、福音がある。エゼキエル33・11「どうしてお前たちは死んで良いだろうか。」神はすべを用意して、人間の神への立ち返り待っておられる。讃美歌517。