説教要旨 詩編47・2−10
ローマ1・1−7
2026.8.2
「信仰による従順」
今日の説教の結論は、4節「すべての異邦人を信仰による従順へと導くために」。
1.著者パウロは、はじめに「神の福音」を語った。次になぜ「御子イエス・キリストの福音」が必要であるかを語った。そして今日のところでは、その福音はわれわれを「信仰の従順」に導くためであったという。今朝はこの点に特に注目していきたい。
今まで、異邦人は、この世界に神の福音、神からの良き知らせ、情報があることを全く知らなかった。この世には嬉しい、楽しいことだけでなく、苦難もある。またどんな人でも、能力や身体的に不完全な人も、ひとり一人、神の御前に存在意義、価値が与えられていることを神は聖書を通して語っている。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。〔あなたが〕水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしの目に、あなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの身代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43・1−5)。水、大水、火の炎、それらは人生の苦難の象徴である。そのような中を潜り抜けねばならないときにも、「あなたはわたしのもの」「わたしはあなたを贖い救い出す」「あなたと、わたしは共にいる」と語る。讃美歌#520に「大空は巻き去られて、地はくづるるとき、罪の子らはさわぐとも、神による御民は、心安し、神よりて安し」。今そのようなただ中を過ごして病いと戦っておられる友もいる。そういう中で、イエス・キリストを信じるとき、詩編47編は現実のものとなっていく。
詩編47・1「すべての民よ、神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、全地に君臨される偉大な王。歌え、神に向かって歌え。歌え。我らの主に向かって歌え。神は、全地の王、ほめ歌を歌って、告げ知らせよ。神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる。」ここには信仰の従順が明らかにされている。これがわれわれの礼拝の恵みである。
2.パウロは、その恵みを、5節で「この方〔イエス・キリスト〕により、信仰の従順へと導かれていく」と語っている。神の恵みを人間の側が受け止めていくとき、そこにわれわれ人間の側に「信仰」が形作られていく。その信仰は人間の側の思い込みや、信じる人間の信仰心や、信心深さによるのではない。それに続く6節は「イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた」とある。7節もローマの教会の信徒たちに対して、「神に愛され、神に召されて聖なる者となったローマの教会の一同の方々」とある。神に愛されている者たち、そして自分たちに語られた神の言葉を、本当に自分に語られたと信じ、受け入れるところ、そこに信仰の従順がある。パウロは1節でも、自分を「召されて使徒となった」と語る。決定的なことは、神からの語りかけであり、キリストの言葉である。 今日皆さんは礼拝に来来ることができた。今日聖書の言葉が読まれ、わたしたちはそれを聞いている。この礼拝、今日の聖書の言葉、それは神御自身からわたし自身に対する呼びかけの言葉だと受け止めるところ、そのとき、その人の中に「信仰」が形造られていく。礼拝に来ても、その聖書の言葉を自分への神の語りかけ、として受け止めなければ、神の言葉は空を切るような者、空しいものでしかない。反対に、今日の聖書の言葉、たとえ人生の火の中を、水の中に今あったとしても、「恐れるな。炎はあなたに燃え付かない。大水はあなたを着かない。押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしの目に、あなたは価高く、尊い、その言葉を自分に語られた言葉として信じ、自分の心の中に受け入れていくとき、その言葉はその人の中で、必ず、花開いて、実を結んでいく。
3.キリストはたとえで語った。王子の婚宴に、招待状を持って招いたが、畑や商売で婚宴に来なかった人がいた。その最後にこう言った。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。(マタイ22)。ユダヤ人たちは福音に招かれていた。しかしそれに応じた人は少なかった。やはり、人間の側で拒否した人がいたということである。神の召しに応じていく。そこに信仰の従順がある。次の言葉を聞いていかなければならない。
「信仰は決して人が自分のものとして持っているものではなく、いつも新しく求めるべき、キリストによって与えられる恵みである」(ワルケンホースト)。「信仰の従順は決して人の自力によって行った業でも、また人が神の御前に誇るものでもない。「主にあって」「恵みにあって」「キリストにあって」、「キリストに結ばれて」がこの信仰の従順の基礎である。(同上)。礼拝は、神に愛され、神の召し、神の呼びかけに従順に応じていく業である。ローマ10・17「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」毎週新しく神の言葉を通して、新しく信仰をもとめていく。
その時、信仰はキリストの恵みによって与えられる。
4.「信仰の従順とは、どういうことでありましょうか。まず我々は、信仰がなければ神に対して従順にはなりえないことを知らねばなりません。われわれはどんなに努力してみても、神のお喜びになるように従順にはなりえない。その従順を果たされたのが、実にキリストであったのです。したがって、われわれの、神に対する従順は、今は、実にキリストにある、といえる。神に従順になろうとする者は、そのキリストを受け入れるほかありません。信仰者はその従順がキリストにおいて成就されていることを知っているのであります。」(竹森満佐一)これを裏付ける聖書はヘブライ5・8−9「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源とな」つた。わたしたちは、信仰の完全な従順を成し遂げてくださったキリストという模範、神はそのような神の御子をわたしたちにお与えになった。ヘブライ12・1−2「こういうわけで、わたしたちもまた、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬこうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」ここには、人生の歩みの中で、時に困難に出会い、神への従順どころか、神への反抗を繰り返すようなわれわれの存在に対しての神の深い愛が示されている。
「分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものを近づけるな。神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び踊れ。全て心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(詩篇32・9ー11)。
新しいこの週この世の困難、試練の中で、なおキリストを信じ、キリストに従い、キリストを信じる信仰の従順に生き、不安といら立ち、悩み苦しみから解放されて、キリストにある平安と神のいつくしみを讃美するものとして生きるものでありたい。