説教要旨         詩編49・6−12         ローマ1・16−17                     2026.9.6
「信仰による義人」

今日の説教の結論は、1・17の「正しいものは信仰によって生きる」。かつての口語訳聖書は「信仰による義人は生きる」と訳していた。「義人は信仰によって生きる」でもいい。ある訳は「信仰によって義とされた義人は、信仰によって生きる」(榊原康夫)と、信仰を強調して訳している。

1.今日のところは「信仰」ということを明確にしている。日本語では、信じて仰ぐと書くので、人間の側の心の状態、信心深いという意味に理解されやすい。しかし、「信仰」は「真実」という言葉であり、人間の側の信心深さではなく、神の真実を受けとめることである。神の真実は、神の義と言い換えられいる。「神の義は福音の中に啓示された」(17節)。その「神の義」を受け止め、その神の義に生きることが、聖書の「信仰」である。
 「神の義」という言葉には、3つほどの意味がある。@イスラエルをエジプトから救出した神の救い、神の勝利を語るとき、「神の義」と表現されている。「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く」(イザヤ51・5)。神の救い、神の勝利を「神の義」と聖書では言っている。縦の関係。A隣人との関係においても「神の義」が語られる。あなたは隣人に対して神の義を示さなければならない。言い換えれば、隣人に対して不正を行ってはならない、憐みを示さなければならない。「主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6・8)。横の関係。B自分の魂に神を迎え神によって傲慢が打ち砕かれ、神によって義と宣言されること。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。・・すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこに何の差別のありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3・20−24)。日本語の「義」には、正義の意味も含蓄されている。18節には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現される」とある。神の義には、神の救い、神の勝利、神の裁き、神による義の宣告、全てが含まれている。この神と共に歩んでいく。その総体が、「信仰」者の歩みである。

2.われわれの神礼拝は、この神の絶対主権の前に、神の御顔の前に立つ時である。神の絶対主権に服する態度こそ、「信仰」と呼ばれるものである。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ6・8)である。「主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」(イザヤ66・2)。
 プロテスタントの信仰、宗教改革の信仰の根本はここにある。この聖書から始まった。マルチンルターが、この聖書の箇所「神の義はその福音のなかに啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。信仰による義人は生きると書いてある通りである」(1・17口語訳)。この小さな聖書の一節が、その後の教会の歩みを大きく変えていった。わたしたちはこの聖書の御言葉を受け入れ、これを心から信じ、神の御心を理解し、この信仰によって生きるものとなっていく。この信仰こそ、わたしたちの教会の、根底にあるもの、根本にあるものである。

3.17節「神の義は、その福音の中に啓示され」。「パウロはここで、現在形の動詞を使って、この事情を説明しようとしている。キリストはすでに十字架につけられ、神の義はすでに現されているのである。今も、継続している。したがって、まだ完全には啓示されていないというのではない。神の義は完全に現されたのである。それならば、ここで何を言おうとするのだろうか。福音の中に啓示されているということは、ただ福音の中に書いてあるということではない。福音というのは福音書という書物のことではない。福音の中に、ということは福音が語られた時にということである。福音が宣べ伝えられた時、すなわち、説教がなされた時に、そこに神の義が事実として啓示される。福音が語られる時に、聞く人に事実となって啓示されているのである、ということである」(竹森満佐一)。これは言い換えれば、この礼拝の場において、本当に自らのあり方を顧みて、打ち砕かれて、福音を信じる、すなわちキリストいう義の衣を着る以外にない、といって、その恵みを受けてキリストという真実の新しい義の衣を着る。それが礼拝である。礼拝という時と場所が大事なことがわかる。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10・17)。
 キリストの御業によって何が行われたのか。神の御前にわれわれを義とする出来事が起った。詩編49・8「わたしを追う者の悪意に取り囲まれる時も、財宝を頼みとし、富の力を誇る者の力も、神の前にわたしたちを贖い出すことはできない。「神に対して人は兄弟を贖いえない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない」。
 キリストの福音だけが、神の前にわれわれを義とすことのできるただ一つの御業である。この福音を伝えていく。それが教会の伝道である。しかしここで、注目したいことは、キリスト御自身が福音伝道の主体であったということである。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつもの通り安息日に会堂に入り、聖書を朗読して、イザヤの巻物が渡され、「主の霊がわたしの上におられる。貧し人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」(イザヤ61・1−2)。イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。そこでイエスは、この聖書の言葉は今日、あなた方が耳にしたとき、実現した。パウロはひたすらこの「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」(ローマ1・1)に過ぎない。わたしたちの教会は、このキリスト伝道のスピリットを取り戻して行かねばならない。讃美歌247#2「わが飼い主、主イエス君は岩山、荒れ野を洩れずたずね飢えつかれし小羊をば、いたわり抱きて帰りたもう。」

4.信仰による義人は生きる。信仰は知的承認で終わってしまうことではない。この信仰による義人として生きよ、と命じられている。この言葉は旧約聖書の預言者ハバククの言葉である。ハバククは、バビロン捕囚に関わる不安定な政治状況の中で、正しいものが苦しめられのはなぜか、カルデア人が狂暴をほしいままにしているのどういうわけか。「彼らは恐ろしく、すさまじい。彼の馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早くその騎兵は飛び跳ねる。騎兵は遠くからきて、獲物に襲い掛かる鷲のように飛ぶ。・・彼らは風のように来て、過ぎ去る。」「彼らは諸国民を殺すために剣を抜いてもよいのでしょうか」(1章)。これに対して神がハバククに答えた言葉が、「主はわたしに答えて言われた。まぼろしを書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと示せ。たとえ遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし義人は(口語訳)信仰によって生きる。」(2章)。バビロンの横暴はやがて必ず衰え崩れる運命にある。「神の義を信じて、生きよ」。生きるとは、神によって義とされ、救われ神による命を生きる事である。パウロはこの言葉を旧約全体を示す神に対する信頼の言葉として引用した。キリストの福音を信じる者はどんな時代をも神の救い、神の勝利、神によって義と宣告されて生きる。今週もこの信仰の道を歩もう。