説教要旨    イザヤ42章1−4節     ローマ1章8−12節             2026.8.16
「信仰による励まし」

今日の説教の結論は、12節「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。

1.パウロはまだ行ったことのないローマの教会を訪ねたいという願いをもっていた。パウロはこの手紙をコリントにいたときに書いたといわれる。その時から、ローマ帝国の首都ローマを拠点にして、スペイン(イスパニア)まで伝道したいと願っていた。この手紙の終わりの方(15・22以下)でこう書いている。「何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなた方に会い、まず、しばらくの間でも。あなた方と共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。・・どうかわたしのために祈ってください」。ローマの教会に対して、パウロは自分の計画を語り、祈ってほしいと願っている。福音宣教はパウロの個人的趣味ではない。神の御心から出てきた神の御業である。自分はそれに仕える僕であると自覚していた。またパウロは祈りの人であった。8節「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します」とある。
「まず第一に」(口語訳)とあるが、これは、第二、第三があるという意味ではない。「これは順番をいうものではない。むしろ『何よりも先に』ということである」(ワルケンホースト)。パウロが何よりも先に挙げたことは、「あなたがた」ローマの教会の存在そのものに対する、神への感謝であった。いいかえれば、神の力は、伝道の未開の地ローマにいるあなたがたにも働いていることを真っ先に神に感謝している。神の偉大な恵みは人間の業に先行している。その驚きと恵みを感謝している。「感謝」という、元の言葉には「恵み」(神の恵み)という言葉が入っている。つまりイエス・キリストを通してあなたがたに伝えられた神の恵みが与えられていることを感謝する。フィリピの信徒への手紙でも「わたしは、あなたがたのことを思い起こすたびに、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(フィリピ1・3)とある。

2.連合長老会の聖餐式の式文には「聖餐の恵みは『すべてに勝る恵みである』とある。わたしたちの人生には数々の神からの恵みがある。しかし、聖餐式で示されるキリストのパンと杯の恵みは、それらすべてに勝る恵みである、という。たとえいま困窮に陥っていても、牢獄に入れられていても、病で苦しんでいても、ここにはそれらすべてに勝る恵みがある。水木しげるという戦争で左腕を失って日本に帰り、戦後漫画家として93歳まで生きた方がいた。「戦争で片腕を失っても絶望なんてしなかった。だって生きてるんだから」。「目に見えない世界を信じることが大切だ」といった。こういう世俗の人から教えられる。逆に信仰に光が当てられる。今与えられている恵みを見よ。見えない世界を見よ。
 パウロは8節(フィリピ1・3)で「わたしの神」に感謝すると書いている。「これはよそよそしい気持ちや、ただ生真面目な態度でできることではない。神に対する深い、濃(こま)やかな気持ちがある。恵みを知った者は、神に対して疎遠ではありえない。キリストの救いにあずかった者にとっては、神はまさにわたしの父だからである。恵みを知れば、一挙にいっさいの妨げが除かれて、神に対する親しさを感ずるのである。それが感謝の基礎になる。」「パウロにとっては、ローマのような町に、教会があることそれ自体が、あふれる感謝に値することであった。なぜなら教会というものができていることが、神に感謝すべき驚くべき事なのである。なぜなら神の御力によることなしには、どんな小さな教会もできることはないからである。われわれの所属する、小さな教会についても言えることであるはずである。それを心から感謝していないとすれば、われわれは教会が何であるかを、まだよく理解できていないのだといわれても弁解できないのではないか」(竹森満佐一)。どんなに遠く離れていても、神はわれわれをキリスト・イエスの執り成しによって神とわれわれを結び付けてくださる。それが祈りである。祈りができることは、アバ父よと呼ぶ御子の霊を与えられているからである(ローマ8・15)。これほど感謝なことはない。

3.神に対する感謝は、われわれの内に希望や願いを引き起こす。パウロはたとえ相手が遠く離れていても、また願いがすぐに実現されなくても、祈り續ける大切さ、神の力を知っていた。9ー10節「わたしは祈る時には、いつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなた方のところへ行ける機会があるように、願っています。」神の御心は人間の目には隠されている。しかし、神を信じる「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5・5)。事実パウロの願いも「何回も企てながら、今日まで妨げられて」(ローマ1・13)きたとある。それでもパウロは祈ることを止めなかった。次の聖句がそれを示している。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ローマ12・12)。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5・16−18)。「わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ってほしい」(1テモテ2・8)。
 祈りをやめてしまった労働は、呪いに終わる(ボンヘッファー)。今日、日本社会で、過労死、自殺。労働が人間を死に追いやっている現実がある。神への祈りは、安息日(神礼拝を)守ることである。神礼拝は人間に、神による安心と深く息をつく平安の恵みが与えられる、これが主の日の礼拝の恵みであり、そこから希望が生まれてくる。

4.次にパウロは信仰の交わりを願った。12節「あなた方のところで、互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」信仰は神からの賜物である。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2・8)。信仰はお金で買うことができない、勉強してわかるものでもない。ただ神の救いの御業を受け入れる信仰の従順の心が求められるだけである。神は信仰に生きる者たちに神の霊の様々な恵みを与えておられる。ある人には語る賜物、病気をいやす賜物、奇跡をおこなう力、など、それらの賜物を受け取り、また逆に与えるという行為を通して、信仰の慰め励ましが与えられる。人生に困難が必ずある。そのようなとき、他人の経験を聞くとき、必ず救われる。互いの信仰の消息を語り合うことによって、信仰が励まされる。長老が月1回、奨励していますので、出席してください。
 「信仰者の交わりということがよく言われますが、ただ何とか親しくなろうということばかり考えて、お互いの霊の賜物を分け合うことには、一向に興味のない信仰者の交わりが、なんと多いことでありましょうか。そんな交わりはパウロやローマ教会の人々には関係ないことでありました。信仰者の地上の生活は旅人の生活である。地上には永遠の都がないことを知り、神の国に向かっての旅を一緒にしているのである。先になる者も、遅れる者も、しかしみんなで励ましあっていく旅である。足の弱い者は励まして連れていく。この旅では足の強いものも、足の弱い人から励まされる。不思議な旅である。」(同上)
312「いつくしみ深き、友なるイエスは、世の友われらを棄て去る時も、祈りに答えていたわりたまわん」主イエス・キリストは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなった灯心を消すことなく」(イザヤ42・3)今もわれらの旅を励ましてくださっている。