説教要旨     創世記15・1−6      エフェソ6・16                  2026.6.7
「信仰の盾」

今日の説教の結論は、6・16「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をけすことができるのです」。「信仰の盾」という言葉に注目していきたい。

1.この世の闇の主権者や悪魔の策略に対抗するために、神の武具を身につけよといって、7つほどの武具をあげた。その武具はいずれも比喩的なもの。真理という帯を締めよ、正義という胸当てを当てよ、平和の福音伝えていく備えを足をはけ。さらにその上に、今日のところでは「信仰の盾をとりなさい。」盾は飛んでくる槍(やり)剣や矢を受け止める武具で、大きなものから小さなものまであったが、ここではローマの兵士の全身が隠れるような大盾を意味する言葉が使われている。元々は扉を閉めておくために据える大きな石を表した。手で持ちまわる小盾でなく、ここでは地面に立てるほどの大盾である。木製の板の上に、カンバスと獣の皮をはいだ獣皮を張っていた。そうすると、火の矢をかけられても、その火が木製部分に引火することがない。相手から撃ち込まれる鉄の穂先は長さ90センチもあり、人体と武装の全てを貫通できる能力を持っていた。貫通できない場合でも、麻屑と樹脂を塗られた穂先は、投げる前に点火され、それが大気中を飛ぶ間に火の焔となって、武具を落とさせてしまう威力を持っていた。そのような力に対抗するのが大盾であった。
 もちろんこれは比喩的な表現であり、聖書では詩編91・3以下に「神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも、昼、飛んでくる矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに1千の人、あなたの右に1万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。・・あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。あなたには災難も降りかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。」

2.神こそがわたしたちの大盾となってくださる。わたしたちの人生には、思いがけない方角から、いろいろな火の矢が飛んでくる。16節を「あなたを標的とした燃える火の矢を消し止める大盾のような、そういう信仰があなたには必要です。」(リビングバイブル)。
あなた自身を標的とし、あなた自身を目がけて、悪魔は燃える火の矢を放ってくるのだ。しかも思いがけない時に、思いがけない方向からその火の矢が放たれてくる。その火矢は、わたしたちの持っている武具も失わせ、そのままでいるならわたしたちを死に至らしめるものだ。人生そのものを焼き尽くし、全てを無に帰してしまうことが起こってくる。火は全てを焼き尽くす地獄の火である。火炎放射器が搭載されたような矢がわれわれに向かって放たれ、悲惨な現実に、虚無の中にわれわれを引きずり込んでいく。時に死に至らしめる。そのような力を悪魔は持っている。それが悪魔の放つ火の矢である。
 この社会の中には、様々な悲惨な現実が存在している。一例として、正しい調べや裁判が行われなかったために、罪なき人が人生の大半を牢獄で過ごさねばならなかったような冤罪事件がある。酔っ払い運転の死亡事故は、一瞬にして幸福な家庭に悲劇をもたらし、大切な家族を崩壊させる。人間の一時の怒りの爆発が理性を失わせ、殺人事件が起こっている。大量の殺人が戦争の名によって正当化されその責任は問われないで終わっている。これがわたしたちの社会の現実に存在している。あまりにもわれわれは、無防備であるのではないか。今日の聖書は、「悪魔の火矢を消すことのできるのは信仰の盾しかない」というのである。

3.ハイデルベルク信仰問答、問2「それならば、あなたがこの慰めの中に、祝福されて生きまた死ぬことができるためには、あなたはいくつのことを知らねばならないのですか」「答 三つのことです。第一はわたしの罪とわたしの悲惨とが、どんなに大きいかということ。第二はわたしがどのようにしてわたしの罪と悲惨さから救われるかということ。第三は、わたしがこの救いに対して、神に感謝すべきかということであります」。特に第二
の罪とその悲惨の現実を知れ、と言っている点に注目したい。悪魔はわれわれの社会にこれでもか、これでもかといった具合に火の矢を投げ込んでくる。聖書は悲惨な現実の奥に神に背く人間の中にあるどす黒い罪の現実がある。神から離れた人間は、殺人でも平気で行っていく存在となっていったと創世記に記されている。カインとアベルの兄弟殺人事件である。神から離反した人間の罪とその結果がもたらす悲劇がすでに聖書にしるされている。「ああ、わたしは何という惨めな人間なのだろう。誰がこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7・24)。悪魔が放つ火の矢を消し止めることはできるのだろうか。聖書はできると答えている。この救い主の存在を知らなければ、われわれは罪と悲惨の中に押しつぶされ、滅びしかないものとなってしまう。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6・23)。罪がもたらす、悲惨な現実。それは死の事実である。「しかし」と聖書は續ける。「しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」(ローマ6・23)。

4.主イエス・キリストを信じる信仰、その「信仰の盾をとりなさい」と言っている。なぜ「信仰の盾」というのか。それは、ひとり一人、人生において戦っている問題は違うからである。ひとり一人がイエス・キリストを信じる信仰に立ったとき、ひとり一人に振りかかっている悪魔の火矢を打ち砕くことができるからである。
 「われわれは自分は信仰が弱いといって嘆くのであります。確かに自分の信じ方が強いとか弱いとかいうこともありましょう。しかしそれよりも大切なことがあります。それは信仰の強さは、われわれの信じ方にあるのではなくて、われわれが信じているもの、すなわち主イエス・キリスト、神にあるということです。信仰が強いというのは、主イエス・キリストこそ力であり、神こそ力である、ということを信じていることである。力はいつでもわれわれにはなくて、神にあるということである。それを信じている時には、強いということである。同時にその時にはわれわれは自分が弱いことも一緒に信じている。」「信仰の力とは、信じることの力ではない。われわれの信仰は、ただ信仰によって救われるということである。しかしその信仰は、何か魔力を持っているということではない。力は信じることにあるのではなく、何を信じるかということにある。宗教改革はただ信仰による、ということで始まった。しかしその場合、ただ信仰によるとは、われわれの業によらないで、ただ信じることによる。ただ恵みによる、ただ聖書によると言われる。だからただ信仰による、というのは、信仰というものの力というのではなくて、むしろ恵みによる、聖書によることを信じることである。その力は、信じる力にあるのではなくて、神の御業にある。」(竹森満佐一)。したがって、信仰は空洞である、とも表現されるようになった。神の前に自分を空にして、謙遜になり神の守りと支えと慈しみを信じて受けていく。

5.アブラハムは、まだアブラムと呼んでいた時、神から約束の言葉が語られた。それは「恐れるなアブラムよ、わたしはあなたの盾である。」(創世記15・1)神は、信仰が盾であるといわないで、「わたしがあなたの盾である」といわれた。わたしたちは、神ご自身が盾であり、神ご自身の下に、死ではなく命が、呪いではなく祝福が、疫病からの守りがあり、大蛇を足の下に踏みつけ、そのような火を消して越えていくことができる。