説教要旨   イザヤ53・1−5       ルカ18・31−34          2024.4.21
「主イエスの道」
  
今日の説教の結論は、ルカ18・34「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」。彼らとは12人の弟子たちであった。

1.主イエスは十二弟子たちを特に呼び寄せた。御自分の心に深く決心していたことを告げるためであった。マルコ福音書には「その事をはっきりと教え始められた」。口語訳聖書では「あからさまに話された」とある。イエスが語った内容は、わたしたちはエルサレムに上っていくが、預言者たちが人の子について書いたことはすべて実現する。異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、人の子を鞭打ってから殺す。そして人の子は三日目に復活する。という内容であった。これに対する弟子たちの反応がそれぞれの福音書に記されている。マタイとマルコ福音書では、弟子の中のヤコブとヨハネがあなたが御国の王座に着かれるときに、ひとりをあなたの右に、もうひとりをあなたの左に座らせてください、といった。他の弟子たちは、二人のことで腹をたてた。主イエスの語ったことを全く意に介していないような反応だった。主イエスは言われた。あなたがたは何を求めるか分かっていない。弟子たちは主イエスの言われたことを何も理解できなかった。これに対して、ルカ福音書は34節で「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」とある。ルカ福音書の9章でもすでに同じことがあった(9・44−45)。

2.ルカ福音書でこの問題に最終的解決が与えられたのは、一番最後の24章で、甦りのキリストが弟子たちに聖書を解き明かしたときであった。24・46「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。」これはエマオに向かう二人の弟子たちに対してもなされた。エマオの二人の弟子たちだけでなく、甦りのキリストは他の弟子たちにも、律法、預言者、詩編(聖書全体を指す)に御自分について書かれていることを説明した(24・44、27も参照)。45節に弟子たちの「心の目を開いた」とある。主イエスは弟子たちの心の目にかかっていた覆いを取り除いた。心に幕が霧のようにかかっていた。彼らの心を占領していたのは御国での地位であった。その思いが大きくて、それがキリストの言葉を理解できないようにしていた。神を見ること、神の救いの御業を見ることを覆い隠していた。弟子たちは主イエスのの御業を本当には見ていなかった。わたしたちも同じではないか。この世の心配事が心を占領してしまっている時、神が見えなくなってしまう。心に覆いが掛けられ、心の目がふさがれてしまう。キリストの救いの御業が見えなくなっていた。キリストは聖書を丹念に順番に解き明かされた。ここでイザヤ書53章も読まれたに違いない。「見るべき面影はなく、好ましい容姿もない」「わたしたちは思っていた、神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだ」(イザヤ53・2,4)。

3.キリストの語った内容は、主イエスの十字架と復活という言葉に集約されるが、その内容は何であるかをわたしたちは知っていなければならない。
(1)十字架刑は痛みと苦しみ、そのものであった。「十字架の死の恐ろしさは言語に絶するものがあった。それをよく知っていたキケロ(紀元前1世紀のローマの政治家、哲学者)は言う。一切の刑罪中最も残酷にして恥ずべきものだった。ローマ市民の体に近づけてはならない。彼の思いにも目にも耳にも近づけてはならない。それは大罪を犯したや奴隷や反逆者に対する刑罰であった。生きた人間をそんな位置に吊すなどという忌まわしいことがあろうか。受刑者は手足に食い込んだ釘の燃えるような痛みと充血した血管の苦しみ、(心臓破裂とか、内臓が下がっていく)、それに最も恐ろしいことには、絶えず激化する絶えがたい渇き、こういう苦痛を受けながら2,3日は生き延びて、最後は絶命する」(『キリスト伝』J.ストーカー)。しかし肉体的苦しみだけならば、両隣の犯罪人も同じ刑を受けていた。いみじくも犯罪人の一人が言ったように、我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしたのではない(ルカ23・41)。そこに主イエスの魂の苦しみがあった。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニわが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)。イザヤ書53・3「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの人の痛みを負い、病を知っている」とある。主イエスは人間が人生において受ける数限りない肉体的、精神的痛みと苦しみ、魂の苦闘の数々に対する深い同情を持っておられた。ゆえに多くの病に苦しむ人々を癒されたのであった。「イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし」(ルカ7・21)。最後には主イエス御自身が十字架の痛みと苦しみを味わい尽くされた。苦しみの杯を飲み干された。わたしたちにも人生の苦しみがある。しかし主イエスが飲み干された痛み苦しみの大杯の中にわたしたちの苦しみも入っている。フランスのコルマールでグリューネバルトの「キリストの十字架」の絵を見学したことがあった。今は美術館に置かれているこの絵は昔は修道院の祭壇画であった。その修道院は疫病患者の世話をしていた。祭壇画の十字架のイエスは患者と同じ皮膚症状をしている。そこに多くの病人たちが見に来る。それは治療のためであったとの解説を聞いた。わたしたちは人間の持つ苦しみを担っている十字架のイエス・キリストに出会うとき、孤独から解放され魂の癒しを与えられていく。傷を癒すのは傷。「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」(イザヤ53・5)。この絵は空想やファンタジーではなく、病人の現実を描いたのである。本物の傷がわたしたちの傷を癒すのである。ここに本当に御自分の肉を裂き、血を流し、病を知り、病を担った十字架のキリストがいる。
(2)十字架は肉体の癒しだけではなかった。主は罪の赦しの恵みをもたらす。キリストは贖罪の血を流された。主は同時に罪の赦しを宣言された。「イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた(ルカ5・20)。他にも「イエスは女に言われた。あなたの罪はゆるされた。同席の人たちは、罪まで赦すこの人は、いったい何者だろうと考え始めた。イエスは女に、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい、と言われた」(ルカ7・48−50)。信仰はイエス・キリストの恵みを受け取る受け皿である。罪の赦しの関係をもたらしたのがイエス・キリストである。そのためにイエス・キリストは罪なき聖なる命を献げた。マルコ10・45。わたしの罪を浄めるために罪の赦しの恵みを与えてくださった。それが十字架の血である。これも事実である。讃美歌515「十字架の血にきよめぬれば、来よとの御声をわれはきけり」。
(3)十字架は罪の裁き、神の罪に対する呪いであった。「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくださいました。木にかけられたものは皆呪われていると書いてあるからです」(ガラテヤ3・13)。御子イエス・キリストは呪われ、わたしたちはアブラハムの祝福を与えられるものとなった。
(4)十字架は3日後に甦りへと進んだ。主の復活は人類の罪と死に対する勝利となった。わたしたちは復活による新しい命、新しい生(新生)を生きるものとされた。主イエスは聖書を解き明かされただけでなく、弟子たちの、そしてわたしたちの心の目を開いた。
今週もこれらの恵みに支えられ、心の目を開かれて、新しい生を命の主と共に歩もう。