説教要旨 申命記6章10−15節 エフェソ書5章21−28節
2026.4.26
「キリストと教会」
今日の説教の結論は、25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」。
1.エフェソ書5章21節から6章9節まで、聖書は、夫と妻、親と子、奴隷と主人、という3つの問題を取り上げていく。これら3つは当時の社会の柱のようなものであった。これらに対して、教会はどのような態度をとるべきかが問われていた。今日はその具体的な個々の問題にはいる前提となっていることに注目していきたい。
というのは、夫と妻の問題を語るにおいても、キリストと教会のことが出て来ている。親と子の問題でも、6・1「主、〔すなわちキリスト〕に結ばれている者として、両親に従いなさい」、奴隷と主人の問題でも、6・5「キリストに従うように、恐れおののき、肉による主人に従いなさい」とある。つまり、それぞれの問題の、一番最初に「主に結ばれているもの」「キリストに従うように」と、主キリストを礼拝する者として、どのように生きていったらよいのかが、語られているのであり、一般的な道徳が語られているわけではない。あくまでもキリストに従う者としての、生き方が示されている。
2.25節で特に注目したいのは、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」と明確に記されている点である。新約聖書の中でも、このエフェソ書とコロサイ書は、教会について書いている点で際立っている。1・20「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」とあった。教会の頭はキリストであり、その生きた体(ボディー)として教会が位置づけられている。人間も知能や頭脳だけでは役に立たない。そこから送られてくる命令や指令を具体的に行っていくのが手であり、足である。教会は、キリストという頭から発せられる使信を担って走る足であり、頭であるキリストからの語られる言葉を語る声である。比喩的に言えば、それが教会である。
キリストによってもたらされた神の奥義、神の国(神の支配)の福音は、キリストの弟子たちが、キリストの手となり、キリストの足となって、全世界に伝えられていった。それがキリストの体としての教会の伝道となって全世界に福音が宣べ伝えられてきた。また教会は、2・20によれば、「使徒や預言者という土台の上にたてられており、その要石がキリスト・イエス御自身である」。要石とは日本では建物の土台になる石、礎石であり、当時のローマの建築ではアーチの上に最後に乗せる石であり、それによってアーチが崩れないようになる要石である。教会の土台は、今も生きていたもう、キリスト・イエスである。この岩の上に建てられた建物のように、教会はしっかりと組み合わされ、建てられて行く(2・21)。キリスト教会はこのようなゆるぎない基礎、要石の上に建てられている。しかも、この建物は成長し、毎週神の救いの御業を感謝し、その恵みあずかり、ひとり一人の魂の奥底からの賛美を捧げていく礼拝、そのような神殿こそ、わたしたちの教会である。
日本橋教会も、147年(1879年以来)の歴史をもって今日に至っている。この福音伝道の灯を消滅させてはならない。人々の心の闇を照らし、そこに信仰と希望と愛の光を照らしていく教会の礼拝と伝道の光を継承して次世代に、そのバトンを手渡していかねばならない。このまま教会が無為無策で、衰退していくことは許されないと思うのです。時代と共に教会の形は変わっても、礼拝と福音伝道の灯を消してならない。そのためには、どのようなことをなすべきか、教会員ひとり一人が思いを一つにして共に担っていきたい。
3.「キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」。この表現は、新約聖書でここにしか表されていない教えである。キリストが教会を「愛した」という、この「愛する」という言葉は、人間の愛ではない、神の愛を示すときにのみ用いられる「愛する」である。人間の愛は、不完全、気まぐれ、弱く、傲慢な上から目線の愛でしかない。愛されたら愛する、仲間にだけ挨拶する愛、取引の愛、しかし「神の愛」は人間の愛とは全く違う。十字架につけよと叫び、御手に残酷なくぎを打つ人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23・34)と祈る愛である。どんな妨害の叫び声や罵声でも、打ち壊すことのできないのが、神の愛の業としての十字架であった。キリストは、そのために「ご自分をお与えになった」とある、これは5・2では「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」と表現されている。神の御前に御自分から進んで捧げられた犠牲の小羊、これがキリスト御自身の体であった。しかも、その愛は、教会に向けられた。御自分から積極的に教会のために、御自分から捧げられた。個々人というよりも、キリストの御自身の中に、まず「教会」があり、キリストはその「教会」を愛し、その「教会」のために、御自分の命をささげられた。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20・28)とも表現される。エフェソ書ではキリスト御自身が愛された教会と表現されている。そのために、自ら犠牲の小羊となって、十字架という祭壇に罪の贖いとして捧げられた。
キリストはこの教会を、「清めて聖なる者とし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるため」(27)であったとある。キリストは御自分の前に立つ教会を求めているという。しみ、しわだらけの罪に汚れた教会が、その罪を清められ、神の栄光にふさわしいものとなっていくことを、キリストは待ち望んでいる。神の栄光に輝く教会へと成長するようにとわたしたちは予定されている。
4.しかしそれは完全な教会、完璧な、優等生の教会という意味ではない。絶えず、罪を清められていく教会ということである。悔い改めに生きる教会ということである。
人間の愛は、弱く、もろく、けがれに満ちている。何かのことに出会って、人間の愛は、ガタガタと崩れ落ちていく。簡単に憎しみに変わっていく弱さを抱え込んでいる。小学6年生が親に殺された事件が報道された。戦慄を覚えるが、人間の罪の現実が表された事件であると思われる。キリストは言った。「自分を愛してくれる人を愛したところで、どんな報いがあるか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろう。異邦人でさえ同じことをしているではないか」(マタイ5・46)。わたしたちは人間の愛だけしか知らないなら、いとも簡単に大きな罪に変質してしまう。わたしたち自身も、そのような愛の貧しさを生きているのではないか。そこで開き直るのでなく、神の前に心砕かれていく経験を積んで悔い改めに生きる。それが教会の礼拝体験である。
われわれはすべての人を好きになれと命じられているのではない。キリストの愛、神の愛に何度でも引き戻され、そこで自分のかたくなな思いが打ち砕かれて、自らの愛のなさに心打ち砕かれて、神の愛を受け入れていかねばならない。イザヤ書57・15「わたしは打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」。ここに神が、キリストがわれわれのために用意して打ち立ててくださった教会がある。