説教要旨 イザヤ書61章1−3節      ルカ9章57-62節    2023.1.29
「神の国を広めよ」

 今日の説教の結論は、9・60の主イエスの言葉「あなたは行って神の国を広めなさい」ここに、焦点を合わせていきたい。

1.主イエスによって病人が癒され、神の国の福音が語られたことによって、主イエスの名声は次第に大きくなっていった。弟子たちはそのような主イエスの業を継承していった。ルカ9・6「12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」。すると、イエスに従いたいと思う人々も出てきた。その動機は書かれていないが、「病人をいやし、死者を生き返らせ、ライ病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)とあるところから、反対に病人を癒したら大きな謝礼がもらえるとか、イエスに従っていればメシアの国が来るときには高い地位が与えられると考えた人々も出てきたのかも知れない。
 3人の例がここで記されている。その時の主イエスの反応が示されているが、それらは決して一律の律法的な、機械的な答えではなく、そのひとりひとりにかなった適切な答えがなされている。ここに、先ほど合わせて読んだイザヤ書61章に「主はわたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために、わたしに油を注いだ」とある。主イエスは、この神の国の約束を実現する方として、遣わされたのである。

2.第1の人は、イエスに対してこう言った。「わたしは、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。ある人はこの人を青年と見ている。確かに大変元気のいい、若者の発言とも読める。しかしイエスは言われた。「キツネには穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。ただ一時的な熱狂的な思いだけで、主に従うことはできない。あなたは人の子がどのようなところに生きているのか知っているか。イエスは青年に冷や水を浴びせるような言葉を語った。神に従うことは、一時の熱心や熱狂とは違うぞ。人の子が安心して眠る場所もない、キツネやカラスさえ持っているような安息すら持っていない、ことを知っているか。「どこへでも従って行きます」とあなたは言ったが、安心して寝るような場所をさえ持ちえない、その覚悟があるかと言われた。  ここで、主イエスはご自分のことを「人の子」といっている。これは「人」という意味で、ご自分をあえて「神の子」と言わず、人の子と自称された。それは人として生き、人間の生きる苦しみや悲しみを味わい、動物さえ持っている地上の寝床を持ち得ず、人間の苦しみや悩みを助けるために、忙しくして、また迫害者に追われる身となっただけでなく、人間として最も貧しくなられたということである。讃美歌121「まぶねのなかに産声あげ、木工たくみの家に ひととなりて、まずしき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ」「食する暇もうち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき者の友となりて、心くだきし、この人を見よ」。「すべてのものを与えし末、死の他何も報いられで、十字架の上に上げられつつ、敵を赦しし、この人を見よ」。人間が生きることは、それだけでも苦しいことが多々ある。しかし主イエスの弟子はこの世の平安を持ち得ない時でも、ただ神から来る平安を信じることによって、神から与えられる平安を確信できるか、と言われたのである。またあなたは人間のいざというときの弱さを知っているか、といわれた。獄に入って死んでもよい、どこへでも従って行きますとペトロは言った。そのペトロが3度主イエスを否定した。讃美歌243「弱きペトロを顧みて、赦すはたれぞ、主ならずや」。

3.第2の人に、主イエスは「わたしに従ってきなさい」といわれた。これは第一の人の場合と違い、主イエスの方から声をかけられた。その時、この第2の人は「主よ、まず父を葬りに行かせてください」といった。ユダヤの律法では親を葬るときには、律法の決まりを守らなくて、免除されるという教えさえあった。また泣き女や笛吹男を雇い、幾日も続く葬儀の儀式をこなさねばならない、そんなことがあったので、この人として当然すぐに許されると思った。ところが主イエスは60節「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせよ。あなたは行って神の国を言い広めなさい」。死んでいる者とは、神の国について全く無関心な者たちを意味する。彼らに死者を葬らせよ。これは一見すると、キリストはひどいことを言っているように見える。このイエスは親の葬儀をないがしにしろ、とか無視せよと言ったのか。そうではない。主イエスが一番鋭く指摘したことは、「主よ、まず父を葬りに行かせてください」。この「まず」と言う点に目を向けなければならない。主は「まず 神の国と神の義を求めよ」(マタイ6・33)。と言われた。イエスは葬儀そのものを否定したのではない。この人は主イエスに従うことと葬儀を同価値に置いていた。死んだ者のために泣き、屍を葬ることは誰にでもできる。屍に執着する者は、彼自身が死者である。そこには何の生命の芽生えもない。生命は神の国の福音の中にある。キリスト教の葬儀は死にたる者が、死にたる者を葬るものではない。この世の葬儀はただ死者の死を悲しむだけである。キリスト者の葬儀は生きたる者が復活の生命をたたえる場所である。キリスト教の葬儀は、神の国の福音の勝利であり、命である主イエスを伝える時である。「嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の衣をまとわせるため」(イザヤ61・3)キリストは来られた。「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」。弟子たちはこの世の悲しめる者に、復活という新しい命の勝利の希望を告げる者となった。あなたもこの事実をまず第一に告げる者となれ、と言われた。

4.第3人目は、「主よ、従います。しかしまず家族にいとまごいに行かせてください」。いとまごいは、短時間で終わるかも知れない。が、その時間的なことではなく、古い関係を忘れようとしない者は、神の国に十分に仕えることはできない、と主イエスは教えられた。わたしたちはいつも自分の過去に囚われている。それを振り返ってみようとする。後ろには、後悔の念や劣等感がある。しかし、主は言われた。あなたは既に神の国に手をかけている。「手を鋤にかけてから後ろを振り向くな。振り向くことは、わたしたちの目を目標から離すことであり、農夫が耕している畦をまっすぐに耕すことができなくなるのと同じである。神の国は常にあなたの前方にある。あなたの前にある神の国に向かってまっすぐに進み行け。古代(2世紀)の註解者は「イエスこそ、神の国の門であり、神の国の光であり、道であり、命のパンであり、命の水であり、命そのものであり、甦りであり、真珠であり、宝であり、刈り入れであり、からし種、ぶどうであり、鋤であり、恵みであり、信仰であり、言葉である」 と言っているという。

5.わたしたちはこの世にあって、弱さをかかえ、迷い、何が本当に必要なものかを見失ってしまい易い。しかし、神はそのようなわたしたちのために、「人となったイエス・キリスト」を送ってくださった。このイエス・キリストは、常にわたしたちの前におられる。「兄弟たち、わたし自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3・13)。