説教要旨     申命記30章15−20節      エフェソ書4章17−24節             2026.2.15
「古い人を脱ぎ捨て」

 今日の説教の結論は、4・23−24「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

1.ここに、古い人の特徴として異邦人があげられ、「彼らは愚かな考えに従って歩む」人々である。「愚かな考え」とはどのようなことであろうか。かつての口語訳聖書はここを「空しい心で歩いている人々」と訳していた。この空しいという言葉は、空っぽなという意味があり、旧約聖書では偶像礼拝の対象である偶像を指す言葉である。偶像は目に見えるところは、金や銀で加工されて巧みな職人の造ったものであるが、中味は木片に過ぎない。「木工がのみを振るって造ったもので、金銀で飾られ、留め金をもって固定され身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。」(エレミヤ10・4)。しかし人間は目に見えるものに弱い。目に見えるものが一番確実だと考えやすい。お金でも、食べ物でも、能力でも、目に見えるものそういうものが目の前にあれば、安心だと考えやすい。
 しかし聖書はそれらはどれもみな、過ぎ去っていくもの、永遠のものではないという。目に見えることがすべてであれば、困難や苦しみや失敗や挫折が起こってくるとき、人間はどうなるだろうか。人間は高齢になってきて、次第に今まで出来たことが出来なって来ている現実に直面している。健康も能力も次第に蝕まれてくる。その時心の中に神という存在がないならば、心が暗闇で覆われ、心に光がなくなり、絶望に支配され、生きる意欲をなくしてしまう。生きるのが嫌になってしまう。暗闇の中に閉ざされた歩みしかできなくなってしまう。自暴自棄となり遂には、19節「神に対して無感覚になり」とは、神を知るアンテナを持っていないので、神のメッセージを受信できない状態となってしまうことを指す。その結果、良心が麻痺してしまい、倫理も道徳もなくなり、あるのは人間の肉の思いだけになってしまう。それが19節で「放縦な生活、ふしだらな行いにふけって留まることを知らない」状態に陥ってしまう。17ー18節「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」

2.旧約申命記30章には、「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩むならば、あなたはいのちを得る。」反対にあなたが人間の愚かな考えに仕え、そのようなものに支配されるなら、わたしは今日あなたたちに宣言する、あなたたちは必ず滅びることになる。神はわたしたちの前に、生と死、祝福と呪いを置く。あなたは命を選び、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それがまさしく「あなたの命」である。
「この肉体の命は死に打ち勝つことのできない一時の命にすぎません。いろいろのことに妨げられている命である。これに対して神の命とは、神が救いによってお与えになっている命であります。神が救い主によって現され、お与えになる命であります。」(竹森満佐一)。新約聖書において、この命が明確に語られている。それが21節「あなたがたは、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」

3.22節「古い人を脱ぎ捨て、神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい。」星野富弘さんは、体育の教師であったがその授業において、体を損傷し動けない体となってしまった。「命が一番大事だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。命より大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。星野さんは、イエス・キリストの救いによって神から与えられる神の命を知った時、この世の肉の命ではない、神から与えられる命があることを聖書を通して知った時から、生きる意欲が与えらて、あのような詩と絵という作品を造り出せていったのだと、わたしは受け止めている。神からの命を知った時、人ははじめて古い人を脱ぎ捨てることができる。
 古い人というのは、時間的にはアダム(人類の祖先を指す)にまで遡る。同時に古い人は、神から離れた、神に背いた人間、罪のゆえに「滅びに向かっている」古い人間を指している。わたしたちはアダムという古い人間、罪の人間の子孫である。アダムの遺伝子を受け継いでいる。それをそのままにしておくなら、「滅びに向かっていくしかない」。この肉の命は、傷つき、最後は死を迎えていくものである。これは現在分詞という文法の形で、「滅びつつある」という意味である。その終着点は死である。滅びである。これに歯止めをかけて、神の命を提供したのがイエス・キリストである。「神の義と神の聖」を持っているイエス・キリストにつなげられることによって、神からの命をいただくことによって、わたしたちは古いアダムから解放されるのである。神はわたしたちの心を、その根底から新しくされる道を備えてくださった。

4.しかもこの恵みは神ご自身が備えてくださったものである。ローマ8・29「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」ここに、神の深い恵みがあらわされている。人間がそのままであるならのアダム的なもの、その運命を引きずっていかなければならない運命であった。それが異邦人の生活という言葉で代表される。
 星野さんは、「肉の命より大切なもの、それは救い主イエス・キリストから与えられる命(神からの命)があると知った日、生きているのが嬉しかった」。星野さんに生きる勇気、意欲を与えたのは新しい神のいのち、イエス・キリストの復活の命であった。神を受け入れようとしない人間の無知と虚無と傲慢さ、かたくなさは、人間を神の命から遠ざけてしまう結果となっている。その人間の運命を変える恵みを神は神の御心の中で、アダムの子孫のために用意、予定してくださった。なんとありがたいことか。人間はこのイエス・キリストという神の命の洋服を自分が造ったのではない。神が用意した完全な義と聖の洋服を着さえすればいい。1コリント1・30「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」更に注目したいのは、「神にかたどって造られた」とは実は、はじめの人間の姿そのものであった。創世記1・27「神は御自分にかたどって人を創造された。神のかたどって創造された。」とあった。神は不義なる人間、「愚かな考え」「知性は暗くなり、心のかたくなさに支配された人間」(17−19節)に対し、人間の再生の道、回復の道、再創造、第二の創造の道が救いの道として備えられた。アウグスチヌスは「夜は更け、日は近づいた。だから闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。日中歩むように、品位を持って歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい〔着なさい〕。」(ローマ13・12)の言葉を聞いて回心したと言われている。「新たにされて」とは継続的動作を示す。神の恵みはいつも新しく継続的にひとりひとりに与えられていく。わたしたちは今日新しく神の赦しによって、心の底から神の恵みに満たされて、今週のなすべき業に励んでいきたい。