説教要旨 詩編115・5−11              2022.7.3
ルカ6・27−36 「憐れみ深い者」

 今朝の説教の結論は、ルカ6・36「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
1.主イエスの冒頭の言葉「あなたがたの敵を愛せよ」(27)は衝撃的な言葉である。というのは旧約の律法レビ記(レビ19・18)では「復讐してはならない。民の人々にに恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とある。この言葉がイスラエルの歴史の中では、隣人は愛しなさい。敵国は憎め、という戦争の命令として理解されていた。サマリア人とユダヤ人が同じ民族でありながら、正典採用を巡って敵対していた。サマリア人とは話しもしない。これが後に、主イエスがこのルカ10章で良きサマリア人のたとえ話をなさった事に通じていく。聖書には「隣人を愛しなさい」と書いてあったが、当時のユダヤ人は、敵国は憎めと教えられていた。これに対して、主イエスが「敵」という言葉を使って、「あなたがたの敵を愛せよ」と語った。「敵」は続けて、「あなたがたを憎む者」「悪口を言う者」「侮辱する者」と言い換えられる。さらに、エスカレートして「あなたの頬を打つ者」、「上着を奪い取る者」に出会うとき、「求める者」「持ち物を奪い者」がいるとき、どう対処したらいいのか、どのように生きていったらいいのか。という問題である。これは我々の日常にも存在する。

2.主イエスはこれらに対し、「あなたを憎む者には親切に、悪口を言う者には祝福を祈れ、侮辱する者に対して祈れ、頬を打つ者にはもう一方の頬を向けよ、上着を奪う者には下着をも拒むな、求める者には与えよ、持ち物を奪う者からは取り返そうとしてはならない。」という。しかしこれらを文字通り守れと言っているのではない。大事な事は、、これらの言葉を、27節の冒頭「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と言われ、キリストの言葉に聞き従っている信仰者たちに語っている。あなた方がこの世にあって生きていくとき、必ずあなたを憎むもの、悪口を言う者、もっと激しく侮辱する言葉を言う者が出てくる。そういう者たちにとり囲まれたわたしたちが、神の前にでる。これが礼拝の恵みである。もしこの礼拝に出ることがなくなったら、わたしたちは、自分の中に湧き出てくる復讐の思いに支配されていく。自分の名誉が傷つけられた時、キリストがいなければ、自分で自分の名誉を守ろうとして、仕返しや相手に処罰を求め、相手に復讐したい思いに囚われていくことになる。すべて、自分を守りたいからだ。

3.パウロはこう書いている。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。と書いてあります〔箴言20・23「悪に報いたいと言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。」。〕あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・19〜21)。詩編37・1−2「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは青草のようにすぐにしおれる」。9「悪事を謀るものは断たれ、主に望みを置く人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る」。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。35「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。しかし、時が経てば彼は消え失せ、捜しても見出すことはできないだろう」。
 1ペトロ3・9「悪をもって悪に〔報いず〕、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐために、あなたがたは召されたのです」。

4.わたしたちが十字架の主イエスの前に立ったとき、そこに見えてくるのは、神の子イエス・キリストのこの地上での生きた姿である。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまでそれも十字架の死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・6−8)。この十字架の主イエス・キリストは、「侮られ人に捨てられ、悲しみの人・・また顔をおおって忌み嫌われる者のように、彼は侮られた」(イザヤ53・3.口語訳)。十字架にあるのは神の子としての尊厳も、威厳も取り去られ、あるのはただ人間の嘲りとののしりと軽蔑だけであった。
 この主イエスが譬えを語った。1万タラントンの負債を許された男が、100デナリオンの負債を赦さなかった男のたとえである(マタイ18・21−35)。1万タラントンは、6000万デナリオン。自分は王様から6000万デナリオンを許されたにもかかわらず、100デナリオンの自分に借金のあった男を許さなかった時、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。「あなたがたのひとりひとりが、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」わたしたちはみんなイエス・キリストによって、巨大な罪を赦されて神の子とされた。キリストの恵みには、わたしたちを神の子とする恵みがある。それと同時に、それを感謝するだけでなく、神の子として霊的な成長をしていくことも、キリストの恵みには含まれている。それが今日の結論36節にある。「あなたがたの父が憐れみ深い深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容委を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3・12−14)
 この世には、あなたに対し、あなたの力を利用するだけの恩を知らないような者もいるだろう。時には悪口を言ったり、侮辱する者さえいるだろう。しかし、あなたは神の恵みを知る者として、利己主義を打ち砕かれたものとして、憐れみ深い者となれ。神は必ず多く報いてくださる。一見この世の商売の論理と矛盾するように思えるかも知れない。しかし、神の前に真実に歩む者を神は見捨てたもうことはない。必ず省みてくださる。詩編116・5「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主イエスは、弱り果てたわたしを救ってくださる。あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、わたしの足を突き落とそうとする者から助け出してくださった。わたしは信じる。激しい苦しみに襲われていると言うときも、不意案が募り、人は必ず欺く、と思うときも。」

5.「過ぐる太平洋戦争前から戦争中にわたり、私には多くの敵があって、私を責めた。彼らに対する私の感情は、彼らのために悪を希うと言うのでは決してなかったが、さりとて彼らの善を求めると言うのでもなかった。しかし彼らが私から『嘉信』〔矢内原個人誌〕を奪い取ろうとして、その策略と脅迫が頂点に達したとき、私は突然彼らが憐れになって、その時、彼らを心から赦し心から愛することができた。「汝らの仇を愛し・・」というイエスの教訓を初めて実感をもって味わったのはその時であった。・・使徒として世に遣わされる使徒たちへのはなむけの言葉である。」(矢内原忠雄)。