説教要旨      エレミヤ9・22−25       ローマ2・17−29          2026.10.11
「内なる洗礼」

今日の説教の結論は、2・29「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者がこそユダヤ人であり、また肉に施された外見上の割礼が、割礼ではありません。文字ではなく、”霊”によってこころに施された割礼こそ割礼なのです。」

1.外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者がこそユダヤ人であり、外見上の割礼が、割礼ではありません。文字ではなく、”霊”によってこころに施された割礼こそ割礼なのです。このところ29節のかつての口語訳聖書は、「隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字によらず霊による、心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」 これをもっと分かりやすく訳しているリビングバイオブルは、「ユダヤ人の両親から生まれたとか、ユダヤ人と認められるための儀式である割礼を受けたというだけでは、真のユダヤ人とは言えません。真のユダヤ人とは。心が神さまと正しい関係にある人のことです。神さまは肉の割礼を受けた人ではなく、心と思いが全く変えられた人を探し求めておられるからです。人生が全く変えられた人こそ、たとい人には、ほめられなくても、神さまには、ほめていただけるのです」。
これはユダヤ人に向かって語られているが、クリスチャンであるわたしたちに向かって語られている言葉として読みなさい。と勧められている。教会にも、洗礼もあるし、洗礼を受けた人には聖餐式において、キリストの体、キリストの血を示すパンとブドウ(酒、液)が配られる。それを自分自身の中に取り入れる。そのような目に見える外見上の儀式がある。しかしそれは、それによって、わたしたちの内面が、わたしたちの心が、神の聖霊によって、全く神に向き合う存在へと常に変えられていく。そういう存在へと変化させられていく。そういう存在こそ、本当のユダヤ人であり、本当のキリスト者である。

2.「隠れたキリスト者とは何でしょうか。それは、キリスト者であることを隠している〔ことという〕 のではなくて、人からではなくて、神からのみ、ほまれを得ようとしているキリスト者です。その時には、その人の中には、偽りがないのであります」(竹森満佐一)。隠れたキリスト者というのは、人の目には隠されていても、「隠されたことを見ておられる」(マタイ6・4)父なる神の前に歩み續け、その神からの誉れを受けるように歩んでいく。それが本当のキリスト者である。
 ところがユダヤ人は、自分たちの先祖に与えられた律法と割礼という他の民族にはない(実際には割礼の習慣を持っている民族は他にもあったが)目に見えるしるしを持っているということを誇っていた。主イエスの時代に、イエスは次のような言葉を語っている。 マタイ23章1節以下「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話になった。律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから彼らの言うことは、すべて行い。守りなさい。しかし彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本かそうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱〔出エジプト13・1−10,申命記6、といった言葉を手や額に結び付けなさい。経札きょうふだの幅を〕を大きくしたり、衣服の房〔衣服の四隅に房を縫い付け、房に青いひもをつけて、目の欲に従ってみだらな思いを防ごうとした。文字通り神の言葉を手や額に着けよを実行した 民数記15・39〕を長くしたり、宴会では上席に座ることを好み、広場であいさつされたり、「先生」と呼ばれることを好む」。マタイ23・27「律法学者たちやファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」

3.主イエスはこのように、ファリサイ派の人々や律法学者たちの内側の偽善と不法を指摘し、「まず内側をきれいにせよ、そうすれば、外側もきれいになる」(マタイ23・26)と言われた。ユダヤ人たちは人の目、外見上のことだけを気遣い、内側は全く無頓着であった。パウロは、ユダヤ人は神に選ばれたものとして、異教徒のはびこる世界、その中心であるローマの町で、「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師」(2・20)であることを自負しながら、「他人には教えながら、自分には教えない」「盗むなと説きながら盗む」(2・21)「律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」(2・23)と指摘した。それはユダヤ人だけの問題ではなく、「ユダヤ人もギリシア人も、ことごとく罪の下にある。」「義人はいない。ひとりもいない」。キリスト者も例外ではない。自分はクリスチャンだと自認しながら、その現実は理想からはなはだ遠い存在である。クリスチャンとは名ばかりで、「神の名はあなたがたゆえに、異邦人の間で汚されている」(2・24)といったもろもろの課題に教会やキリスト者が直面して苦悩している現実がある。牧師は牧会上の相談を受けている。

4.クリスチャンも、自分の現実を直視し、「霊による心に施された割礼」、クリスチャンには「洗礼」が与えられていることをいつも新しく受け止め直して行かねばならない。
「われわれは本来神の光を与えられなければ、光を持ちえない、全くの盲人である。自分の賢さを自慢していたファリサイ人に対して、「主イエスは言われた。『もしあなたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある』(ヨハネ9・41、口語訳)と言っておられる。自分の盲いた目に気づかずに、手引きになれると自惚れるところに、救いがたい罪があるのです。信仰を与えられているという者は、自分を誇るのでなく、ニューマンの讃美歌(288)のように、一足、また一足、道を示していただくことを求めるべきであります。」(同上竹森)。ちなみに、讃美歌288#2には「ゆくすえとおく見るを ねがわじ、主よ、わが弱き足を守りて、ひとあし またひとあし、道をば示したまえ」とある。この謙虚な歩みは、毎週の礼拝から与えられていく道である。主イエスの言葉を守って生きることは、自らの力でできることではない。主によってわたしたちの心の霊魂(たましい)が毎週新しくされることによってのみ可能なのである。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から」〔心の霊において新たにされ」(教会共同訳)「心の霊を新たにし」(文語訳)新しき人を着なさい。キリストを着るとは、キリストに従い、キリストと共に生活し、キリストがわたしの中に在りて生きること(ガラテヤ2・20)、魚が水の中に生きているように、鳥が大空の中を飛び回っているように、胎児が母親の母胎の中で生きて育まれ成長するように、キリストに付き従う中で、わたしたちは次第にキリストを着ることになっていく。その最初が、キリストによってわたしたち自身の心の奥底にある魂が、神の聖霊によってキリストの恵みを受けて罪の赦しによって、心底新しくされていくのである。

5.今週もこの魂を新しくされて、信仰、希望、愛の道を歩み続けよう。エレミヤ9・22「知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者はその富を誇るな。むしろ誇る者はこのことを誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行うことをわたしは喜ぶ、と主は言われる」。