説教要旨 イザヤ28章16節、 エフェソ書2章19−22節
2025.11.23
「神の家族」
今日の説教の結論は、エフェソ2・19「従って、あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」ここに「神の家族」とある。今日の聖書は、神の家族、次には、「建物」、「神殿」、「神の住まい」という比喩をもってキリストの教会について説明している。
1.「家族」という言葉には、暖かい響きがある。これは外国人や寄留者と対比されている。外国人や寄留者はその国の国籍を持っていないよそ者。国の保護が受けられない状態を指している。先週語ったように、ユダヤ教の神殿には、ユダヤ人の礼拝場所と異邦人のそれとは明確に区別されていた。立札が立っていたといわれる。しかし、キリスト教会において、そのような区別は取り除かれ、等しく神の国の国籍、身分が与えられた。口語訳聖書は「あなた方は、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍のものであり、神の家族なのである」と訳されていた。宿り人は住むことは許されていたが、国籍はなかったので、国の保護がなく不安定な生活を余儀なくされていた。ペトロの手紙にも「離散して仮住まいの人々」とあった。それが今や、あなたがたは外国人でも寄留者でもなく聖なる民に属する者、神の家族の一員となった。エフェソは、ローマ帝国のアジア県の首都であり、地中海東部の三大国際都市、シリアのアンテオケア、エジプトのアレキサンドリアと並ぶ、ローマと東洋をつなぐ、エーゲ海から内陸5kほどのところにあって海陸路の接点として繁栄していた。そこにはユダヤ人以外の外国人や寄留者がたくさんいた。アルテミスという女神(豊穣、多産の象徴)の神殿があった。パウロは3年間ここに滞在して伝道した(使徒言行録18−19章)。そのようなところにいた外国人や寄留者の方々に心の平安と安心の場がここにある。「あなた方はもはや外国人でも、寄留者でもない。神の国の国籍が与えれたのである。」ある方が外国の都市に下宿していた時の様子を「夕方になるといつも街を歩き回り、時々、カーテンの引かれていない窓から、家族がテーブルを取り囲んで座っていたり、暖炉の周りで団らんしているのを見たものだった。そしてカーテンが引き下ろされると、締め出されたような思いがして寂しく暗闇の中に立ち尽くすのであった。」家族は、貧しくとも、心の拠り所、平安、安心の場である。自分の居場所、心のふるさとがここに神によって確保されている。神による住まいと座席が用意されている。それがキリストの教会だ。「あなた方は私の兄弟、私の姉妹。主の食卓を囲んでいた時に、いろいろの民族の人がいたでしょう。いろいろの生まれの人がいたでしょう。奴隷も自由人もいたでしょう。学問のある人も、無学の人もいたでしょう。その人たちが同じ食卓を分かち合っているときに、お互いに交し合う目は裁きの目ではない。敵意の目ではない。ここに奇跡が起こった。この奇跡を信じなければ、自らの罪に勝つ道はない」(加藤常昭)。これはユダヤ人にしてみれば革命的なことであった。しかしそれが使徒信条で告白している「我は教会を信ず」(使徒信条)ということである。
2.更にそれを建物に譬えると、教会は使徒たちと預言者という土台の上に建てられている。使徒はイエス・キリストの目撃証人、特に復活の証人だった人たち、預言者は旧約聖書の預言者ではなく新約聖書において教会の職務として立てられていた預言者をさす。1コリント13・28「神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つもの、・・皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。」しかし使徒の次にあげられているのが預言者であった。彼らはひとところの留まっていないで巡回した。次のような説明を読んで納得できた。彼らは「定住の伝道者ではありませんでした。絶えず旅をした。どうして旅をしたのだろうか。教会を訪ねて各地を旅した。当時すぐに信仰の書物が刊行されたわけではない。新約聖書もまだ固まっていなかった。いろいろの通信設備が整っていて、お互いの意思の疎通が簡単にできたわけではない。しかし各地にどんどん広がっていく教会は、みなキリストの教会だといえなければならない。同じ福音を告げていなければならない。同じ救いに生きている証拠、確かさがなければならない。同じ言葉を担った使徒と預言者が、そのために巡回してくれている。どこの教会でも同じ福音を語った。至る所でキリストの話をした。キリストの平和の福音を語った。その神の言葉を委ねられた使徒と預言者が旅を続け、迫害に耐えて、至るところに神の言葉という土台を造った。」(加藤)このような状況の中で、次第に、信仰告白、聖書の正典の確立、職制の確立が出来たのが4世紀と言われている。その教会のかなめ石は、20節キリスト御自身である。イザヤ書26・16「主なる神はこう言われる。わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信じる者は慌てることはない。」キリストは言われた。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない(打ち勝つことはない。口語訳)」(マタイ16・18)。「我は教会を信ず」の中にはこの真実も含まれている。また「あなたがた自身も教会を構成する生きた石」(1ペトロ2・5)とある。そのためには「〔でこぼこした〕石の表面を削り、磨き、他の人と組み合わせられるにふさわしい形になっているでしょうか。キリストとの交わり〔礼拝〕により、キリストの御力により変化させていただくのであります。その建物の石となる自分も、キリストによって造られなければなりません。」(竹森満佐一)。
3.この教会は組み合わされて、「成長し、聖なる神殿となる」(21)。教会は礼拝によって生きた生命体となっていく。その要石であるキリストは、復活の命の主である。教会は復活の主を礼拝することによって、人生に疲れ果てた、死んだような状態の人間に新しく命を吹き込んでいく。エゼキエルが墓地に連れていかれ、これらの骨は生き返ることができでしょうか、と神に問うた時(エゼキエル37章)、主はエゼキエルに命じた。霊に預言せよ。霊よ四方から吹き来たれ。これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。礼拝者の命は魂の栄養を与えられ、知恵と経験を積んで絶えず成長、成熟していく。わたしはまことの(完全な、純粋な)ブドウの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15・5)。その生命的な関係に留まるものは必ず良い実を結ぶ。礼拝を離れてしまうなら、実を結ばないだけでなく、枝は枯れ果てて焼かれて捨られる以外にない。神殿となるとは、ひとり一人神を礼拝するものとなるということである。
4.更に22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる。」出エジプトにおいて民が紅海の海を渡った時、モーセは言った。「あなたは慈しみをもってイスラエルの民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた」(出エジプト15・13)。その後の歴史において、イスラエルの民は何度も神の住まいから離れた。しかし今、神はイエス・キリストによって一人一人の中に、神ご自身が住み給う神の住まいとなってくださる。3・17「信仰によってあなた方の心のうちにキリストを住まわせる」とある。これほど神と密接な関係はない。住むとは一時的ではない。永続性がある。これが神との関係である。信仰に生きる。教会に生きるとは、このようなことである。「教会がある限り、どんな時代の中にあっても安心し、また希望をもっていきることができます。それが教会が〔この地上に〕あるということである。」(近藤勝彦)。
私達は今週もキリストの体である教会からこの世に遣わされて働きを続けていきたい。