説教要旨 イザヤ書59章17−20節
エフェソ書6章14−17節
2026.5.31
「平和の戦士」
今日の説教の結論は、6・14の「立って、真理を帯とし腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」
1.この世に本当の正体を隠しながら、今も私たちの生きておるこの世の現実の世界で生きて巧妙に具体的に働いている、11節「悪魔の策略に対抗して立つことができるように神の武具を身に着けなさい。」この翻訳をもっと鋭く訳しているんが「『惑わす者』の巧妙さに対してあなたたちがしっかりと立ち向かうことができるように、神がくださる装備を身に着けてください。・・闇の世界を牛耳る者たち、抑圧の霊どもが相手だからです。」(本田哲郎訳)。まさに人生経験の少ない10代の高校生を巧妙に高額のバイト代を示し、闇バイトへと誘いだし、実行しないと家族を殺すと脅し、殺人犯罪にまで至る事件が現実に起こっている。純粋な高校生がこれらに、引っかかって、人を殺すことまで起こっている現実が1件や2件ではないことが報道されている。
エフェソ書は獄中書簡と言われる。この手紙はパウロがローマ兵の手首に鎖でつながれて、夜も昼も逃亡しないよう見張られていた中で書かれた。20節には「わたしは福音の使者として鎖につながれている」とある。そのようなローマの兵士を目の前に見ていたことから、ローマの兵士が身に着けていたであろう具体的な武具を借りて、キリスト者の身に着けるべきものとしての「神の武具」(11)のいくつかをここに描いている。ここに7つほど挙げられている。帯、胸当て、履物、盾、兜、剣、祈り。これらの初めの5つはすべて、悪魔の攻撃から身を守る防衛、防御のためのもので、最後の二つ剣と祈りは、積極的な攻撃のものだと言われる。戦士の姿は、旧約聖書の中に、万軍の主、という言葉があるように、「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」(イザヤ11・5)、「主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。」(イザヤ59・17)という神の姿を表す言葉もある。
2.具体的な武具が語られる前に、「立つ」という言葉がある。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」(11)「しっかりと立つことができるように」(13)」「立って真理を帯として腰に締め」(14)。ここに「立つ」という言葉が3回も記され、武具を着ける前に「立つ」ことが前提にされている。立つとは、戦闘の準備である。ここには、まず神の前に立つこと、これが礼拝である。同時に、この世に相対して立つこと。この二つの「立つ」が意識されていることに、注意したい。1週間のこの世の戦いに出ていく備えとして、私たちはまず神の前に立つことが必要である。この神の前に立つ礼拝は、この世の抑圧の力、誘惑の力、不正義の社会の闇に対立して、対抗して、それらの悲惨な現実を見ながら、意識して、神の前に立つ、そして社会の前に立つ。この二つが戦闘の準備として「立つ」内容である。
3.最初の挙げられているのが、「真理を帯として腰に締め」とある。帯は兵士の上着をぐっと覆い、体を守り、身に着けている衣が絡まったり、はだけたりせず、そこに剣をつるし、自由に行動できるように、敏捷に動けるように、全体を引き締める、最後の「締め」それが帯の役割である。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3・14、口語訳)とあった。ここでは、真理、神の真理を帯としてしっかり腰に締めなさい。では神の真理。神の真実とは何か。キリストは言われた。「わたしはまことのブドウの木〔である〕」(ヨハネ15・1)。この場合の「まこと」とは、不完全に対する完全を意味する。まがい物ではない本物の完全な、100%完全な純粋なブドウの木。「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1・9)。「わたしはよい羊飼い〔である〕」(ヨハネ10・11,14)。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇人は、オオカミが来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである」。この意味では、イエス・キリストは真実な本当の、完璧な本物の羊飼い、信頼できる完全な神のひとり子である。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1・17−18)「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1・14)。「ラオデキアにある教会の天使にこう書きおくれ。アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が次のように言われる」(ヨハネの黙示録1・14)。イエス・キリストこそ、神の真理としてこの世に来た真実の光であり、全ての人を照らすことのできる光であり、
羊のために命を捨てる良き羊飼いである。以上のような意味で、この方イエス・キリストが真理である。この真理を帯として腰にしっかりと締めなさい。「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい」(エフェソ4・23−24)。「主イエス・キリストを身にまといなさい〔着なさい、口語訳〕」(ローマ13・14)。
4.「正義を胸当てとして着けよ」。胸当ても攻撃から守る武具である。悪魔はいう。お前はクリスチャンと言っているが、欠けあり、罪あり、問題だらけじゃないかと言って攻撃してくる。しかし神は宣言してくださる。「あなたがたも、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そう信じて約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ1・13−14)。ルターは悪魔に責めらえるときに言ったという。自分は自分の髪の毛一本一本に、いう。お前は洗礼によって髪の毛一本に一本に聖霊の恵みを受けている。罪の赦しを受けているのだ。ルターはそのようにして、自分は守られた。罪の咎めや負い目に傷つき悩まされ、私たちの魂の中心が破れそうになる時、義の胸当てをしっかりと心にとめよ。それが心の、胸の、武装である。
5.平和の福音を告げる準備を履物としなさい。神によって確立された神と人間との間の平和の福音、いいかえれば福音伝道をしていく準備として、私たちは履物つまり伝道していく足となっていくことが求められている。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ52・7)。仕える内容は神によって、わたしたちにすでに与えられている。わたしたちはそれを外に向かって伝えて行けばいいのである。今私たちの教会の伝道部会では『それゆけ伝道』(山北宣久)という本を読んでいる。その中に「『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』という復活の主の号令は私たちの身と心を開かせます(マタイ28・19ー20)。悪しき教会安全主義は、教会エゴイズムとなり、独善性と自己満足の温床になること必至です。御言葉を携えて出ていきましょう。涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い泣きながら出ていった人は、束ねた種を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」(詩126)。積極的に平和の福音を告げる足となって、主に仕えてまいりましょう。