日本橋教会主日礼拝2026年8月23日
鈴木善姫牧師
洗礼者ヨハネの質問
イザヤ書61:1、マタイ
11:2〜6
私たちの救い主イエスは言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである。」
それは、主イエスと共にいながらも、主イエスによってつまずくことがある、つまり、信仰があるゆえに、わたしたちをつまずかせるものがある、ということです。しかし、それにもかかわらず、つまずかない人は幸いである。だから、つまずかないようにとおっしゃっているのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネを通して、そのみ言葉の意味を学びたいと思います。
マタイによる福音書3章に出てくる洗礼者ヨハネは堂々とした力強い姿です。徹底的な確信を持って、揺らぎない姿で神の到来について宣べ伝えていました。彼はらくだの毛衣を着、腰の皮の帯を締め、いなごと野密を食べ物としていました。そこで、エルサレムやユダヤ全地域から大勢の人がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受けました。ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々が、大勢、洗礼を受けにきたのを見て叫びます。「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りをまぬかれると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。本当に恐れを知らない、聖なる堂々な姿です。
しかし、そのような洗礼者ヨハネは今、悲劇的な人生の終末を迎えようとしています。自信感をなくし、無力感に捕らわれています。なぜでしょうか。
当時のガリラヤの支配者ヘロデ・アンティパスはローマにいる弟を訪問中、弟の妻と不倫な関係に陥り、帰国後、自分の妻と別れて、弟の妻をその夫のもとから連れ出して結婚をします。福音書にはそのことについて洗礼者ヨハネが非難したと詳しく書いています。レビ記18章16節にはこのように書かれています。「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。」そして、20章21節にも「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのであり、男も女も子に恵まれることはない」と書かれています。
王ヘロデは確かに罪を犯しました。ヨハネは相手が王であってもその罪を見過ごすことが出来ませんでした。ですから、そのことについて指摘しました。そのようはヨハネをヘロデは、監禁してしまいました。ヨハネは今、風も通らないところに閉じ込められて死を待っているのです。 そのようなヨハネが、この方こそメシアであると確信していたイエスに向かって「来るべき方はあなたでしょうか」と問い掛けているのです。 「私が熱心に待ち望んでいた方、メシアは本当にあなたでしょうか、」。死を前にしてヨハネは確かさを求めています。「主イエスよ、あなたがメシアならば、メシアとしてのしるしを見せてください。一体いつ悪人を滅ぼさせ、あなたの聖なる救いの業を成すのでしょうか。いつ神様の裁きの日があるのでしょうか」「私は私の人生の終わりの日が来るまで、この牢の中で無力にいなければならないのでしょうか。このまま死を待たなければならないのでしょうか。あなたは本当に来るべきお方であるのでしょうか。もし、あなたがメシアであるならば、私はこのまま死んでもいいのです。あなたこそ、私が切に待ち望んでいたメシアでしょうか。はっきり教えてください。」そのような切実な問いをしていたのではないでしょうか。
イエスについてきた人たちは、海で魚を捕っていた人たち、民族の裏切り者として扱いされていた徴税人、そして、売春をしていた女の人と子どもたちでした。いわゆる、無学で貧乏で力がない人たちであり、汚れた人たちもいました。力ある知識人と政治家たち、神のことを教えている宗教家たちは、イエス様を無視し、イエス様の存在さえ認めようとしませんでした。それがイエス様が言われた神の国の始まりでした。
洗礼者ヨハネは、自分の期待とは違っていた、そのようなイエスの姿に焦りを感じていたのかもしれません。しかし、彼は今、死を前にして根本的な質問をしているのです。私が全存在をかけて信じ、行っていた、この信仰、私の献身は本当に意味あることだったでしょうか。つまり、今までの私の人生は無駄ではなかったのでしょうか、と問うているのです。
私がすべてをかけて追い求めていた真理の道、これは確かなものであるのか、私の期待は幻想にすぎないことであるのか、なぜ、私はこのようにならなければならないのか。そのような、様々な葛藤に陥っていたのではないでしょうか。しかし、ヨハネはそのような葛藤で落ち込むより、その問いを主イエスにもっていきます。「来るべき方はあなたでしょうか。あなたは私たちが待ち望んでいた真の救い主、私が確信していたメシアでしょうか」。自分の葛藤と苦悩を主に打ち明けているのです。
ては、そのような洗礼者ヨハネの質問に主イエスの答えはどのようなものだったのでしょうか。それに対して、主イエスが「あなたが信じているその通りだ」と一言はっきりおっしゃってくださったならば、それで、ヨハネはそれを信じて、安心していたのかもしれません。
しかし、主イエスは言われます。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病をわずらっている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」主イエスはご自身がだれであるかを直接に言っていません。
では、このような主イエスの答えは、ヨハネの質問に対する答えになったのでしょうか。
主イエスにした洗礼者ヨハネの質問は、質問者ヨハネに向けられ、ヨハネ自身が答えなければならないのです。主イエスがメシアであることを信じるか、信じないかとヨハネ自身が自ら答えなければならないのです。なぜならば、主イエスが来たるべきお方、メシア、救い主であるか、ないかは、ヨハネ自身が自ら告白し、示さなければならない信仰の問題であるからです。
現実がどうであれ、主を信じ、自分自身のすべてを委ねるとき、私たちは主イエスの奇跡のみ手が私を癒すのをはっきり感じることが出来るのです。そして、そのとき、主イエスこそ、来るべきお方、私たちの唯一の救い主であることを知ることが出来るのです。
神様が何かをはっきり言ってくださり、何かを見せてくださるならば、わたしたちの信仰的な葛藤もないのに、神様はそうなさらないのです。なぜなら、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することであるからです。信じて主に自分の人生を投げる人だけが味わう神秘であるからです。主が救い主であることを確信して委ねる者に開かれる道であるからです。ですから、信じることが出来ない人にはつまずきです。見えるものを求める者にはつまずきです。しかし、信じる人には幸いな、必ず報いてくださる約束の道なのです。
私たちは知っています。 私のために、この世に来られ、私のために十字架の上で血を流し、死んでくださった主イエスが、来るべきお方であることを。真の救い主であることを知っています。
私の願いや問いに対する主イエスの答えは、私が望むような形としての答えではないかもしれません。理解できないことがあるかもしれません。しかし、確かなことは、主イエスは私たちの救い主、来るべきお方であるということです。私たちのために、この世に来られ、十字架の上で死んでくださった主イエスは私たちの唯一なる救い主です。すべての審判者として来るべき方です。そのような主イエスに希望をおくとき、主イエスが支配する愛と平和の神の国に生きることができるのです。
主イエスを救い主として告白する人だけが、信仰によって生きる人だけが死と悪に打ち勝ち、復活なさった主イエスの真の勝利に生きることができるのです。