説教要旨    詩編139・7−12     ルカ11・33−36       2023.5.28
「光が消えていないか」         (聖霊降臨日)
今日の説教の結論は、キリストがいわれた言葉、ルカ11・35「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」。
1.口語訳聖書では「あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい」とあった。昔はランプの生活であったので、夜になって暗くなれば、ランプに火を灯す生活だった。今は暗くなったら部屋に電気をつける。それと同じように、あなたの心の部屋の電気が消えていないか、調べてみよ。電気のスイッチは入っているか。電球はきれていないか。あなたの心の部屋が暗ければ、目が濁ってきて、元気がなくなるだろう。反対に心が明るいならば、目は輝いて来るだろう。
 ここでキリストは、光、という言葉で何を意図していたのか。「神」を意味している。あなたの心の中に、神を知るスイッチは入っているか。と改めてイエスは問われる。
 今日は神を礼拝する日である。今日、わたしたちがここに来たと言うことは、神を知るスイッチが入っているということである。消えかかっていたランプに油をつぎ足す日、それが礼拝の日である。信仰というランプはまた赤々と燃え出す。
 礼拝では神の言葉が語られる。詩編119・105には「あなた〔神の〕の御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」とある。どんなに暗い絶望の日々を歩むようなときでも、神の言葉がわたしたちの心に灯されるならば、その神の言葉から希望が湧き出てくる。神が見えてくるからである。神の言葉はわたしたちの人生の歩みを照らしてくれる灯火である。神の言葉は、人生の歩みにおける困難に耐えさせ、希望の光を指し示してくれる。先ほど読んだ詩編139・11ー12「闇の中でも、主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。闇もあなたに比べれば、闇とは言えない。」
 暗闇の中にあったとしても、神はわたしを見ておられる。この神と比べれば、闇ではない。暗闇の中に、神という一条の光が見えてくる。この神を見ていくことが信仰である。
2.ルカ福音書の方に戻ってみる。キリストは34節で「あなたの体の灯火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」と言っている。ここに「体」とか「全身」という言葉が使われている。34「体が暗い」とは、どういうことか。ここでの体は肉体の事と言うよりも、わたしたちの具体的な生活、具体的な生活の全体を指している。その人生の具体的な生活の行動の一番先に、キリストは「目」を挙げた。あなたの人生の具体的な行動を決めていくのは「目」だ。といわれた。それは目の視力のことではなく、あなたが何を見ているか。それをキリストは、「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい。反対にあなたの目が濁っていれば、あなたの体は暗い」と言われたのである。あなたの目が、神を見ているかどうかである。あなたが信仰の目を持って、どんな暗闇の中に置かれるようなことがあっても、その暗闇の中で輝いている神を見ていくなら、その時、あなたの具体的な人生の行動において、決して失望することなくなる。この神と共に忍耐の中をもって歩むことができる。
 わたしたちは自分の心の中に、希望の光がなくなるとき、絶えきれなくなって、自ら生きる力を失ってしまい、様々な事件になっていく。ここに、礼拝の大切さがある。わたしたちは信仰者であっても、必ず、神の言葉という油が切れて、ランプの光が弱くなり、時に消えてしまうことがある。そこに1週間に1度神の言葉の油を補給する必要があるからである。
 「だからあなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうどともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」とキリストは35節で言われたのである。くり返すが、全身とはわたしたちの全存在、全人生そのものである。詩編139編にあったように、闇が押し迫り夜のような状態になったとしても、光である神を、神の言葉を通して、神の光を見ることによって、あなたの全身、人生全体は闇に支配されることなく、全身は明るい。とキリストは語ったのである。
3.今日は教会の暦で、聖霊降臨日になっている。これは今日の週報の裏に短く書いておいたが、五旬祭というユダヤ教の祭礼があった。これは過ぎ越しの祭りから50日目の麦の収穫を祝うものであったが、キリスト者たちも集まっていたときに、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ坐っていた家中に響きわたった。これが使徒言行録2章のはじめに書いてある。この様な出来事が、ギリシャ語で50を意味する言葉からペンテコステと呼ばれるようになった。これが何であったといえば、イエス・キリストの十字架の出来事があった。これは客観的な歴史的な事実であった。しかし、それだけでは歴史の中に風化してしまう。消えてなくなってしまう危険があった。そこで神はこの御子のキリストの出来事を、全世界の人々に伝え、その恵みを全世界の人々に与らせるために、この聖霊降臨の出来事をお与えになった。これによって、人間が、いつでも、どこに住んでいようとも、誰でもキリストの十字架の救いの出来事が伝えられるだけでなく、その救いに与かっていくために、この恵みが与えられたのである。
 わたしたちの心の中にはいろんなものが支配している。良いものばかりではない。ガラテヤ書5章に肉の業として幾つがあげられている。偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。また人間は自分勝手にいろいろの神々を造ってこれを礼拝してきた。太陽を拝む民族、月を礼拝する人々、その他動物や魚やお金を神とする人々など。このようなところから、神は人類を救い出すために、御子イエス・キリストをこの世に送り、何が神であるかを、目に見える形でお示しになった。イエス・キリストは神の義と神の愛を教えるだけでなく、具体的な業(癒しや奇跡)をとおして神の存在を、神の国を示された。最終的にはそれが十字架の出来事になった。神はイエス・キリストを通して神を現された。ヨハネ1・14「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理にとに満ちていた」。ヨハネ1・18「いまだかつて、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 この御子イエス・キリストを本当に信頼し、信じ、従う。わたしたちをイエス・キリストに結びつけてくださるのが、聖霊の一番大事な働きである。「聖霊はわたしにも与えられる神の恵みである。」(ハイデルベルク信仰問答53)この聖霊の働きによって、わたしたちは誰でもキリスト者になっていけるのである。
4.目が見えず、耳が聞こえず、口が利けないヘレンケラー(1880−1968)がいた。彼女は20世紀の奇跡といわれた。キリストへの信仰を持って世界の多くの盲人たちに希望を与え、世界中を旅して救済運動に身を捧げたクリスチャンである。本当の障害は、目が見えないことでも、耳が聞こえない事でもなく、両目が見えても真実を見ようとしない、両耳が聞こえても、人の話を聞こうとしない心の頑なさである、目に見えるものは移ろいやすいが、目に見えないものは永遠に変わらないといっている。またわたしの心には、キリストを迎え入れる黄金の部屋があることを多くの人は知らない、と言っている。
 ヘレンケラーのようなクリスチャンが存在したことも、聖霊降臨の恵みである。