説教要旨 詩編5編12-13節
ルカ22章31−34節 2024.9.8
「信仰の失せぬように」
今日の説教の結論は、ルカ22章32節「しかしわたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」このところの、口語訳聖書は「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」。どこが違うか。口語訳聖書は「あなたの信仰」と訳している点である。岩波訳は「あなたの信〔頼〕が失せぬように」。フランシスコ会訳は「あなたの信仰がなくならないように」。文語訳聖書は「その信仰の失せぬように祈りたり」。原文にも「あなたの」という文字が入っている。キリストはペトロの信仰が失われないように、ペトロのために祈った。これが今日のポイントである。
1.キリストの祈りは、サタンが神に願い出ていた申し出に対するものであった。サタンはペトロの信仰を麦のようにふるいにかけることを神に願い出ていた。小麦と籾殻をふるいにかけるとは、終末において、麦は倉に納め、籾殻は消えない火で焼き捨てる(ルカ3・17)。そこから来ている。サタンはペトロをふるいにかけて、ペトロの中に信仰などは一片もないのだ、ということを証明しようとした。ペトロの信仰を揺さぶって、信仰なき者にしようというのが、サタンの目論見であった。サタンの攻撃の武器はイエスの逮捕、裁判、十字架であった。それはまだはじまっていなかった。しかしキリストはそのような事態が迫っていることを見抜いていた。4つの福音書でルカ福音書だけが、このサタンの目論見に対抗するイエスの祈りを記している。今日ここで是非読み取らねばならないのは、この点である。サタンは、ペトロが信仰のかけらもなくしてしまうまで、ペトロを揺さぶることを神に願った。それと対抗する意味で、イエス・キリストの祈りが対比されている。それが32節で「しかし、わたしは」と、「しかし」と言う言葉と、「わたし」と言う言葉が明らかに、聖書に明確に書き記されて理由である。漠然と「信仰がなくならないように」というのでなく、「ペトロ」「あなたの信仰」のために祈った、と書いてある。確かに31節では「サタンはあなたがたを」と複数形で書くことにより、これを他の弟子たちにも当てはめているが、その次に、ペトロよ、「しかしわたしはサタンに対抗して、あなたの信仰がなくならないように祈った。」
2.わたしたちのキリストに対する信仰、信頼、従順、期待、希望、愛が、この世の試練、誘惑、試みに出会うことによって、脆くも打ち砕かれることをわたしたちは体験している。肉体の弱さ(病気ひとつでも、体の障害どんな小さなものであっても)、経済不況でも、人間関係のストレスでも、あらゆる力が、神信頼を我々から奪っていく力である。キリストは種まく人の譬えを教えられた。ある種は道ばたに落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。石地に落ちた種は芽は出したが、水がないので枯れてしまった。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて押しかぶさってしまった(ルカ8)。信仰は人に踏みつけられ、空の鳥が来て信仰の種を食べてしまった。信仰の芽は出したが、信仰を養って行くことをしないので、枯れてしまった。この世の迫害や起こるとすぐつまずいてしまう。世の思い煩いや富の誘惑のために御言葉を塞いでしまう(マタイ13章参照)。このように、わたしたちの信仰はすぐに動揺してしまう。これが我々の偽らざる真の姿である。イエス・キリストは、伝道の初めに、荒野で試練を経験した。@人間生きる糧がないと生きられない。石をパンに変えてみよ。A苦しいとき奇跡を起こしてください、と願いたい。宮から飛び降りてみよ。そういう力が欲しい。Bサタンを拝めば、世のすべての国の繁栄を与える。妄想に取り憑かれる。わたしたちは生きている現実の中で、様々な力に翻弄され、イエス・キリストへの信頼から引き離されてしまう。そういう力に絶えず襲われている。主の祈りは「我らを試みに遭わせず、悪〔悪魔〕より救い出したまえ」と祈る。
3.シモンとはペトロがイエス・キリストに出会う以前の名前である。信仰を知らない、信仰以前の肉の姿。それがシモン。わたしたちはこの世の力の前に、弱いものなんだ。サタンの力に揺さぶられるものだよ。33節「シモンは主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと、覚悟しています」。人間の覚悟や決心でやれるとシモンは思っていた。それが脆くも崩れ去ることをイエス・キリストは予告された。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴く前に3度、わたしを知らないと言うだろう」。シモンの中には、覚悟や決心はあったが、それは信仰ではなかった。信仰は人間の性質や人間性の中にあるものに基づくものではない。32節「わたしは、あなたの信仰が失せないように、あなたのために祈った」。この祈りの中に信仰がある。わたしのために、イエス・キリストが祈ってくださった。この祈りこそ、わたしたちの信仰を始めるものである。それがシモンからペトロへと変えていく力である。@ヘブライ書は「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブライ12・2)と記している。わたしたちの信仰の初めに、このイエス・キリストの祈りがある。またわたしたちの信仰の「導き手」(口語訳)」であり、「完成者」である。初めであり、導き手であり、完成者であるイエス・キリスト。信仰はずっと、はじめから終わりまで、イエス・キリストによるのである。「このこと〔信仰〕は、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2・8)。A「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情〔パトスを同じくする、悲しみ、涙、痛み、苦しみ、喜びを共にできる方できる方〕できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4・15−16)。B「同様に、霊〔キリストの霊、聖霊〕も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8・26−27)。
詩編5・12「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者は、あなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」
キリストのシモンをペトロへと変えていく執り成しの祈りは、今も続いており、わたしたちを絶えず信仰へと養っている。完成させてくださる力である。
4.最後にイエス・キリストはこう付け加えた。「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」力づけるとは、この世の力によって動揺せざるをえない人間をキリストという救い主の元に堅く据える。これが、教会における伝道、牧会の課題である。教会の交わりによって、あなたの兄弟、姉妹たちを力づけてやりなさい。これはペトロに課せられた牧会的な課題だった。
使徒言行録は弟子たちの伝道の記録である。その14章で、二人〔パウロとバルナバ〕は「弟子たちを力づけ、わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」とある。励ますという漢字は万の力と書く。信仰者同士の励ましは万の力である。聖書では慰めと励ましは同じ言葉である。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中に人々を慰める〔励ます〕ことができます。」(2コリント1・4)。キリスト者の慰め、励ましの背後に、永遠なるイエス・キリストの執り成しの祈りがある。これを確信して今週もそれぞれの業に励んでいきたい。