説教要旨 エゼキエル書36章33−36節 エフェソ書5章28−33節
2026.5.3
「夫と妻」
今日の説教の結論は、5・28「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくれはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。」
1.21節から33節において、当時の社会生活の最も基本的な、3つの課題に対して、キリスト教の信仰の立場から勧めをなしている。その第一が、夫と妻という問題であった。21節で「互いに仕え合いなさい」とあり、夫と妻両方に、この「仕える」ということが求められている。最初に、22節「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。24節でも「妻もすべての面で夫に仕えるべきです」。妻に対して「仕える」ということが強調されているように読める。互いにと言いながら、一方的に妻の方に対して、「仕えること」が繰り返されて語られていように見える。ある方のエピソード。「ある高名な婦人の政治家が、教会の結婚式に出席され、式の後のスピーチの中で、夫は妻の頭である、という聖書の言葉が気に入らない、と申されました」。また別の方はこんな事例を挙げていた。何でわたしが夫に服従しなければならないのでしょうか。「そりゃ奥さん、あなたは御主人に従わねばいかん」とわたしが言うと、次のような返事が返ってきた。「従えっていうたって、夫が夫らしくないときにも、従わねばなりませんか」。この二つの事例を聞くと、なるほどそういう反応が出てくるのも分かる面があるかなと思われる。確かに「仕える」という言葉は「下に立つ」という言葉からなっている。いま能力のある女性たちが増えているので、「下に立つ」ということなどは退けていく傾向があるかもしれない。あるいは、夫らしくない態度を取り続けるようなときには、夫に従えないということも起こっている。このような個々の事例を思い浮かべることができるが、聖書では、キリストが神に絶対的に服従したように、信仰には神の前に絶対的に服従するということがある。
2.キリストは言われた。マタイ18・4「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」。キリストが言わんとしたことは、神の前に自分を低くすることができる。そのことが重要だといった。ヨハネ13・14、洗足の出来事の時、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗いあうべきです」。ひざまずいて、相手の足を洗う、そのような精神が求められている。
3.22節「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」。「主に仕えるように」とは、夫は決して主のようではないということである。「キリストのように立派な夫がいるはずはない。ここではあくまでも、キリストによる家庭を作っている。したがって、その中心は、キリストである。その時には主がまことにわたしの主であって、わたしのために救いを与えてくださったことを考えるのです。その主に仕えるのは当然なことであります。」(竹森満佐一)。わたしが結婚したとき、手掘りの木製の置物が贈られた。そこには、キリストは目に見えないけれどもこの家の主人(ホスト)であり、あらゆる食事の時に、いつも会話に耳を傾ける聞き手である、と彫られている。キリスト者が結婚する時は伴侶は二人でなく三人である。第三の伴侶はキリストである。
4.でも御言葉に従わない夫が伴侶の場合はどうなのでしょうか。1ペトロ3章1−6には次のようにある。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その
昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。」どんな能力があってもこのような仕える精神を失わないで生活していきたい。
5.次に夫たちへの勧め。25節で「夫たちよ、妻を愛しなさい」。28節では「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」とあり、「仕える」という言葉ではなく、「愛する」という言葉が使われている。この「愛する」は単に人間が愛する場合ではなく、神が人間を愛する、神の愛を表す言葉である。5・2にあったように、この愛はキリストが自らをいけにえ(祭壇に犠牲)として捧げた神の愛である。したがって、「仕える」ことも当然含まれる、いやそれ以上のものがある。1コリント13・4「愛は忍耐強い。愛は情け深い。」7「すべてを忍び、すべてを信じ、全てを望み、すべてに耐える。」そういう「愛」である。注目したいのは28節「自分の体のように愛する」とはどういうことか。この体は「肉体」を意味するのでなく、自分自身、自我を意味すると解される。それが、それに続く、夫は「自分自身を愛するように」、妻を愛しなさい。29節「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるものです」。われわれは自分自身が怪我をしたり、病気になったり、何らかの障害を身に帯び、手や足が不自由になり、うまく働くなったとしても、それにもかかわらず、われわれはそのような自分自身を担っている。愛しているではないか。むしろ、その部分を他の所以上に「わが身を養い、いたわって」(29)いるではないか。積極的にその部分を癒そうと、薬を飲んだり、リハビリや栄養を与えて「いたわっている」ではないか。妻が変わるのを待ち、妻の出方をうかがうのでなく、自分の方から何らかの犠牲を払って行きなさい。それが「愛する」ことではないか。キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9・36)。打ちひしがれた人生を立て直してくださる(エゼキエル36)キリストは、良き羊飼い(詩篇23)として、自ら「深く憐み」自分のはらわたが痛む心情となった。そこに、具体的な病やいやしの業があった。「〔あなたは〕自分〔自身〕を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」(マタイ22・39)、これら二つの戒め〔神を愛しなさい、隣人を愛しなさい〕に、律法全体と預言者とがかかっている」(40)。
最も近い隣人はあなたの妻ではないか。「子供たち」(6・4)ではないか。子供はまだ何もできない。だから「世話をし、育てなければならない」。養うとは、食べ物を与えて大きくするという意味である。母鳥がひなを温めるように、世話をすることである。豪華な食事でなくていい。日常の命を養う食卓を大事にして命を養う。
6.「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ、律法と預言者である」(マタイ7・12)。自分の経験から、また人類の歴史の経験から、積極的に学び、良き業をしていく。それが「愛する」ことである。何もしないのは、冷たい律法主義者である。イエスの良きサマリア人のたとえの結論は何であったか。律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。」「行って同じようにしなさい」(ルカ10・37)が結論ではなかったか。失敗しない冷徹な律法主義者ではなく、愛の業を積極的に自分の方からことが主イエス・キリストから命じられている。今、家庭でも学校でも、社会でも、子供たちの安全や安心が脅かされている。このまま何もしないことは許されない。「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、妻と共に生活し、命の恵みを共に受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(1ペトロ3・7)。「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3・14)。
「愛は律法を完成する」(ローマ13・10)。