説教要旨       イザヤ40・3−8        ルカ21・29−33                    2024.7.21
「神の言葉は滅びない」

今日の説教の結論は、キリストの「天地は滅びるが、わたしの言葉は決してほろびない。」この短い言葉の内に、神の権威が表されている。これはわたしたちに対する神の確かな約束である。

1.キリストは29節でひとつのたとえ話をした。イチジクの木や他のすべての木を見なさい。葉がではじめると、それを見れば、すでに夏の近いことが自ずと分かる。12・54にはこんな言葉もあった。「イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見ると、『にわか雨になる』という。実際その通りになる。また南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』という。事実そうなる。このように、空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。
11・20「しかしわたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われた。神の国のしるしは存在している。イチジクの柔らかい葉っぱが芽を出しているのを見たなら、夏が近いことを知るように、神の国が近いことを悟りなさい。だから、訴える人と速く仲直りをしなさい(ルカ12・58)とか悔い改めなさい(ルカ13・3)とか、いろいろの生き方をキリストは教えてこられた。今日のところでは、神の国、終末が近いことになれば、いろいろな社会現象や自然現象が起こってくるので不安になるだろうが、32節「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」今までもルカ21・9「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」とキリストは言って来られた。

2.われわれはこの不安な時代をどのように生きていったらよいのか。何を信じて生きていったらいいのか。それに対する決定的な確かな約束の言葉が宣言された。詩編102・26には「かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかしあなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません。」神の造られた大地さえ、滅びるときがある。しかし真の神は天地が過ぎ去っても過ぎ去ることがない。「主よ、とこしえに、御言葉は天に確立しています」(詩編119・89)。
 イエス・キリストはこれらを受けて、「わたしの言葉は滅びない。過ぎ去らない」と言われた。

3.この言葉は、ヨハネ福音書が1・1−5で語る「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。」旧約聖書の「言葉」、神の言葉は、事の葉ではなくて、事柄、出来事をも意味する内容をもっている。神が語れば、それは必ずむなしく終わらず、救いの出来事を生じさせる力を持っている。神は「光あれ」と言われると、「光があった」(創世記1・3)。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。」(イザヤ55・11)。ここで、キリストの言葉は滅びない、とある。滅びるとは過ぎ去る、という意味であると言われます。神の言葉、キリストの言葉は、わたしたちの側らをむなしく通り過ぎていく物ではない。神の言葉は、それを聞く者に必ず、命をもたらすもの、命は人間の暗闇を照らす、救いをもたらす、出来事をもたらした。その記録が旧約新約聖書である。

4.アブラハムは75歳で、「わたしが示す地に行きなさい」との「神の言葉に従って旅立った」(創世記12・4)。アブラハムへの神の祝福は変わらず、試練を受けながらも、子孫からイスラエルの民が生まれた。アブラハムは信仰の父となった。モーセは羊飼いのとき、あなたの履物を脱げといわれ、聖なる神に出会い、神からの使命を受けた。神はモーセを鍛錬し、モーセはイスラエル民族の出エジプトの業に仕えた。ヌンの子ヨシュアは、エリコの町の城壁を1周し6日間続けるよう命じられ、遂に城壁は崩れ落ちた。預言者エレミヤは陶器の家に行くことを命じられ行った。粘土で作っても気に入らなければ自分の手で造り直していた。神は言われた。粘土が陶工の手にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。わたしはひとつの民や王国を断罪して、抜き、壊し、滅ぼすが、悪を悔いるならば、思いとどまる。エレミヤはそのために、井戸の中に放り込まれたこともあったが、神の守りにより救い出された。
 新約聖書全体は、イエス・キリストの言葉と業を、具体的に表しています。イエス・キリストの言葉は、ひとつひとつ、神の権威を与えられていたので、そこに数々の癒しが生まれたのであった。徴税人レビが、イエス・キリストに従う場面がある。マルコ2章。「イエスは、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になって「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。「徴税人はそれ以前からすでにイエスを知っていたの出会って、それ以来、イエスの招きに従う用意ができていたのではないか、という愚問が提出される。しかしまさにこの点については、聖書のテキストは頑固に沈黙を守っている。テキストの中心的課題は、招きと行為との全面的に直接的な対向関係なのである。教師や模範としてではなく、キリスト、すなわち神の子として、イエスは服従へと招きたもう。こうして、短い聖書のテキストが宣べ伝えていることは、イエス・キリストと人間に対する要求であって、それ以外の何ものも宣べ伝えられてはいない。視線を注ぐべきは、弟子対してではなく、ただ招きたもうお方とその全権である」。 「生きたイエス・キリスト不在のキリスト教は、必然的に服従のないキリスト教に留まり、服従のないキリスト教は、常にイエス・キリスト不在のキリスト教である。そういうキリスト教は抽象的な観念であり、神話である。服従について正しく語られるところで、仲保者イエス・キリスト、神の子について語られる。神にして人なる仲保者のみが、服従へと招きうるのである。」(ボンフェファー)イエス・キリストの言葉は、滅びない、過ぎ去っていかないで、わたしたちの暗闇を照らし、命を与えてくれるものである。それは活ける人となりたもうた神の子だからである。

5.先週二つの葬儀に参加したが、この教会で育った増田将平牧師につき、1ことだけ紹介したい。この青年は52歳で、2年間ガンを患った。しかしその最期に家族に見守られて、ヨハネ福音書17章を読んでもらったという。それはイエス・キリストの最後の祈り、大祭司の祈りとも言われる部分であった。イエス・キリストの祈りはこうであった。「彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。真理によって彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」キリストは神の言葉そのものであり命、愛、光である。