説教要旨 詩編7・1−4 エフェソ5・6−14 2026.4.12
「光の子として歩め」
今日の説教の結論は、エフェソ5・8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。
1.先週はイースター、主イエスの甦り、復活を記念する礼拝であった。今日の聖書の御言葉はそのイースターの恵みに立って、あなた方は「光の子」として歩み続けなさいと語っている。イースターは先週で終わったのでなく、そのイースターの恵みの中を歩み続けよ命じている。よくキリスト教の幼稚園でも子供たちに分かりやすいので、この言葉が覚える聖句として選ばれている。しかし子供たちもいつも元気で、はつらつとして、登園できるわけではない。大人も同じである。「以前は暗闇でした」とある。ある方はこう書いている。「信仰者には、妙に明るい人があります。明るいことは結構ですが、不自然に明るいのはおかしいと思います。この世には、明るくないことが無数にあります。それと無関係に自分だけがニコニコしているのは、健全とは言えないでありましょう。光は闇を知っているのです。あえて言えば、闇があるから光がある、といえる。もちろん正しくは、光があるから、闇があるに違いない、闇のことが少しも分からないで、光を知ることはできない。それは誰よりも、自分自身について言えることである。われわれ自身は、明るくはないのです。少なくとも、暗い部分が少なくはないことは事実である。〔人間には〕抜きがたい悪がある。罪がある」(竹森満佐一)。すぐ前の5節には「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神の国をを受け継ぐことはできない」とある。更に4・31には「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」。なかなかこうできない現実があることをわたしたちは知っている。しかしここで注目したいことは、聖書はただわたしたちに、光の子であれ、と言っているのではない。8節に「今は主に結ばれて、光となっています」とある。
2.「キリストに結ばれて」と訳されているのは、元の言葉では「キリストにあって」とか「キリストの中で」という言葉で、口語訳聖書では「キリストにあって」とほとんどの箇所で訳されていた。「キリストにあって」とはどういう意味なのか、という点を一歩踏み込んで、それはキリストに結ばれて、具体的には洗礼においてキリストに結びつけられる、キリストとの絆が結ばれる、ということから、この「キリストに結ばれて」という訳語になった。最近の「教会協同訳」ではまた「キリストにあって」という口語訳が復活している。わたしは「結ばれて」という訳語がいいと思う。この「キリストに結ばれて」というのが「決定的な変化点です。新約聖書の中で最も重大な御言葉と言ってもよいでしょう。その時、闇の人が光に属し、光の人、光の子に変えられる。転換させられる。具体的には洗礼を受けて、キリストの中に入れられること」(近藤勝彦)である。キリストが光であるというのは、クリスマスの出来事を説明するときに、ヨハネ福音書1章4節で「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とある。これに対して、イースターにおいても、今日の箇所では最後の14節で、「死者の中から立ち上がれ、そうすれば、キリストはあなたを照らされる」という言葉が引用されている。イースターは特に死に対して向けられた光が指摘されている。それは実際の死だけでなく、同時に人生の歩みの中で、暗く、死んだような状態に対しても言われている。うずくまって下を向いている状態から、立ち上がってキリストに顔を向けよ。どんなに外に光が存在していても、暗い部屋の中に閉じこもったままでは光は入ってこない。立ち上がって、部屋のカーテンを開けるとき、光が射しこんで来る。光源であるキリストから離れるなら、闇に過ぎなくなる。
3.新約聖書で、律法学者やファリサイ人たちが、イエスを陥れてるために、一婦人を姦淫の現場で捕まえて、イエスと会衆の前に連れてきた事件があった。もしイエスがこの婦人を石で殺せと言えば、「あなたの隣人を愛せ」(レビ19・18)という律法に違反することになる。反対に「この女を許せ」といえば、律法違反(レビ20・10、申命記22・22)として裁判所に訴え、イエスを死刑に処するという魂胆が彼らにあった。しかも男を逃がし、女ひとりをなぶりものにするという不法を持ち込んだ。自分の罪の自覚に震えている婦人を悪用する卑劣な態度に主イエスはどう対処したのだろうか。主は当時の社会状況に心痛め、怒りと悲しみの情を抱いただけではなかった。地面に何か書くことによって人々の注意をこの婦人から自分に向けさせた。沈黙していたイエスに対して、いら立ったファリサイ人は執拗に問い続けた。「どうするんだ」という罵声が飛び交う。イエスは立ち上がって、彼らの顔を睨みつけながらいった。「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げよ」。これを聞いた者は年長者から始まって一人、また一人と立ち去ってしまった。イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」それに続けて、ヨハネ福音書はこう書いている。イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。この婦人はマグダラのマリアであると学者は推定してる。マグダラのマリアは、イエスの十字架の後、イエスの墓に行ったひとりであり、そこで復活の主に出会った婦人である。まさに、暗闇の中にうずくまっていた婦人が、顔をあげて人生の、生きる命の主イエスの御業によって、光として来られた救い主に出会って救われた。このイエスに従うとき、「イエスと結び合わされる」時、「イエスにあって」生きるとき、われわれは闇の世にあっても、なお光の子とされる、道がここに備えられている。
4.われわれの現実においては、この婦人ようなことはまれであろうが、われわれも人間関係の中で人々のいじわるや攻撃にあったりして、自分自身を責めたり、自分が暗闇の中に落ち込んでいくということもある。礼拝は毎週この光の主に出会っていく時である。すぐにわたしたちは暗闇に追いつかれてしまう。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい・・光の子なるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12・35)。わたしたち自身の人生の光があるうちに、キリストという光を信じなさい。悪魔はキリストという光をすぐに消そうとして、わたしたちを暗闇に閉じ込めてしまうために、食い尽くすべきものを求めて探し回っている(1ペトロ5・8)。「あなたがたは、聖なる国民、神のものとなった民です。それはあなたがを暗闇の中から驚くべき光の中の中へと招き入れてくださった方の力ある業」(1ペトロ2・9)を聞くのが礼拝であり、それを広く伝えるの教会の伝道である。詩編27・1「主はわたしの光。わたしの救い。わたしの命の砦(難攻不落の強い要塞のよう)、さいなむ者が迫り、わたしの肉を食い尽くそうとして、わたしに向かって戦いを挑んできても、わたしの心は恐れない。父母がわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださる」。
5.光の子はどのように生きていったら良いのか。10節「何が主に喜ばれるを吟味しなさい」。喜ばれるとは、神に受け入れられる供え物の儀式の用語である(ローマ12・1、フィリピ4・18)。カインとアベルの供え物を見よ。神は二人の捧げる心を見られた。カインの心にあった嫉妬と憎しみが殺人を引き起こした(創世記4)。実を結ばない暗闇の業(日常生活で悪い言葉や行為)でなく、善意、誠実、真実という業を献げているかどうか、神の前に各自検証、吟味しよう。光の子とされた者としてして今週も真実に歩もう。