説教要旨 詩編62・2−9 ルカ23・1−12 2024.10.20
「真理の王キリスト」
今日の説教の結論は、ルカ23章3節 そこでピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。」このなんとも曖昧なイエスの答えこそ、今日の結論である。
1.というのは、そこには二重の意味が込められていた。一つは文字通り、この世の「ユダヤ人の王」もう一つは信仰的な意味での苦難の王、この二重の意味がある。一般の人々はこの世の政治的な王しか知らない。しかし聖書は苦難の王イエス・キリストの存在を語っている。この点を今朝、わたしたちは捉えていきたい。ここで尋問をしたのは、ポンテオ・ピラトというローマ皇帝の代理者、総督と呼ばれていた。このポンテオ・ピラトという名前は、その後のキリスト教徒の信仰告白である使徒信条にも明記され、いまもわたしたちもその名を発音し、忘れないものとなっている。その名が書き残されたことは、イエス・キリストの史実性を示し、イエス・キリストの十字架刑の決定の事実は、歴史上疑うことのできない事実であったことを示す。またキリストの福音が世界中に広まっていくことになった事実も示している。当時ユダヤの国を支配していたのはローマ帝国であり、ローマ政府は地中海沿岸のエジプトを含むアフリカ、マケドニアや小アジア一帯、ガリヤやイスパニアまで広範囲に支配していた。各地域にはそれぞれの宗教が存在していたが、ローマ政府はそれぞれの民族の宗教には干渉しない、宗教寛容政策をとっていた。ユダヤでは、祭司制度や律法学者たちの宗教体制が生きていた。しかし政治的な最終決定はローマ政府から派遣された総督が行っていた。特に死刑執行の決定はユダヤ側にはなく、支配者であるローマ政府の総督ポンテオ・ピラトによってなされることになっていた。ユダヤの宗教会議(サンヘドリン)は、イエス憎し、イエスを死刑にして欲しいと総督に訴えた。それが2節「この男(=イエス)はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることがわかりました。」@我が民族を惑わすとは、イスラエルの宗教、唯一の真の神、ヤハウエへの信仰をねじ曲げている。Aイエスが皇帝に税を納めることを禁じた。事実無根。20・25で1枚のデナリオン銀貨を指して、誰の肖像と銘があるかと言われ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエスは言われた。B22・70で、民の長老会、祭司長たち、律法学者たちが「お前は神の子か」というと、イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」と答えた。それを彼らはイエスが自ら王であると断言したと訴えた。三点ともユダヤ教の宗教に関することである。イエスにはローマへの直接の反逆罪は見い出されなかった(4、14、22節)。そこで、ピラトは最後の点を特に直接イエスに問いただした。
2.「あなたはユダヤ人の王なのか」。これに対して、主イエスは、「それはあなたが言っていることだ」と答えた。学者の説明によると、これは間接的な返答拒否と取るべきであるとあるが、69節では「人の子は全能の神の右に座る」と答えているので、内容的には自分が神の子であることを肯定している面があるが、答え方は間接的である。イエスはなぜこんな答え方をしたのか。それは直接、わたしはユダヤ人の王であると言ってしまうと、本当に言いたい内容が伝わらなくなってしまうということがあったためだと考えられる。
3.この点を明確に書いているのが、ヨハネによる福音書である。ピラトが「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねたとき、イエスは「わたしの国は、この世には属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。わたしの国はこの世には属していない。」更にイエスは言われた。「わたしは、真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」(ヨハネ18・37)ルカ福音書でも、自分はユダヤ人の王であるとは、イエスは直接は言わなかった。ヨハネ福音書でも同じである。しかし、イエスは、自分はこの世の国ではなく、神の国、神の御支配を明らかにするために遣わされた。「真理」について証をするために、この世に来た、といった。ヨハネ福音書が「真理」と言うとき、それはこの世の数学的真理や哲学的真理ではなく、神から遣わされた神の御子イエス・キリスト自身を指している。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは、父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1・14)その「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)。この真理(イエス・キリスト)はわたしたちを自由にする。サタンの支配の中に押さえ込まれていた人々を解放するために、自分はこの世に遣わされた。罪とその悲惨の中に閉じ込めている人間の解放のためにこの世に来た。これがイエス・キリストが一番言いたかったことである。この真理はユダヤ人だけに当てはまる真理ではない。イエスはユダヤ人だけの王ではなく、全世界の人々の霊的な王となるために、神から遣わされた。この点をヨハネ福音書が明確にしている。
4.キリストはわたしたちがこの世で受けるどんな苦しみや悲しみや絶望にも先だって、この世の罵り、辱め、肉体の痛みも含め、およそ人間が味わう「罪とその悲惨」のすべてを、その究極を体験された。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈りと願いを献げ、その畏れ敬う態度の故に聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり・・大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブライ5・7−10)。主イエス・キリストは、罪とその悲惨のすべてを味わい尽くし、苦難の王となった。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられた」(イザヤ53・3)だけでなく、神に見捨てられた、呪いの十字架の死を死んだ。木にかけられた十字架の死に至るまで従順であった。キリストはこのような苦しみの王となった。イエス・キリストは神の御子の栄光をすべて剥ぎ取られて惨めな辱めを受けた。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・6−8)。その苦しみの故に、苦しむ者の「永遠の救いの源」となった。キリストはこの世の政治的な王ではない。そうではなく、徹底的な苦難の僕、苦難の王となった。
5.「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者〔王〕と呼ばれている。・・しかしわたしはあなた方の中で、いわば給仕するものである。」(ルカ22・25−27)。この世の力に支配されている人間をサタンの力から救い出し、神の命に満たすために、辱めを受け、神に捨てられた方となった。このような王の姿を誰も理解できなかった。しかし人類のすべての苦難を負う王こそ、全人類の「永遠の救いの源」である。「罪と何の関わりもない方を、神はわたしたちの救いのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです。」(2コリント5・21)。「民よ、どのような時にも、神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62・9)神は人間の苦しみを担う王をこの世に遣わされた。
私たちは今週も、この苦難を負う王を信頼し、この王を見上げ、この王の前に心を注ぎ出し、神の赦しと恵みという神から来る命に満たされて、困難多い人生を雄々しく歩もう。